第56話 聞こえは華々しいが所詮は
石川左近大夫忠輔の死から二月が経過した弘治三年八月。秋の気配が感じられる気候の中、元信は五郎氏真のいる駿府館へと伺候していた。
「御屋形様。松平次郎三郎元信、ただいま参上いたしました」
「おお、次郎三郎か。よくぞ参った。近うよれ」
「ははっ!」
元信が入室した広間には氏真のほかに、関口刑部少輔氏純と朝比奈備中守泰能・左京亮泰朝が席を同じくしていた。
「次郎三郎、織田との和睦が成せ、晴れて松平領国の政務を担えるようになったわけじゃが、今のところ不都合などは起きておらぬか」
「はい。某の知るところではないと存じます。それもこれも太守様が織田との和睦を取り計らってくれたおかげであります」
「そうであったか。その言葉、父が聞けばさぞかし喜ぶであろうぞ。じゃが、父も申していたように、織田との和睦は一時的なもの。決して油断するでないぞ」
「ははっ、決して油断することなく、領国経営に当たって参る所存にございます」
「うむ、それでよい」
四ツ年上の若き主君。人目がなければ兄弟のように仲良く話す二人も、公の場では主君と家臣。元信も氏真もそれをよく弁えていた。そして、氏真に続いて口を開いたのは関口刑部少輔であった。
「婿殿。お元気そうで何より。近況は娘より聞いておりますぞ」
「左様にございましたか。夫婦仲睦まじくやっておりますゆえ、舅殿におかれましてはご安心くださいますよう」
「うむ、お気遣い痛み入る。娘と婿殿が仲良うやっておるなら何より。また、当家の屋敷の方にも顔を出してくだされよ」
「もちろん。では、近いうちに参らせていただきまする」
三十六歳になり、少しずつ顔つきに老練さが混じってきた関口刑部少輔。先代・義元の頃より今川家の内政面を支えてきた重臣。彼のような文官がそばで補佐しているからこそ、氏真による駿河・遠江の統治も滞りなく回っているといっても良かった。
「松平次郎三郎殿。昨年、懸川城にてお会いした以来ですな」
「これはこれは朝比奈備中守殿。お久しゅうございまする」
今川家の宿老・朝比奈備中守泰能。彼も齢六十一となり、髪も真っ白となっていた。前に会った時はまだまだ壮健そうであったのだが、今は少し瘦せたように感じられ、心なしか声も弱々しくなったかに思われる。
「松平殿、朝比奈左京亮泰朝にござる」
「朝比奈左京亮殿も昨年懸川城にてお会いして以来にございますな」
「昨年はお恥ずかしいところをお見せしてしもうた。その詫びがまだであったゆえ、この場を借りて詫びさせていただく」
そう言って頭を下げる朝比奈左京亮に対し、「主君の御前であるから顔を上げてくだされ」と歩み寄る元信。
氏真と関口刑部少輔は穏やかな顔つきでその様子を見守っていたが、朝比奈左京亮が父・備中守は「無礼者!場を弁えよ!」としかりつけたそうな面持ちであった。
「松平次郎三郎殿、またもや倅が失礼をいたした」
「そのようなことはございませぬ。確かに主君の面前でありましたゆえ、驚きはいたしましたが、昨年のことをしかと頭を下げられる律義さはこの元信めも見習いたき性分にございます」
「そう言っていただけると助かる。うっ、ゴホッゴホッ……!」
「いかがした、朝比奈備中守!」
「朝比奈殿!?」
「父上!」
氏真、関口刑部少輔、朝比奈左京亮が驚き声をかける。元信はあまりに突然のことに声をかけることはできなかったが、すぐにも朝比奈備中守の傍へと駆け寄っていた。
「御屋形様、申し訳ござらぬ……っ!」
「よい。今日のところは屋敷へ帰って養生せよ。そなたは当家の宿老。予だけでなく、父上にとってもなくてはならぬ重鎮ぞ。己の身をいたわってくれよ」
「かたじけのうございまする」
咳き込みそうなところを無理やり押さえつけるかのような朝比奈備中守泰能。だが、それでは体調が回復することはないため、氏真は息子である朝比奈左京亮に介抱を申しつけ、父子ともども退出させたのである。
「御屋形様、良き判断であったかと」
「関口刑部。そなたもそう思うか」
「はい。御屋形様があのように仰らねば、決して引き下がることはなされなかったでしょう。主君の命には忠実なお方ですゆえ」
「確かにそうじゃな」
忠義者には主君からの言葉が一番。関口刑部少輔が申すことはこれに尽きるのだが、まさしく効果のあった手法であった。
「そうじゃ、関口刑部。武田晴信殿は北信濃にて長尾景虎と争いを続けていると耳にしたが」
「はい。されど、大規模な合戦に至ってはいない様子。互いに鬼の居ぬ間に洗濯し合っているかのごとく、戦況は一進一退といったところでしょうか」
「なるほど。では、当家も援軍を送らねばならぬ時が来るやもしれぬな」
「それは十分にあり得ましょう。無論、武田家のみでなく、北条家にも送る時は確実に訪れましょうぞ」
「うむ。その折は誰を大将にするべきか、迷ってしまうな」
来たるべき武田・北条への援軍には誰を大将として遣わせるべきか、今から悩み始める五郎氏真。文字通り気が早い様子に、思わず元信も他意なく失笑していた。
「次郎三郎、何を笑うか」
「いえ、まだ援軍を要請されてもおらぬのに、誰を援軍の大将とするかを考えておられる様子が気の早いことだと思ったまでに」
「そう申すな。予はその場で判断することは苦手じゃ。今より考えておかねば、いざその場面に遭遇した折、まともな返しができぬわ」
氏真の返答。元信は誰よりも己を理解している青年を前に、尊敬の念を抱いていた。ここまで己を理解する。それは簡単なことに思えるが、これほど難しいことはないのだ。
「いかがした、次郎三郎」
「いえ、己自身のことを誰よりも理解なされている。そのことに感銘を受けておりました」
「ははは、褒めても何も恩賞など出ぬぞ」
そう言って笑う氏真の笑顔は、家臣に見せる表情ではなく、親しい間柄の弟に見せる表情であった。
そんな氏真と元信が笑い合い、その傍らで関口刑部少輔が今川家の安泰を感じ取った数日後の八月三十日。途中で退出した朝比奈備中守泰能が死去した。享年六十一。
太原崇孚に続き、また一人義元を支えてきた宿老がこの世を去った。これは文字通り義元にとっては痛手であり、今川家の行く末に暗雲が立ち込めることと同義であった――
「五郎、朝比奈備中守が家の家督相続は滞りなく済ませたか」
「はい。関口刑部少輔が言に従い、左京亮泰朝に家督を継承させ、備中守を称することを認める判物も発給いたしました」
「それならばよい」
「それにしても、父上。朝比奈備中守が死は痛手にございますな。特に所領のある遠江に動揺が走っているようにございます」
「やむを得まい。そのあたりの動揺を鎮めることも当主としての務め。しかとこなすのじゃぞ」
「はっ、はい!」
当主に就任したその年に宿老が死去。その動揺を鎮めることになろうとは、不憫な子。義元はそのように感じていたが、この一件を通して我が子に成長してほしいと願ってもいた。
しかし、月が替わった九月にも、駿府へ訃報がもたらされる。三河国宝飯郡上ノ郷城主・鵜殿長門守長持が死去したのであった。
鵜殿氏の所領は三河の東西を結ぶ地点に位置し、尾張へ侵攻するうえで非常に重要度が高かった。そんな鵜殿氏の当主が死去し、突如として代替わりが行われたのである。
そんな折、冬の迫る駿府館の廊下にて元信はとある人物とすれ違った。
「これは松平次郎三郎殿」
「貴殿はたしか、宝飯郡上ノ郷の……」
「いかにも。此度、父の死去により家督を継承をいたしました鵜殿藤太郎長照にございます」
「左様にございましたか。この度の訃報、改めてお悔やみ申し上げます」
「これはご丁寧にかたじけない」
元信は同じ三河出身である鵜殿長門守・藤太郎の父子とは正月に顔を合わせる程度で面識はなかった。されど、尾張侵攻において要ともいえる地に領地を有する鵜殿氏の存在は言うまでもなく知っていた。
「鵜殿藤太郎殿、今後は三河国衆の当主として共に御屋形様、太守様への忠勤に励んで参りましょうぞ」
「無論にございます。今川家へ弓引く者あらば、某が討ち取ってご覧に入れる所存」
にやりと右口角を吊り上げる鵜殿藤太郎。元信は相手に合わせるように、ぎこちなく笑みを見せる。忠義者である鵜殿藤太郎長照であるが、どうにも元信は苦手な印象を受けた。
「おや、これは珍しい顔ぶれにございますな」
「おお、これは岡部次郎右衛門尉殿」
元信がまだ竹千代を名乗っていたころに初めて会った岡部次郎右衛門尉。鳥居彦右衛門尉とともに絶賛した武者ぶりの少年。彼も今では元服し、名を正綱と名乗り、元信よりも早く初陣を済ませていた。
「なんでも先日の初陣では兜首二つを挙げる功名を挙げられたそうですな」
「拙者のような若輩者の初陣のことを聞き及んでおられるとは。そのお言葉、ありがたく頂戴いたしまする」
「貴殿の武名は駿府にも轟いておる。初陣でそれほどの戦功を挙げるとはまこと見事というほかなかろう」
「そこまでおっしゃられると恥ずかしゅうございますな」
しばらく初陣のことで会話に花を咲かせる岡部次郎右衛門尉正綱と鵜殿藤太郎長照。彼らが楽しく話している間、戦経験のない元信は会話に混ざれず、寂しい想いをすることとなった。
「然らば、岡部次郎右衛門尉殿。そして、松平次郎三郎殿。某はこれにて失礼仕る」
若者と戦場のことを話せたことに満足したのか、先にその場を立ち去ったのは鵜殿藤太郎であった。そうして残されたのは元信と岡部次郎右衛門尉の二人のみとなった。
「岡部次郎右衛門尉殿、初陣にて手柄をたてられたとのこと。まことおめでとうございます」
「初陣は某の方が先となりましたが、松平次郎三郎殿ももうまもなく初陣を飾ることとなりましょう。武運をお祈りしております」
「これはかたじけない。岡部次郎右衛門尉殿の度肝を抜くような大手柄を挙げてみせましょうぞ」
「おお、それは楽しみにございます。そうなれば、御屋形様も太守様もさぞかしお喜びになられることでしょう」
岡部次郎右衛門尉の言葉に、そうなればそれ以上望むことはない。そう思える元信なのであった。
その後、元信と岡部次郎右衛門尉は一言二言言葉をかわして別れた。今川家の譜代家臣の出でありながら、国衆の当主である元信や鵜殿藤太郎を相手に威張ることをしないのが紛れもなく彼の良さであった。
そんな爽やかな好青年と別れた元信。まだ陽があるというのに冷たさを感じる長月の風に撫でられながら、再び駿府館の廊下を歩きだす。
「初陣……か。わしの初陣はいつになることやら。じゃが、誰かが死ぬようなことになるやもしれぬ事柄を喜ぶというのは人の所業であろうか」
初陣。武功を挙げる。そんな言葉は武士にとっては誉れに他ならない。しかし、誰かが手柄を挙げるということは誰かが死ぬということ。
すなわち、それは戦争をしているということであり、死ぬのは敵だけでなく、自分の味方もなのだ。そう思うなり、見知った顔が浮かんでくるのは拷問に他ならなかったが、それを首を横に振り払って考えることを強制停止させる。
「じゃが、戦うことから逃げていては守りたいものを守ることはできない」
自分が躊躇しては自分にとって大切な存在を守ることはできない。幼少の頃から従ってくれる近侍たちや、岡崎で政務を執ってくれている重臣たち。岡崎、そして駿府に住まう家族すらも。
何より、自分に目をかけてくれている今川義元・氏真父子への信頼を裏切ることはもちろん、彼らの生死すら危ぶまれる事態に陥る可能性だって捨てきれないのである。
そういったかけがえのない人々を守るため、戦わなければならない。そう思い、己を奮起させる元信。彼の初陣の時は刻一刻と迫りつつあった。
そして、その火種が今、三河の国で燃え上がろうとしていることなど、この時の元信は想像だにしなかった。
「――殿。殿!」
「お、おう。瀬名か」
「ひどくうなされているご様子。一体、いかがなされたのです」
「いや、なに。初陣はいつになるかと想いを馳せておったところよ」
周りを見回せば、自邸の寝所であった。明かりは月明かりのみの空間で、自分は帰宅直後、夕餉を済ませて眠りについていたことを思い出していた。
「殿、何やら苦しそうにございました」
「そうか。わしは苦しんでおったのか」
「当主という責任あるお立場。戦のことを夢見ておったとあれば、うなされるのも無理はございませぬ」
駿河御前の優しい言葉に夢から生じる負の感情を消化させ、もうひと眠りする元信なのであった。




