第96話 鷲津・丸根両砦の陥落
松平蔵人佐元康が指揮する丸根砦攻めが思いがけない苦戦に陥っている頃。同刻に攻撃を開始した鷲津砦では。
「さぁ、三河衆に後れを取ってはならぬ!逃げるやつはこの朝比奈備中守が斬り捨ててくれるわ!臆することなく、突き進めぇ!」
寄せ手の大将である朝比奈備中守泰朝の気合の入りようは群を抜いていた。今川譜代の意地を見せんと鎧兜に身を固め、大将でありながら濠際まで馬を進めて指揮を執っていた。
それだけに、鷲津砦を攻める朝比奈勢の勢いたるや凄まじく、織田兵が砦の内側より弓鉄炮で打ち倒しても、その死体を乗り越えて突っ込んでくる。
当然、朝比奈勢も木楯や竹束の陰から弓鉄炮を撃ち返しているが、何よりも突っ込んでいく遠江衆の眼は血走っており、織田兵に心的外傷を与えんばかりであった。
「叔父上、我らも負けてはおられませぬ!」
「おう、行くぞ!平八郎!」
本多肥後守忠真、本多平八郎忠勝の叔父甥は槍を手に朝比奈勢に後れを取ってはならぬと鷲津砦へと駆けだす。
「弓隊、構え!放て!」
「鉄炮、弾込め急げ!」
飯尾近江守定宗、飯尾隠岐守尚清らが柵内での弓鉄炮隊の指揮にあたり、織田玄蕃允秀敏が槍隊を指揮して柵の内側から槍の間合いまで接近してきた敵兵を叩く突くの抵抗を見せる。
織田勢の切り崩しに手間取り、なかなか砦内へ侵入できない朝比奈勢。それを見て切歯扼腕した朝比奈備中守は側にいた従者から弓と矢筒を受け取ると、改めて濠際まで突進。
柵の内で指揮するひときわ目立つ老いた鎧武者へと狙いを定め、弓を引絞る。
「くらえっ!」
まだ二十代の若き寄せ手の大将より守備隊を指揮する老将へ、狙いすました一矢が風を切って一直線に突き進む。
「鉄炮、構え!放――」
朝比奈備中守が強弓に胸板を貫かれた飯尾近江守は後ろへよろけ、仰向けに倒れ込み絶命。目の前で父親が戦死したことに嫡子・隠岐守が動揺している間に、織田兵へ恐怖が伝播。戦線の崩壊を招いてしまう。
柵が引き倒され、続けざまに城門も槌隊によって打ち破られ、砦内に続々と朝比奈勢が侵入し、織田兵をなで斬りにしていく。
「父上ぇっ!」
「隠岐守様、なりませぬ!ここはお退きくだされ!」
取り乱す飯尾隠岐守は家臣らに羽交い締めにされながら戦線離脱となる。そして、一人取り残された織田玄蕃允もまた、砦を放棄しての撤退を選択せざるを得なくなっていた。
「玄蕃允殿!」
「おお、山崎多十郎ではないか」
「飯尾隠岐守殿の隊は総崩れ。隠岐守殿は家臣どもに羽交い締めにされながら連れ去られていきました」
「さもありなん。あ奴も三十三歳となり、数多の合戦に従軍してきてはいるが、根は吏僚じゃ。戦の采配は荷が重たかろう。して、山崎多十郎。そなたはこれよりいかがする?」
「はっ、某はもとよりこの砦と命運を共にする所存。死ぬまで、今川の強者どもと戦って死にたいと」
「左様か。某はここを落ちて、殿と合流し、その後に此度の汚名挽回に臨もうと思うておる」
進む道の異なる織田玄蕃允と山崎多十郎は分かれ、織田玄蕃允は北へと退却を開始。残った山崎多十郎は一兵でも多く道連れにせんと勢いに乗る朝比奈勢を一人、また一人と屠っていく。
そんな山崎多十郎の前にまだ背丈の小さい、童というべき年頃の武者が現れたのである。
「おう、ここは戦場じゃ。童の来るところにあらず!」
「なんの、某は松平蔵人佐元康が家臣!本多平八郎忠勝じゃ!」
「ふん、随分と威勢の良いことじゃ!ここが戦場でなければ見逃してやるところだが、致し方なし!我が名は山崎多十郎!いざ、参る!」
本多平八郎が名乗るとともに槍を構えたことで、山崎多十郎も応じざるを得なくなる。しかし、勝敗など誰の目から見ても明らかであった。
なるほど確かに本多平八郎は同年代と比べれば逞しい体つきである。されど、此度本多平八郎が槍合わせをしているのは、数多の戦場を潜り抜けた大人。
圧倒的な体格差を前に、本多平八郎は終始劣勢。ついには山崎多十郎の槍先で籠手を打ち据えられ、槍を叩き落されてしまう。次で仕留めてくれんと繰り出された山崎多十郎の槍が穂先を本多平八郎は両手で必死に掴むも、後ろ向きに倒れ込んでしまう。
「へっ、このまま喉元をぐさりと刺し貫いてくれるわ……!」
山崎多十郎の持つ槍にさらなる力が込められ、穂先が出かかった喉仏にこつんと当たったところへ、別な足音が近づいてくる。
「平八郎!この……!」
「なっ!?」
眼の前で甥の平八郎が討ち取られそうになっているところを目撃したのは他でもない叔父・肥後守であった。
相手と名乗り合うこともなく、問答無用とばかりに槍を投擲。あわれ、山崎多十郎は串刺しにされ、絶命することとなった――
「げほっ、げほっ……!」
「平八郎、大事ないか!」
「お、叔父上……!」
「このたわけが!お主が討たれそうになっておるのを見て、生きた心地がせなんだ」
「も、申し訳ございませぬ……」
「謝罪など不要じゃ。ほれ、立てるか。ここはまだ戦場じゃ。強き武士となりたければ、喉元に槍先がかすったくらいでくよくよするな!」
「は、はいっ!」
平八郎は取り落とした槍を再び拾い上げ、山崎多十郎に突き刺さったままの槍を引き抜いている叔父の元へと走る。
「平八郎!」
「はい!」
「よう粘ったな。この武士の返り血を見るに、大した強者じゃ。それを相手に体格で遥かに劣るにもかかわらず、よくぞ持ちこたえた。そこだけは褒めて遣わす」
「は、ありがとうございまする!」
本多肥後守は平八郎に見えないほど一瞬だけ笑みを浮かべて、体の向きを北へ向ける。二人はそのまま、他の朝比奈勢とともに鷲津砦に残った織田兵を掃討し、辰の刻をもって鷲津砦は陥落と相成った。
一方その頃、丸根砦では織田兵を砦内へ押し込み、佐久間大学も死を覚悟させられる状況にまで追い込まれていた。
「殿!北西より煙が昇っておりまする!鷲津砦は陥落したのではないかと!」
「さすがは朝比奈備中守殿じゃ。よし、我らも遅れてはならぬ!あと一息じゃ!佐久間大学以下百余人を討ち取り、砦制圧とするのじゃ!」
城門手前まで本隊を推し進めた元康の号令は前線へと伝わり、佐久間隊との白兵戦が展開される。壮絶な斬り合いとなり、松平兵も織田兵もバタバタと倒れていく。
そんな中、砦の守将たる佐久間大学へ槍を付けたものがあった。
「我こそは松平蔵人佐元康が家臣!蜂屋半之丞貞次なり!槍合わせ願おう!」
「おう、我こそはこの丸根砦が守将、佐久間大学盛重である!いざ尋常に勝負!」
互いに鍛え上げられた肉体と槍技のすべてでもって、相手を突き伏せにかかる。
白樫の三間柄を真ん中が太くなるようにつくらせて長吉の刃の四寸ほどのを研ぎ澄ませ、紙を投げて、それを突くと、サッサと通るほどの槍先をはめ込んでもっていた蜂屋半之丞。
織田兵を次から次へと叩き伏せてきた猛将でも、佐久間大学から見ればまだまだ技が若かった。完全に突きを見切られ、かえって蜂屋半之丞が苦戦するほどとなる。
「くっ、強い……!」
「ふん、見たところ二十歳そこらの若造如きに敗れるほど、佐久間大学は落ちぶれてはおらぬぞ!」
怪力が自慢でもあった蜂屋半之丞であるが、それを真正面から相手取ってなお、喋る余裕を維持したままの佐久間大学に畏怖の念すら感じていた。それが隙となり、足を払われて転倒させられてしまう。
「ぐっ!」
「蜂屋半之丞!討ち取ったり!」
「くくっ……!」
蜂屋半之丞があわや討ち取られるというところで、佐久間大学へ狙いすました一矢が放たれる。
「うぐっ!」
佐久間大学の右肩を鈍い衝撃が襲い、染み出した血が服に染み出す。息を詰め、痛みを堪える佐久間大学の瞳は弓を構えていた老人を捉える。
「この老い耄れが……!」
憤怒が顔に現れる佐久間大学。だが、老人はそのようなことなど意に介していないかのように、再び槍を構える蜂屋半之丞を声でもって突き動かす。
「蜂屋半之丞!今じゃ!」
「おう!」
佐久間大学の注意が老人へ向けられた、ほんの一瞬。頼りがいのある老人の声に弾かれるように手元を動かした蜂屋半之丞が繰り出した槍先は見事に佐久間大学の腹部を刺し貫いていた。
「ぐはっ!ゆ、油断したわ……!」
蜂屋半之丞が一歩、二歩と佐久間大学へ詰め寄り、それに合わせて槍もより深く佐久間大学にめり込んでいく。
しばらくは足腰、そして槍柄を掴む手に剛力が込められていたが、蜂屋半之丞が散歩目を踏み込む時には何も力が込められてなどいなかった。
「敵将、佐久間大学盛重!討ち取ったり!」
拳を空へ突き出し、咆哮する蜂屋半之丞貞次の左肩を叩いたのは先ほど弓で彼を援護した老人であった。
「これは舅殿。先ほどは助かり申した」
「なんの。筧又蔵に続き、またしても娘婿を失うところであったわ」
そう、蜂屋半之丞を援護したのは大久保新八郎忠俊であった。六十一になってなお、頼もしくあり続ける老将であり、蜂屋半之丞にとっては頼れる舅であった。
佐久間大学を討ち取ってより、丸根砦を制圧するのにさほど時はかからなかった。残された織田兵は逃げることなく、殺到する松平勢によってことごとく討ち取られ、陥落となったのである。
「殿、丸根砦制圧が成せましたぞ!」
「善九郎。じゃが、すでに予定しておった辰の刻はおろか、巳の刻となってしもうたわ」
「はっ、されど制圧は成せたのです」
「それもそうじゃな。よし、朝比奈勢に後れを取ったが、丸根砦を制圧し、佐久間大学盛重以下数百の兵を討ち取ったこと、沓掛城にて朗報を待ちわびておられる太守様へお知らせせねばならぬ!」
「然らば、この榊原弥平兵衛忠政が参りまする!」
「おう、ならば太守様へ我らが戦果、しかと注進せよ!」
榊原弥平兵衛が駿馬に乗って沓掛城へと駆けだした頃、遅れて鷲津砦方面から本多肥後守忠真と本多平八郎忠勝が帰還した。
「殿、まこと楽しき初陣にございました!」
「おお、そうであったか。さすがは本多平八郎じゃ。泉下でそなたの祖父も父も喜んでおろう」
「はい!墓前にて良き報告ができまする!」
「よしよし」
無事に初陣を飾った本多平八郎が無邪気に笑うのを見て、何より無事に戻ってきたことに安堵する元康。しかし、その傍らでは少々やつれたように見受けられる本多肥後守の姿があった。
「ひ、肥後守。いかがした、鷲津砦攻めはそれほど大変な戦であったのか」
「はっ、いえ、平八郎が独断専行、某の引き留めに応じず先へ先へ行ってしまうもので追いかけるのに難儀いたしたまでにございますれば」
――なるほど、甥の身を案じ、気苦労が絶えなかったために、そのようにやつれて見えたのか。
本多肥後守の報告を聞いて、得心がいったという様子の元康なのであった。
そうして元康が本多肥後守・平八郎らの労をねぎらい、若いのに砦攻めで武功を挙げた五井松平家当主・弥九郎景忠に金盃を与えている頃、榊原弥平兵衛は無事に沓掛城へ到着し、今川三河守義元へ事の次第を報告していた。
「よし!先刻、朝比奈備中守より鷲津砦陥落の報せが入ったが、蔵人佐も丸根砦を攻め落としたか!」
元康の使者・榊原弥平兵衛よりもたらされた戦局は優勢であるとの知らせを受けて上機嫌な義元は、ついに沓掛城から本隊を率いて出陣する。
「朝比奈丹波守!」
「ははっ!予定通り、桶狭間山へ向かう!本隊へ出陣を通達せよ!」
「承知!」
大高城周辺を制圧し、優位に立ったことを確信したことで、今川義元の本隊も沓掛城を出陣。錦の鎧直垂を羽織ったには胸白の具足で身を固め、愛刀の宗三左文字に、自慢の脇差しを佩いている。
――これぞ海道一の弓取り。
そう言わしめる風格を身に纏う義元率いる本隊は東浦街道を南南西へ進み、大脇村から大高道に入り西進、近崎道から桶狭間山に向かって北上するという当初の行軍路でもって現在時刻十一時頃に桶狭間山に到着したのである。
「太守様、お越しを今か今かとお待ちしておりました」
「瀬名陸奥守、本陣設営大儀であった」
「ははっ、勿体なきお言葉!恐悦至極に存じます!」
「うむ。そなたには一足先に大高城へ向かって貰いたい」
「はっ、大高城に?」
「うむ。その途上で松平蔵人佐に大高城へ入るよう我が命を伝えよ。代わって、大高城を守る鵜殿藤太郎には鷲津砦を落とした朝比奈備中守と合流し、ただちに中島砦攻めと鳴海城救援に向かうよう下知せよ」
「しかと拝命仕りました!では、失礼いたしまする!」
瀬名陸奥守へ下知した後、満足げに白扇を広げた義元の目に映る空は命運を分ける曇天模様であった――




