第71話 七カ条の定書と我が子へ希うこと
松平蔵人佐元康と駿河御前との間に嫡男・竹千代が誕生した三月六日。
それ以降、生まれたばかりの子供の世話に駿河御前と彼女についている乳母や侍女たちが慌ただしくしている中、元康は四月に入っても日々の政務に忙しくしていた。
そんな春の只中、駿府にある元康の自邸の書斎に、近侍・植村新六郎栄政が書状を手に訪れる。
「殿、岡崎よりの報せが届いておりまする」
「おお、新六郎か。ご苦労であった」
元康は定期的に届く国元からの書状を書見台の上で開封した。
「ほう、織田上総介殿に続き、美濃の斎藤治部太輔が上洛したと記されておる」
「なるほど、尾張の織田への対抗意識からでしょうや」
「であろうな。上洛において先を越されたゆえ、苛立っておるのではなかろうか」
「ははは、それはあり得そうにございまするな」
上洛した東国の諸大名の中で最も早かったのは長尾でも斎藤でもなく、織田であった。越後の長尾もまもなく上洛するとの風聞も流れており、同じく東国の大大名・今川家も上洛するかと思いきや、その様子はこれなく。
「殿、太守様や御屋形様は何故上洛なされないのでしょうや」
「お家柄の違いであろう。今川家は織田家や斎藤家、長尾家とは異なり、代々の守護。一々上洛して己が領国の支配を幕府に認めてもらい、正当性を得る必要もないゆえな」
「確かに。今川は誰が何と言おうと駿河と遠江、二ヶ国の守護にございまする。それは自他共に認めるところにございますれば」
「ゆえに、焦る必要などない、とわしは考える。仮に上洛するとしても、尾張までも支配下に置いた頃に、三河守護と尾張守護となる許しを得に行くのではなかろうか」
今川家が上洛するとなった場合、喫緊の織田との境目争いが解決しない限りは動けそうにないというのが正直なところであった。
そして、上洛すると決まった場合、隠居である義元が出張っていくのか、当主である氏真が出向くのか。そうした問題もついて回って来るのである。
「さらには、斎藤義龍は御相伴衆にも任じられたとのことじゃ。幕府の役職をいただけたとなれば、尾張の織田よりも格は上なのじゃと圧力をかけるつもりなのであろう」
「殿、そうなれば尾張の織田との一戦は斎藤と組んでの挟撃などもあり得ましょうか」
「あり得ようが、そう上手く連携が取れるとは思わぬ。それに、協力させるとなれば、見返りも必要となろう」
「尾張北部は斎藤家が、南部は今川家が、といった具合でしょうか」
「そうなるかは分からぬが、斎藤家にある程度割譲せねばならなくなろう。さすれば、今度は斎藤との領土争いとなり、いつまで経っても戦は終わらぬ。おそらく、太守様は今川家独力での尾張制圧をお考えのはず」
そう義元の考えを見通す元康であったが、果たしてそれが義元が腹案の全貌かと言われれば、そうでないような気もしてしまう。今の元康から見て、今川義元という人物はまさしく底知れぬ傑物であった。
そうして植村新六郎と今後の東国情勢について論じた四月も秋の日は釣瓶落としならぬ、春の月は釣瓶落としと言わんばかりにあっという間に過ぎ去り、五月を迎えていた。
この月、越後より長尾景虎が一千五百人を引き連れて上洛し、将軍・足利義輝と謁見。この時、足利一族や管領に準じる待遇を受けたばかりか、関東管領・上杉憲政の処遇を一任され、信濃の諸将への指揮権も認められる高待遇であったという。
また、長尾景虎は在京して将軍・足利義輝を守護するとまで言ったことから、三好長慶ら三好氏は早々に景虎を帰国させようとしたほどであった。
そんな義に厚い将として後世に名を遺す長尾景虎は正親町天皇にも拝謁し、さらに京への滞在中に肝胆相照の間柄となる、血書の起請文を交わして盟約を結んだ人物が一人。
それは近衛前嗣。従一位・関白の座にあった人物である。そんな二十四歳の若き関白と、三十歳の若き軍神が翌年に引き起こす事態が、東国を揺るがす大事件となり、三河岡崎の松平元康にも多大な影響を及ぼすことになる――
――閑話休題。
皐月も半ばに差し掛かった頃。元康は件の定書の文面に大いに苦労していた。
「殿、先ほどから書状をにらめっこをしておられますが、何かお悩みでございますか」
「お、おお。瀬名か。うむ、国元におる重臣らに宛てた定書のことで悩んでおる」
「なるほど。その定書に何を記すのかは定まっておりますか」
「それは定まっておる。七カ条の定書として書き送るつもりでおる。そなたの父や朝比奈丹波守殿らの助言のおかげぞ」
「では、一度私も目を通しても構いませぬか」
元康は賢妻の助言を求め、考えている定書の案を手渡した。それを本を読むときと同じような真剣な眼差しで一言一句見逃すことなく確認していく。
自分が書いた書状を妻に読まれる、少し気恥しい状況が続いたが、文章自体長いものではないため、そう時はかからなかった。
「殿、この定書に記された対応は、今川家の分国法である『かな目録』および『かな目録追加』にみられるものにございましょう」
「うむ、舅殿らとも相談のうえ、これが最も理にかなっておろうという話になったゆえな」
この時、元康が記した七カ条の定書は以下の通りであった。
定条々
一、諸公事裁許の日限、兎角申し罷り出でざる輩、理非に及ばず越度たるべし、ただし或いは歓楽、或いは障りの子細、歴然においては、各へ相断るべきのこと、
一、元康在符の間、岡崎において、各批判落着のうえ罷り下り、重ねて訴詔せしむといえども、一切許容すべからずのこと、
一、各同心の者陣番ならび元康へ奉公等無沙汰仕るおいては、各へ相談し、給恩改易すべきこと、
付けたり、互の与力、別人に契約せしめば、曲事たるべし、ただし寄親非分の儀申し懸けるにおいては、一篇各へ相届け、そのうえ分別なくんば、元康かたへ申すべきのこと、
一、万事各分別せしむること、元康縦え相紛れるといえども、達して一烈に申すべし、そのうえ承引せざらば、関刑・朝丹へその断り申すべきのこと、
付けたり、陣番の時、名代を出すこと停止すべし、ただ今に至り奉公上表の旨、訴詔せしむといえども許容すべからずのこと、
一、各へ相尋ず判形出すこと、
付けたり、諸篇各に談合せざるして、一人元康へ一言たるといえども、申し聞すべからずのこと、
一、公事相手計り罷り出で申すべし、親子たるといえども、一人のほか助言せしめば、越度たるべきのこと、
一、喧嘩口論これあるといえども、贔屓すべからず、この旨に背くにおいては、成敗すべきのこと、
付けたり、右七カ条訴人あるにおいては、糾明を遂げ、忠節歴然の輩申す旨分別せしめ、軽重に随い、褒美を加えるべきものなり、仍って件の如し、
永禄二年 松次
五月十六日 元康(花押)
非常に分かりづらい文面ではあるが、分かりやすく現代風にしたならば、こんな感じになるだろう。
第一条、裁判当日になんやかんや言って出頭しない奴は敗訴。ただ、病気とかだったら、先にそのことを伝えておくように。
第二条、自分が駿府にいる間、岡崎で重臣たちによって判決が下された訴訟については駿府にやって来て自分に再度訴えても一切認めません。
第三条、寄親寄子関係について。寄子(以下、分かりやすく部下とする)が戦場での働きや主君である自分への奉公を怠った場合は、寄親(以下、分かりやすく上司とする)に相談したうえで所領などを没収します。
あと、部下が別の上司に部下として契約するのは絶対にダメです。上司が非常識なことを指示してくるのならば、岡崎の重臣らへ申し出て、それでも態度を改めようとしないなら、自分(元康)へ訴えなさい。
第四条、岡崎の重臣が判断したことについて元康が応じない場合、自分の舅である関口刑部少輔氏純、指南を務める今川家重臣・朝比奈丹波守親徳に訴え出るように。
あと、戦場に代理の者を出すのは禁止。「これまでオッケーだったじゃん」とか言って訴えてきてもダメなものはダメです。
第五条、岡崎にいる重臣に相談なく勝手に自分(元康)が書状を出したりはしません。
あと、何でも岡崎の重臣に相談せず、自分(元康)に一言でも申し出るようなことはしちゃいけません。
第六条、訴訟の場には当事者だけが出頭するように。たとえ親子であっても、当人以外が口出しするのは過失です。
第七条、喧嘩や口論に贔屓、すなわち合力するようなことはしてはいけません。この決まりに背いたら、問答無用で成敗します。
というわけで、以上の七カ条について訴える人がいたら、よく調べ上げ、忠節が明白な者の言い分を見極めて、ちゃんと褒美も与えるように。以上!
……とまあ、こんな感じの内容になるわけだが、元康は基本的に国元で起こったことについては重臣たちに従う姿勢であることがしっかり示されている。しかも、従わない場合の相談先まで明確に提示されていた。
「何やら殿がお飾りの当主のような心地がいたしまするが、致し方ありません」
「うむ、国元におらぬ以上、我が目で確かめることも叶わぬ。そんなわしが口を挟めば、政が乱れるだけゆえな」
「まこと、政治とは難しきものにございます」
「まったくじゃ」
自分でしたためた文書を改めて見返しながら、当主といえども、現地の政治運営と主君である今川家との間で板挟みになっている苦しい立場であると痛感させられていた。
「わしが岡崎に戻れば、こうした面倒なことにはならぬのじゃが」
「やはり殿は駿府を離れ、岡崎に帰りたいのでございますか」
「いや、そうなれば織田や水野との戦に明け暮れる日々になり、瀬名や竹千代にも駿府に出仕した折しか会えぬ。戦続きであった祖父や父よりも家族を遠ざけることとなり、苦しい生涯となるであろう」
そう、仮に岡崎に戻ったところで、人質として妻の駿河御前や息子の竹千代は留めておかなければならない。
家族に会いたくても会うことは叶わず、向かってくる敵を退け続け、政務に明け暮れる寂しい人生を送ることになる。それは、祖父・清康と父・広忠よりも辛い生活となるのだ、そう感じてやまないのであった。
実におかしなものである。竹千代が産まれた時には、我が世の春。そう思えてならなかったのに、主家である今川家と岡崎の重臣らとの板挟みになっていると感じれば、たちまちそうは思えなくなってくるのだから。
「殿、今の生活は御不満にございますか」
「いや、そうは思わぬ。自由を求めて乱世の大空に飛び立つか、安泰を求めて龍の足元で安穏といたすか。二者択一であろうな」
「二者択一。まこと、そうにございますなぁ」
どちらを取るか。元康の言う通り、まさしく二者択一であった。現代風に言うならば、独立して起業するのか。それとも企業に入って定年まで勤めあげるのか。そうした違いであろうか。
そして、今の元康の心境を表すのであれば、起業してみたいがこのまま座していれば役員になれる未来がある会社員といったところであろうか。
「そうです。先刻、父より使いの者が参りましたよ」
「ほう、舅殿からとな。して、一体どのような使者であった」
「はい。竹千代が誕生したゆえ、武具を贈るゆえ受け取ってもらいたいとのこと」
当時、武家の象徴である武具を男子の誕生の際に祝儀として贈ることは一般的であった。それゆえ、関口刑部少輔氏純が外孫である竹千代の誕生を祝して武具を贈ることは珍しいことでもなんでもなかった。
「なるほど、そうであったか。であれば、喜んで受け取ることといたそう」
「ふふ、殿がそのように仰るかと思い、すでに返答いたしております」
「さすがは我が妻じゃ。うむ、こうして我が子の誕生を祝してもらえるとは、まこと嬉しき限りじゃ」
「ほんに」
そう言って、縁側で風に揺れる草木を眺める夫婦。乱世の中にあって、未だ平和を謳歌できる駿府には、あるべき夫婦の姿があった。
「なにより、竹千代がすくすくと成長してくれることを願うばかりじゃ」
「ええ。殿はどのような男子に成長してほしいとお思いで」
「わしか。わしは、噓偽りのない真っ直ぐな武者に成長してもらいたいと思うておる。やはり、何事に対しても真を抱いて接するのが大事であろう」
「私も同じでございます。何より、戦禍に巻き込まれないこと、これを願うばかりにございます」
「いかにも、瀬名の申す通りじゃ」
やはり父親としては、我が子に乱世の災厄が振りかからないこと。これが一番の願いであった。




