第94話 開戦!丸根砦攻め!
明けて五月十九日の丑の刻。速やかに大高城を出陣した軍勢があった。その軍勢が向かう先は大高城を牽制する目的で築かれた丸根砦。
「殿、陣立てはいかがいたしましょうか」
「ふむ、先ほどの兵粮入れで両翼を担った青野松平、深溝松平、作手奥平の軍勢に先陣を命じることはせぬ。脇備えとして本隊の左右に陣取らせることとしよう」
「となれば、残るは長沢松平、大草松平、五井松平となりまするな」
先ほどの大高城への兵粮入れにおいて手柄を立て損なった宗家家臣らは切歯扼腕していることから、彼らも先陣隊に加えざるを得ない。彼らを先陣へ送り出し、三家のうち一家を第二陣として備えさせたい。
「蔵人佐殿!」
「おお、弥九郎殿ではござらぬか」
「丸根砦攻めでは我らも第一陣にお加えいただきたい!五井衆の引具して武功を立ててご覧にいれまする!」
「よかろう。然らば、五井松平家は第一陣としよう」
「お願いを聞き届けていただき、まこと感謝申し上げまする!」
五井松平家の若き当主・弥九郎景忠自らの申し出により、五井松平家の軍勢が第一陣へ加わることとなった。そこへ続けて、大草松平家当主・善兵衛尉正親が駆け寄って来る。
「蔵人佐殿!未だ手柄を満足に挙げられておらぬ、我ら大草松平家にも手柄を立てる機会をお与えくだされ!」
「よし、では善兵衛尉殿の申し出を容れ、五井松平とともに第一陣としよう。無論、当家からも数多の強者を送り込むゆえ、案ずることはございませぬ。このような砦攻めで手こずっては松平が侮られることにもなりまする。ゆえ、辰の刻までに陥落させる気概で臨んでいただきたい」
「お任せくだされ!大草衆の力、見せつけてくれましょうぞ!」
頼もしい大草松平正親の言葉を聞き、元康までもが自信を得た。宗家からは誰が第一陣として斬り込むかなど、急ぎ選抜したうえで、長沢松平家と青野松平家を第二陣、深溝松平家と奥平家を第三陣とする布陣で一挙に攻めかかる手筈を整えた。
そんな本陣へ、本多肥後守忠真と元服したての本多平八郎忠勝が呼び出された。
「殿、お呼びにございましょうか」
「うむ。鷲津砦攻めに当たっておられる朝比奈備中守殿が元へ御身らへ伝令を頼みたい。四半刻後の寅の刻より同時に砦攻めを開始しよう、と申し入れたい」
「ははっ!たしかに承りました!ならば、伝令に走った後は、こちらへ戻って参ればよろしゅうございますか」
「否、肥後守と平八郎は朝比奈備中守殿がもとで鷲津砦攻めに加わってくれ」
「そ、それは何故に!?」
大切な甥・平八郎忠勝の初陣。主君である元康のもとでしっかりと飾らせてやりたい。そう考えていた本多肥後守にとって、元康から発された言葉は寝耳に水。仰天して理由を問いたくなるのも無理はなかった。
「朝比奈備中守殿は今川家の譜代家臣。我ら三河衆のことを甘く見ておられる節がある。それゆえに、松平家中随一の武者である本多肥後守とその甥の平八郎が奮戦することで、三河にはこれほどな武者がいるのだと見せつけて参れ」
「な、なるほど。家中随一の武者と殿から仰られては引き下がれませぬ。然らば、敵も味方もあっと言わせる戦をしてみせましょうぞ」
「よし、その意気じゃ。それで朝比奈備中守殿からそなたほどの武芸者は松平家中にどれほどおるかと言われることあらば、そなたが知る限りの武士の名を挙げて参れ」
「はっ、読めましたぞ。松平家中にはこれほどの槍働きができる者が綺羅星の如くいるのだ、ゆえに三河衆を侮るでないぞと思い込ませるのでございまするな」
元康はこくりと頷いた。ここで、朝比奈備中守泰朝という今川譜代家臣の中でも軍事面で筆頭に挙げられる人物に、松平は侮れない相手であると牽制する。これは元康にとって、今後の今川家中での発言力を高めるためには非常な重要な役回りであった。
「平八郎、殿のもとで合戦ができぬとは口惜しいが、これほどの大役を我らに任せていただけたのじゃ。全うせぬわけには参らぬぞ」
「はい!某にも、殿の仰ることが飲み込めました。必ずや、朝比奈勢の度肝を抜く武功を挙げてみせまする!」
「よし、わしが伝えたかったことが両名はしかと分かっておるらしい。では、しかと頼むぞ」
「はっ!よし、平八郎!ここから朝比奈殿の陣中まで駆けるぞ!」
かくして、本多肥後守と本多平八郎の叔父と甥は元康の本陣を飛び出し、朝比奈家の陣中へと開戦する旨を伝えに走ったのである。
「殿、先ほど本多肥後守殿と甥の平八殿が駆け出してゆきましたが……」
「おお、与左衛門か」
本多の叔父甥が駆け出したのを目撃したらしい高力与左衛門清長。三十一となり、さらなる冷静沈着さを見せる彼が考えていることは、元康にも読めた。
「案ずるでない。両名は抜け駆けしようというのではない。わしから四半刻後に丸根砦攻めを開始するゆえ、時を同じゅうして鷲津砦攻めに移っていただきたい旨を伝える使者を命じたまで」
「なるほど、左様にございました。然らば、四半刻後に砦攻めに入る旨、陣中に急ぎ伝達して参りましょう。それと、先ほど新九郎叔父より聞いたことが一つ」
「ほう、何ぞ敵方に不穏な動きがあるか」
「はい。幾たびか、北の方へ砦から早馬が出ており、清洲へ何らか報せを送っておるのではないかと」
「ふむ、この時期で早馬となれば、清洲へ援軍でも要請したのであろうか」
「新九郎叔父は殿と同じく援軍要請の節を疑っておりました。ゆえに、短期で攻落させる必要があろうとも申しておりました」
高力与左衛門の叔父・新九郎重正の申すことは道理であった。それに、元康としても丸根砦ごときで幾日もかけてはいられず、辰の刻頃には陥落させたいと考えていた。
「うむ、相手はあの織田信長じゃ。動くとなれば援軍を急派してくる可能性はある。ともすれば、ここで戦線が膠着してしまう恐れもある。第一陣へ四半刻後に攻撃を開始し、辰の刻まで攻め落とす旨、しかと伝達を頼む」
「はっ!承知いたしました!第二陣、第三陣へも某が参りましょうか」
「いや、別に使いの者を出すゆえ、与左衛門はすぐにも第一陣へ走るのだ」
「ははっ!」
第一陣へ高力与左衛門を向かわせると、元康は近侍として傍に控える平岩善十郎康重と阿部善九郎正勝を呼び寄せ、善十郎を第二陣、善九郎を第三陣へ走らせる。その直前、伝えたらすぐに戻って来るように、とも付け足した。
「殿のことは、この米津藤蔵がしかと守りまするゆえ、ご案じなさいますな」
「おお、頼みにしておる。四年前に大樹寺で会うた折、目がかすむと申しておったが、あれからどうじゃ」
「はっ、あれより良くも悪くもなっておりませぬ」
「左様か。何はともあれ、護衛をしかと頼む。わしとて剣術に覚えがないわけではないが、そなたほどの猛者が傍におるのとおらぬのとでは大違いじゃ」
「ははっ!殿のご期待に沿えるよう、しかと励みまする!」
今年で三十七となった米津藤蔵常春。元康の父・広忠に仕え始めて二十四年が経つという古株である。そんな彼が側で得物の槍を握って警固してくれているというだけで安心して、どっしり構えていられるのだ。
「第一陣には松平忠倫を討った筧平三郎と平四郎の兄弟に弟の又蔵正則、平三郎の嫡子である重成といった筧一族。蜂屋半之丞、松平重利、高木長次郎、渡辺源蔵、七之助の長兄である平岩五左衛門、与左衛門の叔父の新九郎といった者らがおる。第二陣には老練な大久保新八郎と石川彦五郎もおるゆえ、まず敗退などあり得まい」
名を挙げた武者たちの顔を思い浮かべる限り、松平家中でも武芸に優れ、体力気力ともに旺盛な者らばかり。これならば、危うい戦とはなるまい。
「殿、青山藤蔵にございまする。まもなく、攻撃を開始時刻となりまする」
「よし、各隊ともに指示は伝えてある。まずは各隊の奮闘と敵の出方を見ることとしようぞ」
「敵はあの佐久間大学盛重。織田信長の信頼厚き猛将にございまする」
「うむ、くれぐれも油断するなと申したいのであろう。わしも分かっておる。あの織田信長という男が前線へ配備した強者なのだ。油断しては危ういことになることくらい、理解しておるゆえ案ずるな」
今年で五十歳となる老臣・青山藤蔵忠門の忠告について、元康とて理解していないわけではない。されど、元康の『理解している』と青山藤蔵の伝えたいことに矛盾があったことを、この後、元康は思い知らされることとなる。
「よし、刻限じゃ!攻撃を始めよ!」
元康の号令が前線へただちに伝わり、丸根砦攻めが開始された。
「よし、兄者!織田の奴らに一泡吹かせてやろうぞ!」
「おう!我ら筧兄弟の武勇、見せつけてくれようぞ!よし、参るぞ!」
三十五歳となった筧又蔵正則の言葉に、四十九の長兄・平三郎重忠は獲物を見つけた虎のように獰猛な笑みを浮かべる。その傍らに控える三兄弟の真ん中・平四郎正重と平三郎の嫡子・重成も得物を握りしめる手に一層力が籠もる。
それは筧一家に限らず、渡辺源蔵や蜂屋半之丞ら若武者にも同様のことが言えた。かくして、松平勢は大挙して丸根砦へと攻めかかっていく。
同刻、鷲津砦前に布陣する朝比奈備中守泰朝の陣では――
「おお、使いに参った本多とやらが申しておった通りじゃ。南東より血に飢えた武者どもの咆哮が聞こえて参ったぞ!よし、三河衆ずれに手柄を挙げられては叶わん!我ら今川譜代の底力、見せてくれるわ!全軍、鷲津砦へ攻めかかれ!」
朝比奈備中守の号令一下、朝比奈勢もまた鷲津砦へと猛進していくのであった。
「玄蕃允殿!朝比奈勢が向かって参りましたぞ!」
「おう!近江守殿!貴殿は嫡子である隠岐守殿と守備に当たってくだされ!某はただちに清洲城へ使いを出し、今一度救援を求めてみることとする。さほど時はかからぬゆえ、防戦してお待ちくだされ!」
「うむ、承知ぞ!よし、隠岐守!参るぞ!」
「はい!父上!」
織田信秀の従兄弟にあたる飯尾近江守定宗とその嫡男・隠岐守尚清が攻め寄せる朝比奈勢から鷲津砦を守り抜くべく、迎撃に当たる。
西から攻め寄せる敵を防いでいる間に、織田玄蕃允は東から救援要請の使者を派遣し、すぐさま前線の飯尾父子に合流するのであった。
かくして、まだ陽も昇らぬうちから丸根砦攻め、鷲津砦攻めが開始された。鷲津砦からだけでなく、丸根砦からも本格的に攻撃が開始されたことを伝える使者が清洲へ向かったことは言うまでもない。
そんな丸根砦は鷲津砦のような慌ただしさはなく、松平勢が砦目掛けて突っ込んでくるのが見える中でも、それは変わらなかった。
「敵は二千五百ほど。対する我らは五百。到底このような砦で守り切れる数ではない。ここは砦を捨てるが兵道というもの。一時撤退すべきであろうか」
「いや、佐久間大学殿!ここは撤退抗戦あるのみじゃ!敵もすでに向かってきておるのじゃ!」
「ふむ、砦を守るか。服部玄蕃、そちの申す通りじゃ。よし、かくなるうえは、この佐久間大学盛重も覚悟を決めた。せめて、一兵でも多く敵を道連れにしてくれる!服部玄蕃、そなたは城門前に兵を集めよ。某は弓と鉄砲に長けた者らを柵の側へ集めて迎撃する。よいか、某が合図したら――」
丸根砦に立て籠もる織田軍の作戦が定まった頃、松平勢の戦闘は砦の策まであと二町ほどに迫っていた。そこまでの障害は門や柵の四間手前に設けられた幅二間、深さ三尺の濠のみ。
「平四郎兄者、大草松平の軍勢は門の手前まで迫っておる!我らも濠を越えて柵を引き倒し、中へ突入しようぞ!」
「おう、言われるまでもないわ!じゃが、ちと敵が静かすぎるのが気にかかる」
「へっ、臆して逃げたんじゃろ!一番乗りは筧又蔵が貰った!」
筧又蔵が濠際まで迫った刹那、松明の灯りも消え、静寂そのものであった砦内から火薬の香りとともに轟音が響く。
「今じゃ、鉄砲隊放て!」
他でもない、守将・佐久間大学の号令で鉄砲足軽らによる一斉射撃が炸裂する。堀の対岸まで六間という距離から放たれた鉄炮玉。
どれだけ鉄砲を撃つのが下手な足軽でも一発一発を確実に松平兵に命中させられる距離に迫ってくるまで佐久間大学は待っていたのだ。
その轟音とともに、弾丸に体を打ち抜かれた松平兵の断末魔が響き渡る。無論、それは先頭にいた筧又蔵とて例外ではなかった。
「又蔵!しっかりせい!」
「あ、兄者……」
それ以上、何も言い残すことなく、筧又蔵正則は絶命していた。
そこへ、先ほどと同じ男の声が聞こえた直後、砦内から何十もの矢が飛来し、大草松平勢が攻めかからんとしていた城門までもが開き、三百を超える織田兵が打って出てきたのであった――




