第45話 故郷で迎える朝は
夜のほどろ、駿府のある方角より日が昇り来る。生まれ故郷・岡崎にてぐっすり眠ることのできた元信は体を起こす。
「殿、お目覚めにございまするか」
「お、おお、その声は善九郎か。よもや、そちは寝ておらなんだか」
「はっ、万一殿の御身に何かあってはなりませぬゆえ、寝ずの番をしておりました」
「左様であったか。うむ、そちの身に何かあってはわしも困るで、そちもそろそろ休むがよい」
ぴしゃりと閉められた戸の向こうから聞こえる聞きなれた近侍の声。さすがに唐突に聞こえてきたこともあり、元信は人知れず肩を小さく跳ねさせたのであるが、声に驚きの色を載せずに話し切った。
「そうじゃ、そちの弟の善八はいかがした」
「はっ、善八めは某の布団で眠っております。まもなく厠へ行く時刻でしょうから、某も付き添うことといたします」
「うむ、弟との貴重なひと時。岡崎にいる時くらい、ゆっくり休むがよい」
「ははっ!お心遣い感謝いたしまする!それでは、ご免!」
善九郎の足音が遠ざかった頃合いを見計らい、戸を開け放ち、室内に外の空気を取り込む。誰の足音もしない廊下、風で草木が揺れ、鳥のさえずりが聞こえてくる――
人気のない建物、駿府よりも自然に近い岡崎ならでは。肺を満たす空気すらも心地よい、そんなすがすがしい朝である。
「さて、晩はぐっすり眠れたゆえ、目も冴えておる。ここはひとつ、書を読むことといたそう」
読書をするにはうってつけの環境。元信にとって、読書をしないという選択肢などなかった。部屋の奥にある書見台を廊下に近づけ、『論語』を読み始める。
織田家に人質に出される前のことであるから、九年前にも岡崎で読み耽っていた書物である。随念院に薦められるがまま読み始めたのであるが、今では気に入って時間を見つけては読み返すことも多い。
そうして朝から読書をした後は木刀の素振り、弓の稽古などの日課にて爽やかな汗を流していく。そうしているうちに日はさらに高く昇っていく。修行僧らが廊下など建物内の掃除をはじめ、家臣らが主君である元信を探す声や足音が聞こえ始める。
「ふふふ、今日も賑やかになりそうじゃ」
昨日だけでも、随念院と田原御前、矢田姫、市場姫ら家族に対面。
家臣らでは石川安芸守忠成、鳥居伊賀守忠吉とその四男・鳥居四郎左衛門、石川右馬允・石川彦五郎ら石川安芸守が子、酒井雅楽助が息子。
本多次郎大夫重正に喧嘩を始めた本多孫左衛門重富、本多作左衛門の兄弟、本多九蔵重玄に三宅惣右衛門といった若武者ら。阿部大蔵定吉が弟・四郎兵衛定次、阿部四郎五郎忠政、阿部善九郎正勝が弟・善八などとも面会した。
昨日だけで大勢の家臣らと会ったが、全員と会ったわけではない。名前だけ知っている者、逆に見かけたことはあるが名前を知らない者――
今日は一体どれだけの人と対面することになるのか。それが元信の心を躍らせていた。
「殿、石川安芸守にございまする。早暁よりの鍛錬、さすがにございまするな」
「うむ、鍛錬は欠かせぬでな。して、いかがした?隣におる者に関することか」
爽やかな汗を流す元信のもとを訪れた石川安芸守。そんな彼の隣には、畏まった様子で片膝をついたまま微動だにしない青年の姿があった。
「ははっ、この者は某の娘婿、安藤杢助基能にございまする」
「ふむ、安藤杢助」
「ははっ!」
「そちは見たところ、健脚そうじゃが」
「はいっ!足腰の丈夫さには自信がござりまする!」
「然らば、そちを旗奉行とするが、それでよいか」
旗奉行。主将の旗をあずかる役目の侍大将のことで、実に大切な役目である。その役目を与えられたことに、嬉しそうに一礼する安藤杢助。その傍らにあった石川安芸守もまた、我が事のように嬉しそうにしていた。
「そうじゃ、殿。我が父、石川左近大夫忠輔より殿が岡崎へ帰省したことをお祝い申し上げなんと言づかっております」
「おお、松平の功臣からもそのように祝われるとは嬉しきこと。うむ、元信が大層喜んでおったと、伝えてくれよ」
「もちろんにございまする!」
よもや自身を竹千代を名付けた松平長親の父・親忠より松平に奉公する老臣、石川左近大夫からの言伝があろうとは、元信にとっては思いがけないことであった。
だが、それ以上に松平の老臣らも己の岡崎帰省を喜んでくれているというのは有り難いことでもある。
「そうじゃ、殿。駿府へ戻られましたら、与七郎へ勝千代は達者にしておるとお伝えくださいませぬか」
「勝千代というのは、石川与七郎が長子のことか」
「左様にございます」
「うむ、機会があれば会うてみたいものじゃ。よし、その旨しかと与七郎に伝えておくゆえ、案ずるな」
元信はそのまま勝千代の話題を起点に石川安芸守と安藤杢助の両名としばらくやり取りを続け、まもなく朝餉の支度が整うというところで別れた。
それから元信は共に駿府より参った面々と朝餉を取り、それぞれから久方ぶりに岡崎へ戻ってきた所感などを語り合う。そうしているうちに、大久保一族の訪問を受けることとなった。
「殿!此度は岡崎へのご帰還、まこと祝着至極に存じ奉りまする!」
「おお、大久保新八郎ではないか。久しく見ぬ間に老いぼれたかと思うておったが、そのようなことはないようじゃな」
「無論にございます!昨年も槍をふるって蟹江での戦に参陣いたしましたゆえ!」
「まこと五十八とは思えぬ。まさしく老いてなお盛ん、古の黄忠を彷彿とさせる働きぶりよの」
白髪頭の老人であるが、豪快に武勇伝を語る様はまだまだ若かった。そんな大久保新八郎忠俊が自身の武勇伝を語ってばかりいるのを、隣にいる壮年が肘を小突いて制止しにかかる。
「親父、蟹江でのことはそのあたりで」
「おお、そうであったな。すまぬすまぬ。そうじゃ、殿!これなるは我が長子、七郎左衛門忠勝にございまする!」
「大久保七郎左衛門忠勝にございます。以後、お見知りおきくだされ」
「うむ、七郎左衛門。今後とも頼むぞ」
元信よりも十八歳年上の大久保七郎左衛門。若さと経験が最も釣り合いの取れる三十代の武士である。そんな彼の後ろには隠れるように少年が一人。
元信がその少年のことを気にしていることを視線から見抜いた大久保七郎左衛門は背後に隠れる少年を引っ張り出し、紹介し始めた。
「ご紹介が遅れました。これなるは拙者が子、兵蔵にございまする」
「ほう、兵蔵と申すか。年はいくつじゃ」
「兵蔵、直答申し上げよ」
「や、八ツになりまする!」
急きょ、父から主君へ年齢を答えるよう言われた兵蔵であったが、無事に答えることに成功。七郎左衛門が隣で胸をなでおろす一方、祖父の新八郎は表情筋が今にも溶けてしまいそうな顔をしていた。
「八ツか。それならば、わしが駿府へ赴いた年に生まれた子であるな」
「いかにも。いずれは大久保の者として恥ずかしくない武者に育てあげてみせまするゆえ、今しばらくお待ちくだされ」
「うむ、楽しみにしておるゆえ、武芸の鍛錬に励めよ、兵蔵」
「はいっ!」
そう素直に答える様は実に愛らしく、元信は大久保新八郎が魅了されるのも分かるような心地がした。それからは一族を紹介できる様子ではない、大久保新八郎に代わり、大久保七郎左衛門が弟らの紹介を始めてゆく。
「殿。こちらが拙者の弟、喜六郎にございまする。殿がお生まれになられた翌年に生まれた者にございます」
「ほう。さすれば、元服もまもなくであろうか」
「はい、その予定にございまする」
今、十四ということは七郎左衛門からみて十九歳年下の弟となるのか。そのようなことを考えながら、元信は大久保喜六郎を見つめていた。
――あどけなさと同年代よりも鍛え上げられた肉体が絶妙に対比するこの少年もいずれは自分とともに戦場を駆けまわることになるのか。
そのようなことを元信が考えている中、大久保七郎左衛門忠勝は弟らの紹介を続けていった。
「これなるは与一郎。喜六郎よりも四ツ下の十になります」
「大久保与一郎にございます!足腰が人よりも丈夫にございますゆえ、使いっぱしりにお使いくださいませ!」
「ほう、走りも人より早いか」
「はい!そこらの大人よりも早く走れまする!」
「それは頼もしい。では、戦場では伝令などはそちに頼むこととしようぞ」
抜け歯の目立つ日に焼けた少年は、元信の言葉を純粋に喜び、興奮気味に兄や弟たちの顔を見やっていた。そんな様子の弟に優しい眼差しを向けながら、大久保七郎左衛門は残り一人の弟を主君・元信に紹介する。
「こちらは与一郎よりも五ツ下の弟、権十郎にございます」
「ご、権十郎と申しまする」
「おお、まだ幼いのに挨拶ができたではないか。うむ、わしが松平次郎三郎元信じゃ。元気に育つのじゃぞ」
「は、はい!」
元信という主君に緊張しているというよりも、目の前にいる知らないお兄さんに緊張している。そんな様子の大久保権十郎なのであった。
「そうじゃ、殿」
「おお、新八郎か。ようやく常のそなたに戻ったの。今しがた、そなたの子や孫らの紹介は終わったのじゃが」
「はっ、それは記憶してございまする!申し上げたいのは、後ほど某の婿二名と婿の兄らが参ることにございます」
「ほう、大久保新八郎忠俊が婿らとその兄弟が参ると申すか」
元信が大久保新八郎から聞くには、その者らは出発が遅れるゆえに、先に準備の整った自分らが大樹寺へ来たというのだ。
「左様か。では、その者らの名だけでも聞いておくとしようぞ」
「はっ、然らばお伝えいたしまする!」
そう言って、大久保新八郎が遅れてくる者らの名を元信へ耳打ちしようとしたところで、天野三郎兵衛景能が来客が来たと取り次いできた。
「ほう、来客とな。誰が参ったと申すか」
「はっ!筧平三郎重忠、筧平四郎正重、筧又蔵正則の三兄弟と蜂屋半之丞貞次の四名にございまする!」
「ほう、四名か。さては、大久保新八郎が遅れて参ると申した四人ではあるまいか」
「いかにも。某が今申し上げようとしていた名ばかりにございますれば」
ちょうどよい時に来た。その言葉が相応しい時期に来た四名は、まもなくして天野三郎兵衛に案内される形で元信の前へとやってきた。
「大久保新八郎、そちの婿というのは誰と誰じゃ」
「はっ!筧三兄弟の末弟、筧又蔵と蜂屋半之丞の両名にございまする!」
舅である大久保新八郎に名を呼ばれ、あらかじめ打ち合わせていたかのように胸を張る筧又蔵と蜂屋半之丞。それがおかしく、思わず笑いそうになるのを堪えながら、元信は平静を装って応対してゆく。
「拙者がご紹介に預かりました、筧又蔵正則にございます!兄ら同様、武辺者にございまするゆえ、戦場にて奉公することと相成りましょう!」
「おう、頼もしい言葉じゃ。大久保一族は武勇に秀でた者が多いゆえ、新八郎らとともに今後とも戦場での活躍を期待しておるぞ」
「ははっ!」
元信よりも十六年上、三十一歳となる筧又蔵は長年戦場を往来して黒く焼けた肌から白い歯を覗かせながら、意外なほどに丁寧な一礼をしてみせた。
その礼を隣で垣間見ながら、いかにも見よう見まねな礼を見せたのが蜂屋半之丞貞次。こちらは元信とさほど齢は変わらず、十八となる若武者であった。
「殿、お初に御意を得ます。は、蜂屋半之丞貞次にございまする!以後、よろしゅうお頼み申す!」
相変わらず緊張が抜けない様子の蜂屋半之丞。そんな彼が元信に向ける真っ直ぐな瞳は彼の性格を物語っていた。
「うむ、よろしく頼むぞ。半之丞」
「はっ、ははっ!」
蜂屋半之丞が深々と一礼すると、元信は筧又蔵の兄たちへと言葉をかけてゆく。
「たしか、そなたたち兄弟は父の命を受けて上和田城主・松平忠倫を討ったのであったな」
「おお、殿はご存じでしたか。それは嬉しき限りに」
「殿、これこそ暗殺の折に用いた脇差にございまする。そして、こちらが暗殺の証として持ち帰りし松平忠倫が佩刀、平安城長吉の刀にございまする」
「ほほう、これがその折の……。手に取っても構わぬか?」
「無論にございまする!」
元信はきちんと所持者・筧平三郎重忠より許可を得たうえで二振りの刀に手をかける。どちらの刀も手入れが行き届いており、それは刀としてもこれほどの持ち主に出会えたことは幸福だと思えるほどに。
「うむ、父よりの無理難題に応え、松平忠倫をお主ら兄弟が討ったからこそ今の松平家はある。改めて礼を申すぞ」
「勿体なきお言葉……!」
やはり三河武士というのは情に厚く、涙もろいらしい。筧平三郎・平四郎の兄弟も令に漏れず、両の眼から数多の雫をこぼすのであった――




