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不屈の葵  作者: ヌマサン
第4章 苦海の章
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第78話 久々の三河入りに向けて

 戦評定にて義元の尾張表への出陣にかける想いと不安。そして、己への期待と願いを受け取り、元康は自身の屋敷へと帰宅した。


「鳥居彦右衛門尉、至急皆を集めてくれ。広間にて、皆に話さねばならぬことがあるゆえな」


「はっ、承知しました!」


 駿府館まで供していた鳥居彦右衛門尉元忠を走らせ、家臣一同に招集をかける。そして、元康自身は正室・駿河御前の部屋へと足早に向かった。


「瀬名!瀬名はおるか!」


 妻の名を呼びながら障子戸を開け放つと、そこには遅めの朝食を食べ終えたばかりと見受けられる駿河御前の姿があった。


「これは殿。評定の方はいかがにございましたか」


「おお、食事を済ませたばかりのところ、相済まぬ。さすがは太守様じゃ、皆の心を一にしてみせた」


「それはそれは。さすがは太守様にございますなぁ」


「うむ。それでな、わしら三河衆は先陣を承った。これは予め想定しておったことゆえ、案ずることはない。それでな、太守様より一度三河へ帰国し、春の出陣に向けて、現地で調整をして参れとの内命を賜った」


「内命にございますか。ならば、すぐにも岡崎へお発ちになられまするので?」


「うむ。誰を連れて行き、誰を駿府へ残すかは今から家臣一同と話し合うこととなるが、それが終わったならばまた伝えに参るでな」


「はい。では、殿が参られるのを横になり、お待ちしております」


 元康は駿河御前にニコリと笑みを向けると、慌ただしく退出していった。そろそろ広間に家臣らが参集しだす頃であろうと思ってのことである。


 案の定、気の早い者らは広間に入り、元康がやって来るのを今か今かと待ちわびていた。


「おお、殿!お待ち申しておりました!」


「うむ。これに集まったは石川与七郎と酒井左衛門尉、高力与左衛門の三名のみか」


「ははっ!されど、今しばらくいたせば、酒井雅楽助殿を鳥居彦右衛門尉らが連れて参るかと」


「そうか。では、今しばらく皆の参集を待つとしようぞ」


 石川与七郎数正とのやり取りを終えた元康は高ぶった気を静めるため、目を閉じて黙想する。すると、幾重にも重なった足音が広間へと近づいてくるのがいち早く感知できた。


「殿、遅くなり申し訳ござらぬ。酒井雅楽助、ただいま参上仕りました」


「うむ。急な参集にもかかわらず、皆よく集まってくれた」


 元康が広間を見回せば、酒井雅楽助政家のほかにも、近侍の鳥居彦右衛門尉、平岩七之助親吉、平岩善十郎、渡辺半蔵守綱、天野三郎兵衛景能、阿部善九郎正勝らが座していた。


「うむ。では、さっそく本題に入るとしようぞ」


 元康は春に尾張表へ出陣すること、三河衆が先発隊となること。そして、松平宗家の当主として他の松平家や岡崎にいる重臣らとの調整を兼ねて、一時三河へ帰国することなどを伝えていく。


 元康が話し終わるのを待ち、忠臣らは一様に口を開いた。一体、どのような言葉が飛び出すのかと元康は彼らの口の動きを注視していたが、その言葉は元康の思惑とは異なるものであった。


「殿が先陣とは名誉なこと、何より相手は憎き織田じゃ。ついでに憎い水野下野守ともやり合う機会があるやもしれぬ!」


「殿!先鋒の先鋒はこの渡辺半蔵にお命じくだされ!」


 酒井雅楽助は先鋒を名誉なこととして受け止め、酒井左衛門尉や石川与七郎もそれに意義を唱える様子はない。それどころか、先鋒を名乗り出た渡辺半蔵に続き、我こそはと名乗り出る者が後を絶たない。


「誰が先鋒を務めるかは、後ほど決めるといたそうぞ。ひとまず、わしは岡崎へ戻るにあたって、誰を伴ってゆくか、これを決定したい」


「左様にございまするな。然らば、この雅楽助が留守を承りましょうぞ。石川与七郎と天野三郎兵衛を残してくだされば十分にございまする」


「ふむ。では、酒井左衛門尉と高力与左衛門を筆頭に、阿部善九郎、平岩七之助、同じく善十郎。そして、鳥居彦右衛門尉、渡辺半蔵を伴って参るとしようぞ」


 これは元康が考えていた以上にあっさりと決定した。それには、真っ先に酒井雅楽助が発言し、残る者を指名したことが大きかった。でなければ、それこそ収拾のつかない事態となっていたことは想像に難くない。さすがは最年長者である。


「では、殿。出立はいつにいたしましょうか」


「うむ。まだ小正月が控えておるゆえ、それも一段落するであろう、今月二十日頃はいかがであろうか」


「それがようございましょうな。では、殿が岡崎に参る旨、早馬をもって岡崎に告げておくことといたしまする」


「そういたそう。それこそ、渡辺半蔵に任せたいと思うが、いかがであろう。先に岡崎へ入り、植村新六郎と合流してわしを出迎える支度を進めておいてはくれまいか」


「ははっ!殿の仰せとあらば、喜んでお引き受けいたしまする!」


 渡辺半蔵が素直に受けたことに、早馬を飛ばすことを提案した酒井左衛門尉はニヤリと笑みを浮かべつつ、具体的にどのことを誰が受け持つかといったことまで、順調に決まっていったのである。


 そこへ、訪問客の来訪を侍女が告げに来たのである。


「ほう、来客か。して、誰が参ったと?」


「はい。源応尼さまが参られてございます」


「おお、おばばさまが参られたとな!よし、わし自ら書院へと案内いたす。みなも楽にして良いぞ。わしは席を外すゆえな」


 そう言い残して、高まる期待を胸に元康は玄関へと向かう。そこには、六十九にもなる老尼の姿があった。


「おばばさま!」


「これは蔵人佐殿。そうまで急いで参られずとも」


「いやいや、おばばさまを待たせるわけには参らぬ。ささっ、積もる話は書院にて伺いまする」


 元康は外祖母・源応尼の手を引き、書院へと向かっていく。急ぎ向かいたい気持ちをぐっとこらえ、老いた祖母の足取りに合わせ、ゆっくりと向かっていく配慮を見せる。


「広間には家臣らが評定しておりまするゆえ、こちらの書院にておくつろぎくださいませ」


「これはかたじけない」


 後に知ったことであるが、幼少の竹千代の教育にあたるよう今川義元に申し出てくれたこともあった外祖母・源応尼。そのような孫想いの祖母を持てたことは僥倖であると、年が経つにつれて感じていたのである。


「そうじゃ、おばばさま。元康は今月下旬ごろに、一度岡崎へ帰国する許しを太守様からいただきました」


「そうでございましたか。それは良きお計らい。蔵人佐殿は今川の太守様より格別のご高配を賜っておられるご様子。妾も安堵いたしました」


「その御恩に報いるためにも、一層の奉公をしてまいる所存にございます。して、おばばさま。わざわざ我が屋敷を御尋ねあったは、何事にございましょうか」


「ええ。それは、そなたの母よりの書状を渡すためじゃ」


「母上から?」


 源応尼が懐から出した書状は紛れもなく、元康の生母・於大の方からの書状であった。


「して、母からは何と」


「蔵人佐殿、何故書状を読まれぬのですか」


「決まっておりまする。我が母は敵方の久松佐渡守へと嫁いでおりまする。それを母よりの書状というて、喜んで手に取るわけには参りませぬ。この松平蔵人佐元康にも立場というものがございますれば」


「……では、妾はこれより独り言を申しまする。決して相槌を打ってはなりませぬぞ」


 元康はそれに頷くことはなく、静かに目を閉じるのみにとどめた。そして、源応尼と向かい合うのではなく、一人縁側へと向き直っていく。それを見やりながら、源応尼はゆっくりと乾いた唇を開いた。


 祖母の口から発される言葉。その一つ一つが遠く駿府に住まう我が子への愛情に溢れたものであった。宛先はあくまでも実母・源応尼であるが、内容は元康宛であることは明白であった。


 まだまだ冬の寒さが続きそうであるから体調にはくれぐれも気をつけること。何か困ったことがあれば、祖母の源応尼に相談すること。阿古居城では、二人の弟と妹がすくすく成長し、まもなく四人目が生まれるということも記されていた。


「そうか。阿古居にはわしの異父弟妹がおるのか」


「ええ。三郎太郎と源三郎が九つ、多劫姫が八つだったはずじゃ」


 まだ会ったこともない弟や妹。父親が違うとはいえ、同じ母から生まれ出た貴重な縁者。敵味方の間柄でなければ、いくらでも会いに行けるというのに――


「そうじゃ、岡崎に行った折には矢田姫と市場姫にも会いたいものじゃ。もう十四にもなっておろうで」


「そうでした、蔵人佐殿には異母妹もおられましたなぁ」


「はい。ほとんど面識もなく、まったく懐かれてもおりませぬが」


 その元康の言葉に思わず笑みがこぼれる源応尼。自分で素直に懐かれていないと白状するあたりが愛おしく思えたのであろう。


「であれば、駿府で土産を調達していくのはどうじゃ。お土産を渡す口実に会うて、何か話をしてみなされ。話をせぬことには、人と人は分かり合えぬものじゃ」


「はいっ!」


 元康はこの祖母の前では驚くほどに素直に、純真無垢な少年へとかえれる心地がするのだ。


「母親の違う妹らや、阿古居の母上とその子供たち。家族皆で楽しく集まれる日は来るであろうか」


「来る尾張表への出陣次第でありましょう」


「おばばさまもご存じでしたか。ええ、この館内の空気、夫の水野右衛門大夫妙茂が存命なりし頃、苅谷で幾度も感じた空気にございますれば」


 やはり源応尼は生きてきた時間の長さが違っていた。元康に、館に入っただけで戦の気配を感じ取るなどという直感は働かない。


「蔵人佐殿が岡崎へ赴かれること、そなたの母に伝えておいても良いかえ?」


「ええ、母と娘のやり取りに口を挟むことなど、某にはできませぬゆえ」


「ほほほ、ではそれとなく書状にしたためておきましょう」


 自分が三河岡崎へ来ると源応尼よりの書状で知った母は何を想うであろうか。そのようなことが頭をよぎるが、その煩悩をすぐにも振り払う。


「では、おばばさま。元康はこれにて失礼いたしまする。妻の元へも顔を出さねばなりませぬゆえ」


「そうかえ。突然押しかけて申し訳ありません。あまり邪魔になってはいけませぬゆえ、この婆もそろそろお暇させていただきましょう」


「今日はわざわざありがとうございました。何卒、母にも元康は達者で暮らしているとお伝えくださいませ」


 源応尼はその言葉に優しく笑みで応えると、一礼して静かに立ち去っていく。その整えられた一挙手一投足が、彼女の教養の豊かさを表しているようであった。


 そんな外祖母の姿が小さくなり、見えなくなったところで正室・駿河御前の部屋へと向かう。


 駿河御前の部屋の前で待機していた侍女は、元康の姿を確認するなり戸を開けて取次を行う。なんとも滑らかな対応に、元康は感心していた。


 そうして入室許可を得た元康が部屋に入ってゆくと、落ち着いた様子で入り口を見つめていた駿河御前とばっちり視線が合う。


「殿、先ほど源応尼さまのお声がいたしましたが」


「聞こえておったのか。わしに話したいことがあると、わざわざ訪ねてきてくださったのじゃ」


「左様にございますか。お出迎えもできず、申し訳ないことをしました」


「気にするでない。おばばさまのことじゃ、身重であるそなたが出迎えてはかえって気を遣うことであろう」


「そうやもしれませぬが……」


「まぁ、それは過ぎたること。あまり気に病むようでは、お腹の子に障るであろう」


 そこまで元康に言われ、駿河御前もそうかと思い直した。彼女の表情の変化からそれを察した元康は、話題を岡崎入りに誰を伴って参るのか、この屋敷には誰を残すのかを伝えた。


「なるほど。お屋敷には酒井雅楽助どの、石川与七郎どの、天野三郎兵衛どのが残られまするか」


「うむ。この三名であれば、わしも心置きなく岡崎へ向かえようものぞ。また、渡辺半蔵は一足先に駿府を発ち、植村新六郎ともども岡崎にて合流する予定じゃ」


「分かりました。これならば留守もすこぶる安全。殿、ご無事に戻られまするよう、駿府よりお祈り申し上げます」


「すまぬな。一月もせぬ間に戻るで、安心してくれよ。不便をかけるが、何かあれば留守居の雅楽助らに申し付けるがよい。親身に対処するであろうゆえな」


 元康からの言いつけにコクリと頷く駿河御前。愛らしい妻とお腹の中の子供。そして、伝い歩きをするようになった最愛の我が子・竹千代。


 彼らを駿府に残し、元康は三河国岡崎を目指して出立。


 随行するのは酒井左衛門尉と高力与左衛門ら年長者に、阿部善九郎、平岩七之助・善十郎兄弟に、鳥居彦右衛門尉と渡辺半蔵ら年の近い者たち。


 信の置ける家臣たちとともに吸う故郷の風で肺の中を満たしながら、菩提寺である大樹寺に入る元康なのであった。

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