第61話 寺部城攻め
「殿、松平蔵人佐さまは猿投神社へ向かわれたので?」
「いかにも。献金し、先々代の行いを詫びることで猿投神社側の対応がどう変化するか、それは殿にかかっておる」
「では、我らは目の前の波岩砦奪取に全力を傾けるのみにございまするな」
「そうじゃ、七郎右衛門。我らは波岩砦を攻略し、広瀬城までの進軍路を確保することが任務。是が非でも成し遂げねばならぬ」
猿投神社に向かうという元康と別れた酒井将監率いる一千の部隊は波岩砦に向けて着々と進軍していた。
そこへ、後方から酒井将監隊へ追いついてくる一隊があった。
「おお、内藤弥次右衛門殿。いかがなされた?」
「うむ、殿から許しも得たゆえ、我ら内藤隊百も合力いたす。殿もじきに伊保砦へ戻られる。それまでに波岩砦を陥落させましょうぞ」
「それは無論じゃ。今ならさほど守兵もおらぬ今こそ好機」
内藤弥次右衛門の部隊を加えた酒井将監隊は疾風迅雷、波岩砦へと攻め寄せる。慌てて引き返していた三宅高貞率いる三宅勢が到着した時には、すでに砦に火がかけられるところであった。
「おのれ、酒井将監め……!三河一のおとなと呼ばれるだけある。やはり難敵であった!」
「殿!いかがなされまするか!」
「て、撤退じゃ!広瀬城へ籠城し、織田からの援軍を待つよりほかはない!」
炎に包まれる波岩砦を横目に撤退しようとする三宅勢。そこへ、先走って攻撃を仕掛ける武士が一人。
「おおっ、あれこそ三宅高貞!あの者を討ち取れば、殿よりお褒めの言葉がいただけよう!よしっ、拙者が三宅高貞の首を挙げて見せる!」
槍一本を引っ提げて広瀬城へと退却している三宅勢へ追いすがった若武者は内藤三左衛門信成。ごく一部の限られた者しかしらない、元康の異母弟であった。
「まずい、三左衛門を討たせるな!内藤隊、前に出るぞ!」
三左衛門が槍を引っ提げて、八百の三宅勢に真正面から突撃していく姿に誰よりも慌てたのは養父の内藤弥次右衛門清長であった。そして、内藤隊が三宅勢にぶつかっていくのを確認した酒井将監隊も加勢に回る。
中でも、真っ先に敵に向かっていった内藤三左衛門の勇猛な槍さばきに三宅家の武士らも手こずり、大勢の負傷者を出していた。何より、向かってくる松平勢の勢いに終始三宅勢は劣勢を強いられていた。
結果、数で劣る三宅勢は敗走。逃げ込むかのように広瀬城へと退却していった。それを追い、酒井将監らが城を包囲。堅城・広瀬城を前に、迂闊な城攻めを決行できずにいた。
そして、二刻もせぬうちに元康率いる本隊も合流し、約二千の松平勢によって広瀬城は完全に包囲された。
「内藤弥次右衛門。城内にこの矢文を射てはくれぬか」
「殿からの命とあらば、断る理由などございませぬ。ただちに射て参りまする」
内藤弥次右衛門が城へと打ち込んだ矢文はすぐにも発見した三宅兵の手で城主・三宅高貞の元へと届けられた。
「これは、猿投神社の神主からの書状……!?」
書状をしたためたのが誰なのかが判明した三宅高貞の眼光に鋭い光が宿る。その鋭い眼光は書状の文字列へと向けられ、読み終わる頃には眼光から鋭さは消え失せていた。
「殿、書状にはなんと?」
「先刻、松平蔵人佐より猿投神社へ侘びの言葉と金子が収められたと。それゆえ、我らも松平のことを許し、ただちに和睦するようにと記されておる」
「な、なんと……!?それで、殿は和睦に応じなさるので?」
「猿投神社の神主よりの仰せじゃ。神託じゃと思うて、和睦に応じるつもりじゃ。じゃが、今川を許すつもりなど毛頭ない。いつか必ず、もう一度立ち上がる」
闘志を捨て去ったわけではないが、今回は神主の顔を立てて松平との和睦に応じることに。
かくして、反今川を掲げて挙兵した二城主のうち、一方は松平との和睦に応じ、矛を収めることとなったのである。この結果に満足した元康は残敵の掃討へと踏み切る。
「殿、残すは寺部城のみ。ただちに攻め落としてしまいましょうぞ」
「本多九蔵か。うむ、そなたの申す通りじゃ。まずは急ぎ、全軍で寺部城へと向かう!その後は勢いに乗じて攻め落とすのみじゃ!」
元康としても広瀬城主・三宅高貞が猿投神社の神主の勧めによって降伏したことを知れば、寺部城主・鈴木重辰もあっさり降伏する。そう考えていた。
ゆえに、能見松平家の軍勢と合流して二千を超える数にまで膨れた松平勢。二月五日、元康本陣は最初に布陣した曽根の地に構えたうえで、城攻めが開始される。
当の寺部城は北と西は矢作川、東には沼地が拡がっていることから、攻め口が南からのみという厄介な地形。しかし、そこしか攻め口がない以上、松平勢も当然のようにそこへ殺到する。
「三宅は我らを裏切り、降伏した。だが、我らは断じて降伏などせぬ!今じゃ、放て!」
城方としても南に全戦力を終結させればいいため、守りやすい城であった。そんな寺部城から、攻め寄せる松平勢へ向けて数多の弓矢が浴びせられる。
殺意と焦りを帯びた矢がいくつも飛来する中、松平勢は木楯で矢を防ぐながら前進していく。しかし、すべての矢を楯で防ぐことができるのなら、戦も苦労しないわけで。
「うぐっ!」
「ぎゃっ!?」
楯と楯の隙間をかいくぐった矢が松平兵の命を奪う。そして、その矢はある人物にも命中した。
「甚尉!」
「あ、あにうえ……も、申し訳ございません。某はこれまでのようにございます」
「よい、後ろに下がって手当を受けよ。後は兄に任せよ」
「お、お頼みいたします――」
酒井将監よりの推挙で元康に仕え、弟・甚尉とともに従軍した足立弥一郎遠定。ここで弟ともに手柄を立てて、主君・元康に有能さを証明しようとしていた矢先。戦場のど真ん中で少しずつ冷たくなっていく弟と相対していた。
「足立弥一郎どの、いかがした」
「おお、石川彦五郎殿。いやなに、弟が敵兵の放った矢に当たり、今しがた息を引き取ったところにございますれば」
「左様でござったか。足立弥一郎どのは弟どののご遺体とともにお下がりあれ。ここは我ら石川隊が引き受けまするゆえ」
「否、ここで退くわけには参らぬ!弟の死を無駄にせぬためにも、某は行きまする!」
石川彦五郎もそこまで言われては足立弥一郎を止める術はなかった。太刀を抜き、数多の矢が飛来する中へと駆けだす。その後に石川彦五郎も部隊を進め、寺部城への進撃を再開していく。
「ええい、鬱陶しい!」
槍を片手に城門へ突っ込んでいく渡辺半蔵。彼は己に降り注ぐ矢の雨に苛立ちを覚えながら、なんとか一番乗りを果たそうと果敢に攻め込んでいく。
「渡辺半蔵どのではござらぬか!そのような無茶な攻め方をしておっては、幾つ命があっても足りませぬぞ!」
「おお、我が心の友よ!ちょうどよい、一人よりも二人の方が突破は容易かろう。協力してはくれまいか!」
渡辺半蔵守綱からの要請に、一呼吸おく本多九蔵重玄。そこはやはり血気盛んな若武者。諫めるかと思いきや、逆の行動をとった。
「よし、ともに城門を打ち破り、殿よりお褒めに預かりましょうぞ!」
「おお、話が早くて助かりましたぞ!では、策は……」
同じ十七歳の若武者らは策はかくかくしかじかと打ち合わせ、順次行動に移していく。しかし、そんな若武者たちの希望は鈴木重辰の次なる一手によって粉々に打ち砕かれる。
城しか見えていない松平兵の側面から鈴木勢の伏兵が突如出現。次々と矢を放ってきたのであった――
「なにっ、伏兵か!九蔵どの、用心なされよ!」
焦った表情で本多九蔵の方を振り返った渡辺半蔵。しかし、そんな彼の視界に飛び込んできたのは、本多九蔵の胸板を敵兵が放った矢が貫く様であった。
「九蔵!」
気づけば渡辺半蔵は盟友の事を呼び捨てにしていた。数多の矢が飛び交う中で、本多九蔵のもとまで駆け付け、抱き起こす。
「は、半蔵どの。すまぬ、不覚を取った……」
「もうよい!本陣へ戻り、急ぎ手当てを!」
「半蔵どの、ここは戦場でござる。某のことは捨て置き、今は一刻も早く寺部城を攻め落とすことだけをお考えくだされ……」
文字通り、虫の息といった本多九蔵。大量の血を流しながら動こうにも動けぬ友を前に、渡辺半蔵の瞳からボロボロと透明な雫が零れていく。
「お主、まだ子供が生まれたばかりであろうが!こんなところでくたばってはならぬ!武士としても、父親としても!」
最後に渡辺半蔵が熱のこもった言葉をかけた時には、すでに本多九蔵は絶命していた。享年十七。
松平宗家の軍勢で大勢の死者を出している頃、能見松平勢も苦戦を強いられていた。
「名倉惣助、本隊は随分と苦戦しておる模様じゃ」
「はっ。されど、我らとて戦況が芳しくございませぬ。一向に城門を破ることが叶いませなんだ」
能見松平勢の陣頭指揮を執るのは当主・二郎右衛門重吉が次男・般若助重茂であった。そして、十七になる若き統率者に随従するのは家臣・名倉惣助。
「若殿、ここは本隊ともども一度撤退するべきです。これ以上力攻めしたとて、屍を重ねるのみにございますゆえ」
「何を申す!寺部の鈴木ごときに背を向けたとあっては松平の恥!たとえ数十、数百の屍を重ねようとも攻め落とさねばならぬ!」
強硬に撤退に反対する松平般若助。まだまだ戦の経験が浅いこともあり、冷静に戦況を鑑みて一時撤退の判断を下すことはできなかった。
「殿ならば即座に撤退を命じられるであろうが……」
「父上ならば何じゃと申した!」
戦の真っただ中であるというのに、家臣へと掴みかかる松平般若助。そこへ、勢いづいた鈴木勢から狙いすました矢が放たれる。
「うぐっ!」
「若殿!」
名倉惣助が駆け寄った時にはすでに般若助は絶命した後であった。敵兵が放った矢が首筋に刺さり、即死。これは誰であっても助からぬ。そう思った名倉惣助は、こうなった以上は退くより他はないと決意した。
しかし、そこで運命というものは松平勢に逆風となる状況を作り出していく。
「頃は良し!者ども、城門を開き、憎き松平の奴らを討ち取ってしまえ!」
櫓から戦況を眺めていた城主・鈴木重辰の号令により、城門の内より鈴木兵が突出してくる。よもや打って出てくるとは思わず、松平勢に動揺が走る。
ここまで散々敵が射かけてくる矢の雨に味方を討たれて動揺していたのだ。そこへ、刀や槍で武装した敵兵が突っ込んできたのでは、応戦する気力も湧かなかった。
瞬く間に松平宗家の軍勢が突き崩され、松平般若助を失った能見松平勢にも敵が迫る。
「名倉様!い、いかがなされまするか!」
「こうなれば、応戦するよりほかはない!獅子奮迅して、敵にぶつかるのみぞ!」
この状況で撤退の判断をしたならば、さらなる犠牲が出る。それならば、前進して敵を破りし後に退いた方がよい。名倉惣助はそう判断した。
しかし、勢いに乗る鈴木勢とそうでない能見松平勢とでは戦意において確たる差が存在した。あっという間に能見松平勢も総崩れを起こし、たちまち混乱状態に陥った。
「くっ、ここまでか……!もはややむを得ん。撤退――」
味方に撤退を告げようとした刹那、名倉惣助は脇腹にかつてない痛みと熱が帯びるのを感じた。
「名のある敵将に違いない!お覚悟!」
「くそっ、不覚を取ったか……!」
一人の敵兵が繰り出した槍に脇腹を衝かれ、群がってきた敵兵に左大腿部を貫かれる。力尽きて崩れ落ちた名倉惣助に敵兵が首を持っていかんと群がり、ついに名倉惣助もあえなく討ち死にとなった。
かくして、寺部城の力攻めは失敗に終わった。松平勢には数多の死者が出る結果となり、鈴木重辰も満足のいく結果に大喜びであった。
「殿、手痛い敗北となりましたな」
「おお、本多作左衛門か。すまぬ、そなたの弟までも失う痛恨の負け戦となってしもうた」
「ふん、これで諦めるおつもりか」
「いかにも。寺部城攻めには今少し兵が必要じゃ。力攻めではのうて、兵糧攻めにいたす所存じゃ」
力攻めに失敗し、落胆する元康の弱腰を本多作左衛門重次は鼻で笑った。弟・九蔵重玄の無念を思えば、憎まれ口の一つや二つ叩きたくなるのも無理はなかった。
「なんじゃ、作左衛門。兵粮攻めではいかんと申すか」
「そうじゃ」
主君の決断を真っ向から否定する本多作左衛門に、阿部善九郎正勝、鳥居彦右衛門尉元忠、平岩七之助親吉は一斉に視線を注ぐ。しかし、そんな眼差しに臆することなく本多作左衛門は堂々と意見していく。
「殿、まずは城に降伏勧告すべく送った使者を呼びなされ。その者なしに城は攻略できませぬ」
元康は不思議に思いながらも、本多作左衛門の言葉通り、使者として一度城内に派遣した者を呼びよせるのであった――




