第51話 久しぶりの東京-Azuma Miyako-
四日の内に多くの家臣らと直に会って話をした松平次郎三郎元信。その翌日は駿府から来た一行は帰り支度に追われていた。
「七之助!それはそこな空櫃へ!」
「はっ、はい!」
酒井雅楽助政家の指示の下、平岩七之助ら近侍も帰還準備で大忙しであった。されど、酒井雅楽助が段取り良く進め、皆が協力して準備していくこともあり、定刻通りに準備は完了した。
「殿、支度が整いましてございます」
「おう、思ったよりも早かったではないか。わしも和尚に別れの挨拶を済ませたところじゃ」
「では、参りまするか」
「ああ、参ろうぞ。岡崎城へ」
大樹寺から南へ二十七町、現在の単位では三キロとなる距離にある岡崎城。先々代・松平清康の頃からの松平宗家の居城である。そこへ、元信は城代らへ挨拶を済ませに向かおうというのである。
元信は行きと同じく、酒井雅楽助政家を筆頭に阿部善九郎正勝、天野三郎兵衛景能、鳥居彦右衛門尉元忠、平岩七之助親吉ら近侍たちであった。
「植村新六郎は酒井左衛門尉どのに書状を渡せましたでしょうや」
「新六郎のことじゃ、任務はしかと遂行しておろうで案ずるな」
「左様にございますな。要らざることを聞きました」
「よいよい。さっ、岡崎城は目と鼻の先じゃ。参ろうぞ」
元信たちは城門をくぐり、城の内へと入っていく。しかし、彼らが城代と面会できたのは本丸ではなく、二の丸であった。その事実に、元信以上に酒井雅楽助らの方が悔しさをにじませていた。
「おお、松平次郎三郎殿。岡崎城代を仰せつかっております、糟屋備前守にございます」
「これはご丁寧なあいさつ、かたじけない。松平次郎三郎元信にございまする」
「今川家親類衆の松平次郎三郎殿がお越しになられると聞き及び、ささやかではございますが、お食事の用意をさせていただきました」
糟屋備前守が目くばせをすると、侍女らが食膳を人数分運んでくる。するとそこへ、遅れて山岡新右衛門景隆、飯尾豊前守乗連ら他の城代も広間へ入室。一層広間は賑やかなものとなった。
「糟屋備前守どのとともに岡崎城代を仰せつかっております、山岡新右衛門景隆にございます」
「同じく、飯尾豊前守乗連にございまする」
元信は岡崎城代らからも思いがけず歓待されることとなった。やはり、今川家親類衆という立場は今川家臣に対して絶大な影響を及ぼすのだと痛感させられるひと時でもあった。
「して、岡崎はいつ頃発たれる予定にございましょう?」
「ご城代の方々に挨拶いたしてから出立する予定としております。とはいえ、正午には出立せねば、今後の行程に差し支えまするゆえ、それまでにはお暇させていただくつもりにございます」
飯尾豊前守からの質問に答えながら合間合間に元信は料理を口へ運んでいく。飯尾豊前守も元信が咀嚼している間はなるべく話すことを控え、遠慮している様子であった。
「そうです、飯尾豊前守殿のご嫡男とは明後日に曳馬城にて面会する予定にございます」
「おお、帰路に曳馬城へお立ち寄りいただけまするか」
「はい。今日の内に吉田城へ入り、それから曳馬城を目指すこととなりましょう。それからは懸川城を経由して駿府へ入る予定でおります」
「左様にございましたか。では、道中の安全をお祈り申し上げます」
「それはかたじけない。飯尾豊前守殿もお体ご自愛くだされ」
かくして元信は岡崎城代らへの挨拶を済ませ、岡崎城を後にした。
「殿、やはり雅楽助めは口惜しゅうございます。何故、松平宗家の主が二の丸でもてなされなければならぬのかと……」
「いたし方なかろう。領国経営は松平重臣らに委ねられておるが、軍事に関する事は岡崎城代らの権限ゆえ、万一のことがあれば取り返しのつかないこととなるゆえ、そう易々と本丸には通せぬのであろう」
「されど……いえ、恨み言はこれきりにいたしまする」
「それでよい。いつか、岡崎城本丸へ堂々と入れる時も参ろう。その日を心待ちにしておこうぞ」
「はっ、ははっ!」
悔しがるのは何も酒井雅楽助だけではない。阿部善九郎正勝も天野三郎兵衛景能も、鳥居彦右衛門尉元忠も、平岩七之助も同じ気持ちであったのだ。
そして、他ならぬ元信も悔しい気持ちはあったが、それを表に出すことはせず、何事もない風を装って馬に乗って先頭を進んでいく。
その日、元信一行は東三河吉田城へ到達。予定より少々遅れは出たものの、日付が変わる前に吉田城に入ることができた。
「松平次郎三郎殿御一行様、ここまでの長旅ご苦労にござった。吉田城代を仰せつかっております、大原肥前守資良にござる」
「おお、大原肥前守殿。今宵は世話になりまする」
「今川家親類衆の松平次郎三郎殿がお泊りになられるのです。今宵はごゆるりとおくつろぎくだされ」
「お気遣い痛み入る。では、明日も早いゆえ、早々に休ませていただくことといたそう」
吉田城代・大原肥前守の家人に案内された一室にて一夜を明かす元信たち。明日から続く旅の疲れを癒やすには休息は欠かせない。就寝の支度が済むなり、宿直の者以外は眠りについてしまった。
晩夏の夜風が吹く中、吉田城にて一夜を明かした。岡崎とはまた違う空気を体内に取り込みながら夜を過ごすというのは長旅ならではの楽しみといえるのかもしれない。
「では、大原肥前守殿。昨晩は世話になりました」
「よいよい、太守様や五郎様に目をかけられている松平次郎三郎殿とこうして話ができる機会を設けていただけたこと、拙者は感謝しておるのでございます」
終始穏やかな様子で応対する吉田城代・大原肥前守と朝げを共にした元信一行は吉田城を出立。東海道を東へ進み、今切の渡を渡り、飯尾氏の居城・曳馬城へ入城した。
「これはこれは、松平次郎三郎殿。遠路はるばる、ようこそお越しくだされた」
「飯尾豊前守連龍殿自らのお出迎えとは恐縮の至り。まことかたじけない」
「なんのなんの。これしきのこと、大したことではございませぬ。岡崎の父よりも粗相のないようにいたせと書状が届いてもおります。今宵は我が曳馬城にて旅の疲れを癒やしてくだされ」
元信一行は吉田城に続き、曳馬城においても歓迎されることとなった。歓迎の酒宴が催され、酔った元信らを寝所へ案内したのは飯尾家臣の江馬安芸守泰顕、江馬加賀守時茂の兄弟であった。
「然らば、松平殿。我ら兄弟はこれにて失礼仕る」
「これはご丁寧にかたじけない。元信が感謝しておったと、飯尾豊前守殿にもお伝えくだされ」
「はっ、そういたしまする。我らが主もさぞかし喜ぶことと存じます」
江馬兄弟の予想通り、元信の言葉を聞いた飯尾豊前守連龍は大いに喜んだのだが、それはまた別の話。
何はともあれ、東三河の吉田城、遠江の曳馬城と二晩続けて歓待された元信一行は翌日には懸川城へ到着。懸川城主・朝比奈備中守泰能、その子・左京亮泰朝との対面を果たしたのである。
「松平次郎三郎殿。此度、帰郷が叶ったこと陰ながら喜んでおった次第」
「これは朝比奈備中守殿。此度の歓待、まこと身に余る光栄にございます」
「ははは、そう申すでないわ。我が戦友、太原崇孚の薫陶を受けた貴公とはこうしてじっくりと話してみたいと思っておったところ」
「それは恐縮の極みに存じ奉ります」
今川家の宿老・朝比奈備中守泰能に対し、恐縮している様子の元信。第二次小豆坂の戦いにて太原崇孚とともに織田信秀を打ち破った武勇伝は駿府に住まう者の間で持ち切りになったほど。
ゆえに、元信も元服するより前から何度も耳にし、尊敬の念を抱いていたところなのである。以前に会った折はこうして打ち解けた会話ができなかっただけに、元信の心は高鳴っていた。
そんな老将の眼は傍らに控えている息子へ注がれていた。朝比奈備中守は倅の肩を叩きながら元信の前へ押し出す。
「そうじゃ、これが儂の倅、左京亮泰朝にござる。武芸には秀でておるが、何分血の気が多くての」
「血の気が多いわけではござらぬ!太守様や五郎様に背く輩など、某が一人残らず成敗してみせると申したまでの事!」
「それを血の気が多い、考えなしの行動なのじゃ。何故それが分からぬのか……!?」
今にも激しさを増しそうな親子喧嘩。それを前に、朝比奈家臣以上に元信一行の方が息が詰まる想いで見守っていた。
「御両所、ここはひとまずお気持ちを静めてくだされ」
「おお、すまぬな。これ、左京亮。客人の手前じゃ、続きは後のことといたそう」
「松平殿に免じて、この辺りで失礼仕る!」
――まだまだ親子喧嘩は続くのか。
そう思わされる幕引きではあったものの、元信一行は安堵に胸をなでおろすのであった。
本当に目の前で斬り合いに発展しようものなら、どう対処しようかなどと考えてしまうほどの気迫が朝比奈父子から感じられたのである。
「松平次郎三郎殿、御見苦しいところをお見せいたした。この通り、お詫び申し上げる」
「いえ、朝比奈備中守殿が詫びられるほどのことではございませぬ!頭をお上げくだされ……!」
息子がしでかしたことを詫びる父。戦場では敵から恐れられる朝比奈備中守泰能も、息子のことが絡んでくると一人の父親であった。そんな姿に、元信としても感じるところがあった。
そうしてひと悶着起こりそうになったものの、その夜は懸川城にて明かした元信一行。翌日はさらに東へ進み、ようやく駿府へと帰り着いたのであった。
岡崎、吉田、曳馬、懸川とは比べ物にならないほど賑やかな駿府。久しぶりに感じる人々の行き交う音、人々の明るい声で賑わう市場。何もかもが懐かしく感じられる。
岡崎での自然との距離が近く、静かな空間で数日を過ごしたことも影響しているのか、初めて駿府を訪れた時に限りなく近い感覚に襲われる元信。
しかし、七年前に初めて訪れた時とは違い、慣れた足取りで向かう先は少将之宮にある自邸であった。久しく会うことの叶わなかった、愛する妻、留守をしかと預かってくれていた信頼のおける家臣らとの感動の再会が待っていた。
「皆、ただいま帰ったぞ!」
「殿、お帰りなさいませ。お元気そうで何よりにございます」
「おおっ、瀬名も元気そうで安心いたしたぞ。うむ、無事に駿府へ帰って来ることができた」
「久方ぶりの岡崎はいかがにございましたか」
「実に満足のいく滞在が叶った。やはり故郷というものは心の底から落ち着くものじゃ」
岡崎という故郷が落ち着く。その元信の何気ない言葉に、なんとも表現しがたい寂しさを感じつつも、何事もなかったかのように応対する駿河御前。元信も妻の心境の変化に気づくことはなく、普段通りの態度を取り続けていた。
「殿、そういえば留守中に太守様が面白きことを申しておられました」
「申しておられたとは駿府館に赴く機会があったのじゃな」
「はい。その折に、駿府の繁栄は京のようじゃと仰っておられ、西に山口、北に一乗谷があらば、東には駿府があると」
「ほほう。それで、太守様は何と?」
「駿府は東の京、すなわち東京である、と冗談めかしておっしゃられて……」
途中まで言いかけ、クスリと笑みをこぼす駿河御前。思い出し笑いをしてしまうほどに楽しい一時であったのかと元信まで表情が緩む。
その後も平岩善十郎が石川与七郎に叱り飛ばされ、間に高力与左衛門が入って止めたことなど、留守中に起こった出来事を楽し気に語る御前。
留守中のことをもとより聞く気であった元信はちょうどよい機会であると愛する妻の話に耳を傾ける。夕彩の部屋が秋風で満たされていく空間で、夫婦は楽しく語り合う。
駿河御前が駿府での出来事を話すと、それに元信が表情と言葉を豊かに返す。反対に、元信が故郷・岡崎でのことや、旅の道中での出来事を嬉しそうに語ると、駿河御前もそれ以上に楽しそうな表情で反応を返していく。
そんな夫婦の和やかな会話が続くうちに、陽も沈みゆく。外の景色も夕暮れ時から夜へと見せる姿を変容させ、風も冷たさを増していく。
元信と駿河御前が語り合う様を微笑ましそうに見守りながら、その傍らで侍女たちが蝋燭に火を灯していく。
「殿、わたくしもいつの日か岡崎へ行ってみとうございます。殿のお話を聞いているうちに、行ってみたいという想いが一層強くなりました」
「左様か。嬉しいことを申してくれる。無論じゃ、いつか必ず我が故郷を訪れる機会を設けるゆえ、楽しみに待っているがよい」
「はい。その日が訪れること、いつまでも楽しみに待っております」
蝋燭の火に照らされる色白な肌。なんとも色めかしい様子に一瞬見とれながら、元信は平静を装って、会話を再開。再び、夫婦の間で笑顔が咲き乱れる幸せなひと時が訪れるのであった――




