第68話 家政の試練と上洛の成果
渡辺半蔵・新左衛門兄弟に鳥居伊賀守忠吉への返書を預けた翌日。元康は近侍の鳥居彦右衛門尉元忠と平岩七之助親吉の両名を伴って駿府館を訪問した。
「殿、昨日届いた父の書状に記されていたことの許可をいただきに参るのでしたか」
「いかにも。当家は今川家に従属する身。それは親類衆の立場になろうとも変わらぬ。ゆえに、勝手な真似はできぬ」
今川家親類衆という立場を得ても、松平家はどこまでいっても今川家従属国衆なのである。ゆえに、何事も従属先である今川家の許可が必要となるのである。
ともあれ、駿府館の主・今川五郎氏真への面会が叶った元康は、当主・氏真のいる広間へと通された。
「おお、よくぞ参った松平蔵人佐」
「ははっ、御屋形様もご機嫌麗しく」
「そのように離れておってはそなたの声も小さく聞き取りにくい。近う寄れ、近う」
氏真の招きに応じて少し、また少しと距離を近づけていく元康。これから近づいていく氏真の側には、氏真の正妻・春姫が控えている。
そして、上座より一段下がった右手には元康の舅・関口刑部少輔氏純。その反対、左手には朝比奈丹波守親徳が着座していた。
「おお、六年前に会った折の竹千代殿がかように成長しておったとは。正月にしか顔を合わせぬゆえ、こうして間近で見ると成長を感じるのぅ」
「そうか、朝比奈丹波と松平蔵人佐は面識があったか」
「はい。刑部どのの屋敷にて引き合わせてもらったのでございまする」
「なるほど、そうであったか。であれば、紹介する手間も省けてよい。して、蔵人佐。本日の用向きはなんじゃ」
「はっ、その儀につきましては今よりお話させていただきまする!」
元康は氏真、春姫、朝比奈丹波守、関口刑部少輔らの前で先日国元より届いた便りのことを口頭で説明した。氏真と春姫、関口刑部少輔は笑みをたたえながら元康を見守っている風であった。
問題は、もう一人。強面の豪傑・朝比奈丹波守が腕を組み、目を閉じて静かに元康の話に耳を傾けていたことである。数多の戦場を駆けてきた老将だけに、その身から放たれる存在感は圧倒的であった。
戦場を経験していなければ、感じ取れない圧。六年前に会った折、竹千代であった頃は感じ取れなかった《《それ》》を元康は敏感に感じ取れるようになっていた。
それゆえに緊張し、何度か噛みそうになりながらも、なんとか伝えたいことをすべて伝えることには成功した。
「うむ、家中統制のためには必要な定書ではないか。予としては異存ないが、関口刑部少輔と朝比奈丹波守。両名はいかに思うぞ」
「某も御屋形様と同じく、異存はございませぬ。ただ一つ、質問したきことが」
「うむ、それは何か」
「蔵人佐殿。貴殿は岡崎におる重臣らとの関係性をいかにするおつもりか。今のように漠然とした内容では、定書を下したとて無意味なものとなりましょう。ゆえに、そのことについて直答していただきたい」
「どうじゃ、松平蔵人佐。そなたの存念を述べよ」
普段は優しく接してくれ、初孫が生まれるとなれば表情筋が溶けたかのような顔をする大恩人の関口刑部少輔。そんな彼も、政務の場では立派な文官であった。
何より、今の切り返しは元康を責めるようで、松平家のことを考えてくれたからこその質問。ならば、元康としても、これに全力で応えないわけにはいかなかった。
「然らば、お答えいたしまする。某は駿府にあり、岡崎の様子は人伝に聞くばかり。であるのに、自分が政に下手に干渉すれば、諍いの火種となりまする。ゆえ、当家重臣らの政治運営による判断や決定に従う態度で臨むつもりでおりまする」
舅からの言葉に怯むことなく、毅然とした態度で元康は臨んだ。私的には婿と舅であっても、公的な場ではともに今川家に仕える者同士。ともに今川家のため、議論を交わすことも当然ながら必要となって来る。
「うむ、松平蔵人佐殿の意見や良し。ならば、貴殿が重臣らの諫めも聞かず、勝手な態度を改めない場合にはいかにいたすか。そこまでを定書に記しておかねば、重臣らも心底より安堵することはあるまい」
「そ、それは……」
朝比奈丹波守からの鋭い指摘に、さすがの元康も答えに窮した。
要するに、自分が家臣らの諫止を聞かなかった場合、それをそのまま放置するつもりなのか。何か対処法も記しておかないと、後々問題がこじれるだけであるぞ――
朝比奈丹波守はしっかりと先を見通したうえで、元康にそのことを伝えようとしているのだ。
回答に窮し、考え込む元康を見かねて、朝比奈丹波守は向きを変えて主君・氏真の方へと向き直った。
「御屋形様。先ほどの松平蔵人佐殿が重臣らの諫めも聞かず、態度を改めなかった場合について、一つ考えがございまする」
「ほう、それはどのような?」
「その場合、重臣どもは松平蔵人佐殿の舅である関口刑部少輔どのに訴え出るという手にございまする。舅として娘婿と重臣らの調整にあたるは適任であると心得まする」
朝比奈丹波守が申す通り、元康の正妻・駿河御前の実父である関口刑部少輔が適任者と言えた。そのことについて、関口刑部少輔も快く了承したのだが、一つ条件を付け加えることを申し出たのである。
「御屋形様、この関口刑部少輔より一つ、お願いしたき儀がございまする」
「うむ、申してみよ」
「はっ、先ほど某が仰せつかりました蔵人佐殿と重臣らとの調整役にございまするが、すでに大給松平家や牧野氏などの三河国衆の指南を務めております朝比奈丹波守殿も加え、二名体制で調整役を担いたく」
「なにっ、刑部殿!儂はすでに大給松平や牧野の指南役で手一杯でござる!そのうえ、松平宗家の指南役までと仰られても、到底抱えきれぬ」
「しかし、指南役の話を切りだしたのは朝比奈丹波守、そなたではないか。ならば、発言した責任を取り、関口刑部少輔とともに松平蔵人佐の指南にあたるべし」
反論を試みる朝比奈丹波守親徳であったが、当主・氏真にそこまで言われては、もはや引き下がれなかった。その様子に、関口刑部少輔がしてやったりと言わんばかりの表情を浮かべていたのを、この武人は見逃さなかった――
かくして、元康が岡崎の重臣らに対して、定書を下すにあたって今川家からの指南役、すなわち後見人として舅の関口刑部少輔、重臣・朝比奈丹波守が付けられることとなったのである。
さて、永禄二年も正月は瞬く間に過ぎ、如月。まだまだ寒さが残り、越後は雪の影響で身動きが取れない頃、尾張から迅速に上洛を目指す青年がいた。そう、織田上総介信長である。
「殿、支度は整いましてございます」
「おう、金森可近。ご苦労であった」
「勿体なきお言葉。何より、上洛はまだ済んでおりませぬ」
「で、ある。よし、では京におわす公方様の元へ参る。皆の者、続けっ!」
後のことで問題が生じぬよう、尾張へ残留する者には事細かに指示したうえで、信長はおよそ五百の軍勢にて上洛。
道中無事で京までたどり着いた信長は、昨年に御座所と定められた二条法華堂、すなわち妙覚寺にて室町幕府十三代将軍・足利義輝に謁見することが叶ったのである。信長よりもさらに二ツも若い二十四の青年であった。
「公方様、織田上総介信長にございます。この度はご拝顔の栄に浴し、恐悦の極みに存じます」
「うむ、余が室町幕府十三代将軍足利義輝じゃ。そなたが悪名高き尾張の織田上総介であるか」
「あ、悪名高きとは一体、どのような風説が伝わっておりまするか」
「なんでも主家である尾張下四郡守護代の織田大和守家を断絶させ、守護の斯波氏を追放し、母を同じくする弟をその手にかけ、尾張上四郡の守護代である織田伊勢守家も滅亡寸前にまで追い込んでいると聞く」
将軍・足利義輝から告げられた内容はどれも間違っていない。だが、己が成してきたことを列挙されると、なるほど確かに悪名高いのかもしれないと思えてしまう。
「仰せごもっともにございます。何卒この織田上総介にも弁明する機会をお与えいただきたく存じます」
「ほう、弁明とな。よかろう、申してみよ」
信長にとって、これは賭けであったが、与えられた弁明の機会。逃すわけにはいかなかった。
「公方様が仰られた風説、いずれも相違ございませぬ。されど、これにはすべて理由がございます」
「ほう、理由とな。いかなることか、申してみよ」
「はっ!それは尾張一統を成し、公方様を、幕府をお支えするためにございます」
どうせ、弁明の機会を活かして、己の悪行を正当化するだけだろう。そう思っていた足利義輝であったが、己のため、幕府のためと言われ、目の色が変わった。
「幕府のためとは聞き捨てならぬことを申したな。幕府が任命した守護を追放し、守護代を討ち滅ぼした者の言葉とは思えぬ」
「いかにも。某の織田弾正忠家は守護代の配下にございます。そのような出の者に下剋上されるような不甲斐ない守護や守護代に、公方様をお支えすることなどできましょうか。この乱世において、弱き者は淘汰される。それが常にございますれば」
乱世とは、まさしく信長が述べた通りであった。何より、守護代の家臣に下剋上を許すような脇が甘い輩に幕府が支えられるかと言われれば、さすがの将軍・足利義輝も返す言葉がなかった。
「かつての守護代が守護として補任された例も多くございます。出雲国の守護代であった尼子氏、越後守護代の長尾氏が良き例にございましょう。両氏ともに、今では幕府をお支えする由緒正しき守護大名にございますれば」
「もうよい。そなたの申す通りじゃ。何より、幕府のためと申すが、東国の大名で最も早く上洛したのは他でもない織田上総介信長、そなたである。これは幕府への忠誠心の裏付けともいえよう」
「あ、ありがとう存じまする」
将軍から忠誠心を認められる。会ったこともない貴人にそう言われるとなんとも言い難い不思議な心地であったが、信長は一礼してその言葉を素直に受け止めた。
「その忠義に余は感じ入った。ゆえ、そなたのことを尾張国主として認めよう」
「守護にはしていただけぬと?」
「それは敵わぬ。理由は申せぬゆえ、これ以上は問うてくれるな」
突然言葉を濁す将軍・足利義輝。そんな彼に向けての合図か、静かに首を横に振る幕府政所頭人である伊勢貞孝を信長の鋭い観察眼は見逃さなかった。
異母兄・三郎五郎信広が申していたことをすぐさま思い返す。それは、伊勢貞孝の子・貞良には目下信長と敵対している義兄・美濃の斎藤治部大輔の娘が嫁いでいること。
根拠のない推測にすぎないが、此度の信長の上洛を前に、斎藤治部大輔が縁戚である幕府政所頭人・伊勢貞孝に働きかけ、尾張守護とすることを避けようと裏で手を回しているのではないか。
そう信長は察知した。ここで、他の幕府重臣に根回しでもしていれば打開策を講じることもできたが、此度はそれを怠った。ゆえに、信長は尾張国主に認められたという成果でひとまず引き下がることとした。
「では、公方様。ただいま仰せになられた、この織田上総介を尾張国主として認める旨、一筆いただきたく存じます」
「ほう、それくらいならば良かろう。すぐにもしたためるといたそう」
「ははっ、ありがとうございまする。公方様より賜りし御内書、末代までの家宝といたしまする」
かくして、信長の将軍との謁見は終わりを迎えた。尾張守護の補任となれば大満足であったが、ひとまず国主として認められたことについては最低限の成果でもあった。
「殿!一大事にございまする!」
「おう、金森可近。いかがした」
「はっ、先ほど尾張よりの使者、丹羽兵蔵より某と蜂屋頼隆殿に通報がございました。なんでも美濃より刺客が放たれ、殿の御命を狙っておると!」
「ふっ、幕府重臣への根回しに、おれの暗殺とは抜かりない奴よ。良かろう、ならば京に長居する必要もあるまい。ただちに出立し、尾張へ帰るといたそうぞ!」
抜け目なく信長を妨害してくる周到な斎藤治部大輔は、やはり美濃の蝮の血を受け継いでいるだけはあった。こうまで油断ならない相手となれば、一刻も早く除き、隣国美濃を手中に収めねばならない。
「されど、その前に尾張の一統。そして、いずれ来たる今川との決戦をいかに切り抜けるか、これが肝となろう」
――織田信長よ、美濃の前に片づける問題は山積しているぞ。
そのように自身へと言い聞かせながら、まだ寒さの沁みる中で、帰国の途につく尾張国主・織田信長なのであった。




