第50話 清康公が再来したかのようじゃ
――お忘れあるな。その身に清康公の、三河平定を成し遂げた男の血が受け継がれておることを。
反芻する長坂九郎信政からの言葉。元信にその言葉を伝えた血鑓九郎はそのまま立ち去り、残されたのは元信と天野三郎兵衛のみ。
そんな静寂に包まれた空間だからこそ、必要以上に思い返してしまうものなのかもしれない。そこへ、近侍の平岩七之助がやってきた。
「殿、高木長次郎広正どのがお越しです」
「おお、来たか。これへ連れて参るがよい」
「はっ、そのように」
そうして平岩七之助が伴ってきたのは高木長次郎広正。高木氏は岡崎と安城の間に位置する三河国高木を領する土豪。そんな彼が大樹寺を訪れる様は他の家臣とはどこか違う雰囲気を漂わせていた。
「松平次郎三郎元信殿、お初にお目にかかります。高木長次郎広正にございます」
元信より六ツ年上の高木長次郎は、なんとも礼儀正しく挨拶をしてみせた。これまで多くいた武闘派の面々とは異なり、色白な好青年である。しかし、体つきは鍛えられており、元信以上に引き締まっている。
「うむ、わしが松平次郎三郎元信じゃ。高木長次郎、よくぞ参ってくれた。こうして会う機会を持てたこと、大変喜ばしく思うぞ」
「こちらこそ、清康公の再来と城下で噂になっておられる主君にお目にかかれたのです。恐悦至極に存じます」
「なにっ、そのような噂になっておるのか」
「はい。大樹寺から出てこられた大久保新八郎殿に始まり、先ほど大樹寺を出てこられた長坂九郎殿も同じように申しておりました」
皆、主君が岡崎に帰ってきたのを喜んでいる。それは元信としても嬉しいことであるが、そのような噂が広まっているなどとは今の今まで知りもしなかった。それを他人から聞かされただけに、余計に恥ずかしい気持ちになってしまう。
「左様であったか。その噂の件、あまり大事にならぬよう鎮めることは可能か」
「岡崎城下の民らも口々に申しておりましたゆえ、今からはちと難しいかと」
「であろうな。噂が岡崎城代らの耳に入り、要らざる疑念を抱かれなければ良いのじゃが」
「そのようなこと、万に一つございますまい。ここまで大切に庇護してきた松平宗家の主に疑念を抱き、何らかの処罰を下すことなど」
元信とて高木長次郎の申す通りだと思う。だが、疑う心に苛まれると人という生き物は何をしでかすか分からない。現に、皆が褒めそやす松平清康とて、阿部大蔵の嫡男・正豊に討たれているのだから。
「そうです、殿。先日、織田勘十郎達成が柴田権六勝家、林佐渡守秀貞らとともに挙兵したことはご存知でしょうか」
「うむ、それは聞き及んでおる。織田上総介信長が直轄領、篠木三郷を横領しようとしたとか、上総介が牽制を目的として名塚砦を築いたこと、斎藤道三が斎藤新九郎に討たれたことなどが影響しておるともな」
「さすがでございます。その両者が去る二十四日、稲生の地にて激突。激戦の末、織田上総介方が勝利し、敗れた織田勘十郎方は末森城へ籠城」
「ほう、これは尾張の兄弟喧嘩はまだまだ続きそうじゃな」
「いえ、そこで生母である土田御前が仲介に入り、織田勘十郎らを釈免したとのこと」
まさしく、母は強し。高木長次郎いわく、そんな出来事であったという。そして、敗れた織田信勝は『弾正忠』を名乗ることはなくなり、武蔵守信成と改名したのだという。
「となれば、尾張国内での兄弟喧嘩は終息となったわけか」
「いえ、まだまだ岩倉織田家も従っておりませぬゆえ、当面は織田も水野も三河へ軍事行動を起こして参ることはなかろうかと」
「そうであろうか。わしは熱田にて織田上総介殿と会ったことがあるが、相手の意表を突く行動を取る御仁であった。油断してはならぬ」
「なるほど、仰せごもっとも」
「油断してはならぬ。さもなければ、この松平領国の平和が踏みにじられてしまう」
四季を楽しめる、穀物の実りの豊かな三河岡崎。そんな平和を踏みにじろうとする敵の侵攻には警戒せねばならなかった。
「実は、米津藤蔵より織田が戦支度をしておることは耳にしておる。ゆえに、酒井左衛門尉を駿府から呼び寄せておる。万が一の場合には備えておくに越したことはなかろう」
「まったくその通りにございますな」
その後も高木長次郎から尾張情勢についての情報を得て、今後の三河防衛について議して別れるのであった。
「殿、ずいぶん話が盛り上がっておりましたな」
「うむ、尾張に近い地の者が言葉はよく耳を傾けねばならぬでな」
天野三郎兵衛、平岩七之助らからも尾張情勢について意見を求め、いかに備えるべきかを話し合った。そこへ、成瀬藤蔵正義、成瀬吉右衛門正一の兄弟が来訪する。
「殿!お初に御意を得ます、成瀬藤蔵正義にございまする!」
「某は成瀬藤蔵正義が弟、吉右衛門正一にございまする」
二十二歳の兄・成瀬藤蔵、十九歳の弟・成瀬吉右衛門。この血の気の多い兄弟にも、尾張情勢について意見を求めることとした。
「成瀬藤蔵、吉右衛門の両名よ。尾張情勢についていかが思うか。思うところを忌憚なく述べるがよい」
「然らば言上仕る。尾張の織田が侵攻してくるは必定かと。兄弟喧嘩も落ち着いたと聞きまするゆえ、矛先を転じてくる可能性は高かろうかと」
「某は兄とは異なりまする。まだまだ国内に敵を抱えておる織田上総介が三河侵攻を企図するとは到底思えませぬ。ゆえに、侵攻はなかろうかと」
「ははは、まったく其方は見識の浅い奴よ。もそっと見識を広めた方が良かろう」
「何をっ!」
意見が異なる弟を兄が馬鹿にしたことで、今度はこちらで兄弟喧嘩が勃発。すぐにも天野三郎兵衛、平岩七之助が止めに入り、事を収めた。
「成瀬藤蔵、言いすぎじゃ。見解を異にする者を愚弄するなど、あってはならぬぞ。それでは忠言を行う者が減ってもしまうゆえ、当家が不利益を被ってしまう」
「はっははっ!申し訳ございませぬ!吉右衛門、すまぬ。先ほどは口が過ぎた。この通りじゃ」
「いや、某もついカッとなって言い返してしまいました。こちらこそ申し訳ござらぬ」
「よし、先の喧嘩はこれまでといたせ。双方ともに頭を下げたゆえな」
ひとまず成瀬兄弟の喧嘩を調停し、初めて会う両名との交流を楽しむ元信。その中で、今後の松平の展望なども語り合い、成瀬兄弟とは別れるのであった。
「然らば、我らはこれにて失礼いたしまする」
「うむ、此度はそなたら兄弟と会えたこと、まこと僥倖であった。今後とも変わらず忠勤に励んでくれよ」
「ははっ!」
深々と頭を下げ、部屋を退出していく成瀬藤蔵正義、成瀬吉右衛門正一の両名。若い二人の元気にあふれる足音が遠くなっていくと、阿部善九郎正勝が次なる来訪者の到着を告げに来る。
「殿、六栗の夏目次郎左衛門尉広次どのが参られました」
「おう、夏目次郎左衛門尉が参ったか。よし、これへ通してくれ」
「ははっ!」
阿部善九郎が夏目次郎左衛門尉広次を呼びに行く間、天野三郎兵衛と平岩七之助は一時退出。代わって、鳥居彦右衛門尉元忠が近侍として入室。阿部善九郎が夏目次郎左衛門尉を連れてくるのを待った。
「殿、夏目次郎左衛門尉どのを連れて参りました」
「夏目次郎左衛門尉広次にございまする!」
「ほう、もしや諱の『広』は父よりの偏諱か」
「はい。先代、広忠様より賜った一字にございます」
土居の本多豊後守広孝と同じく、松平広忠より諱を賜った夏目次郎左衛門尉。三十九となる彼の冷静沈着な態度はこれまでの武闘派や若者衆とは大きく異なる。話している相手まで冷静さを取り戻させる人物であった。
「殿、此度は岡崎へのご帰還、まこと祝着至極に存じ奉ります」
「うむ、そなたら家臣らから熱烈な歓迎を毎日のように受けておる。わしは真に良き家臣に恵まれたと痛感させられておる」
「左様にございましたか。それはようございました。某もそれを聞き、嬉しゅうござる」
「なんと、そなたもともに喜んでくれると申すか。そなたもまた、松平の良臣であるぞ」
「これはまた、嬉しいことを……!感慨無量にございます!」
夏目次郎左衛門尉もまた、涙もろかった。やはり三河武士は謹厳実直、涙もろい人情の厚い者が多いのだと、思い知らされることとなった。
「夏目次郎左衛門尉、今後とも六栗の地をしかと守るのじゃぞ。何より、かの地に暮らす領民らを労わってやるのじゃ」
「殿はまだお若いというに、民衆の事を慮れるとは明君の素質がございますな」
「ははは、明君などと。元服して妻を娶ったというのに、未だ政に携われてもおらぬ。そんなわしが明君などとは言い難い」
「ゆえに、素質があると申しました。そうでなければ、明君であると申し上げておりまする」
夏目次郎左衛門尉は意外と口が達者であることに、元信も笑みをこぼす。だが、こうした返しができるあたりに、彼の教養の高さをうかがわせる。それだけに、より一層の喜びを感じていた。
そうして六栗の夏目次郎左衛門尉広次との対面も無事に済み、残るは本多肥後守のみとなった。
「そうです、殿。明日には岡崎を発つこととなりましょう。本多肥後守どのとの対面が済みましたら、帰還の支度を進めましょうぞ」
「うむ。わしもそのつもりじゃ。明日は朝一番、大樹寺を発ち岡崎城へ向かう。城代の糟屋備前守殿、山岡新右衛門景隆殿らへ挨拶も済ませねばならぬゆえな」
「なるほど、岡崎城代の方々にも挨拶ですか。さすれば、そちらの支度も進めておかねばなりませぬな」
「いかにも。じゃが、案ずるな。そちらは酒井雅楽助に一任しておる」
「それは安堵いたしました。酒井雅楽助さまであれば、そつなくこなされましょうゆえ」
そうして明日よりの段取りを鳥居彦右衛門尉と相談していると、阿部善九郎が本多肥後守の来訪を告げに参上する。
「殿、本多肥後守忠真どのが兄嫁の小夜様、その子で本多平八郎忠高どのが遺児、鍋之助を伴って参りました」
「そうか。では、善九郎は本多肥後守らをこれへ連れて参れ。鳥居彦右衛門尉は先んじて明日の出発の支度を頼む」
「はっ!承知!」
「委細承知仕った!」
元信の言葉に弾かれるように動き出す阿部善九郎、鳥居彦右衛門尉の両名。体力が有り余っている近侍らの元気な姿に元信も元気を分けてもらえた心地がしたのであった。
そうしてしばらくすると、一人の青年と薄茶色に日焼けした若い女性、足取りのしっかりした少年が元信の元へやってきた。
「殿!お目にかかれ、光栄にござる!本多肥後守忠真、ただいま参上仕った!」
「おお、そなたが本多平八郎が弟か」
「はっ!我が父、忠豊は先代の広忠公をお逃がしするべく奮戦して戦死。我が兄、忠高は幼い殿をお救いするべく戦い討ち死にいたした」
「うむ、そなたの父も兄も忠義に厚い家臣であったことは存じておる。まこと、惜しい武士を亡くしてしまったものじゃが、両名の死なくして今の松平はない」
「そのお言葉を聞き、泉下の父と兄も浮かばれましょう」
忠臣である本多忠豊・忠高父子。彼らの忠義ぶりは元信とて酒井雅楽助政家や酒井左衛門尉忠次、石川与七郎数正らから何度も聞かされている。そんな忠義者の親族とこうして面会する日が来るとは感慨深いものがあった。
「そうじゃ、殿!こちらが兄嫁の小夜にございまする!」
「小夜にございます。松平のお殿様にお目通りが叶い、まこと嬉しゅうございます」
「おお、夫だけでなく兄までも織田との戦で亡くしておる。さぞ辛かったことであろう」
「いえ、戦場で守るべきもののために戦い散ったのです。武士の本懐にございましょう」
――夫も兄も戦場で死ねたことは武士として本望である。
そんな小夜の言葉は、元信には偽りとしか思えなかった。なにせ、表情は悲しみで溢れ、未だに苦しんでいることが窺い知れる面持ちをしていたのだから……
「そして、こちらが兄の遺児、本多鍋之助にございます」
「ほう、鍋之助。そなた、いくつになった」
「九つになりましてございます」
「九つか。まだまだ元服は先となろうが、叔父のもとでしかと文武に精を出せよ」
「無論にございまする!必ずや、父や祖父のような立派な武士になってご覧にいれまするぞ!」
「うむ、その日が来ることを心より楽しみにしておるぞ」
元信の言葉に、にかっと無邪気な笑みを見せる本多鍋之助こそ、後の本多平八郎忠勝なのであるが、それはまだまだ先の話。
かくして、元信と家臣たちの対面は終わりを迎え、翌日からは駿府への帰り支度が始動するのであった。




