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不屈の葵  作者: ヌマサン
第3章 流転輪廻の章
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第44話 わが身をいたわってくれる良臣たち

 今川義元より許可を得て、生まれ故郷・岡崎へ帰郷した松平元信。妹たちとの対話が難航する中、遠慮気味に石川右馬允が入室。父・石川安芸守忠成へ耳打ちしていた。


「ほう、左様か。彦五郎、お主のところの長男が泣き出したとのこと。ちとあやしに行ってまいれ」


「はっ!されど……」


 今、離席してよいのか。そのような目で元信に問いかける二十三歳の石川彦五郎。それに元信は笑顔で応じ、石川彦五郎は深々と一礼し、そそくさと退出していった。


「石川安芸、彦五郎には子がおったのだな」


「長男は今年で三ツにございます」


「ほほう、幼く可愛い年頃ではないか」


「殿もお会いになられまするか?」


「否、その子は泣いておるのであろう?妹ともろくに話せぬ者が赴いたとて、泣き止むどころか、より一層泣かせてしまうことにもなりかねん」


 妹らと一言も話すことができておらぬ状況を、誰よりも気にしている。そのことがその場にいる大人たちには理解できるだけに、どう言葉を返すべきか、迷ってしまうのも無理はなかった。


「そ、そうじゃ。雅楽助!そちの子も大樹寺へ参っておろう。この石川安芸にとっても可愛い外孫、ぜひとも殿へご披露したい」


「さ、左様にございますな!ただ今、連れて参りまするぞ」


 廊下にて元信と家族の対面を涙ぐみながら見守っていた酒井雅楽助政家。この微妙な空気を取り繕おうとする舅の言葉に弾かれるように、石川安芸守忠成の娘との間に生まれた男子を呼ぶべく別室へ足早に向かっていく。


 そうして戻ってきた酒井雅楽助が連れてきた息子は緊張しているのか、どこか動きが鈍い。


 まだ八歳の童といえども、周囲の大人たちが大切な主君と崇めている人物が目の前にいることは理解している。だからこそ、緊張しないようにしても緊張してしまう、といったところであった。


「殿。こちらが不肖の倅にございます」


「おう、父に似て良き武者ぶり。あと十年もすれば、わしを支える良き家臣となるであろう」


 涙を拭いながら我が子を紹介する酒井雅楽助。涙もろい大人たちに内心では苦笑いを浮かべながら、目の前にいる八歳の少年と向き合う元信なのであった。


「実は、この子は殿が駿府へ赴いた天文十八年に生まれたのでございます」


「ほう、わしが駿府へ赴いてより、赤ん坊が自分の足で立って歩いて参るほどに時が経過したとのことの表れでもあるのか」


 そう考えると、元信は感慨深いものを感じた。自分では意識しているつもりであった時の流れ。これを思いのほか認識できていなかったことに、今こうして気づかされたのである。


「うむ、雅楽助。そちの子に会えたおかげで、わしは新たな気付きを得た。礼を申すぞ」


「有り難きお言葉……!」


「これこれ、また涙が零れておるではないか。石川彦五郎が長子と良い勝負ではないか」


 元信の言葉に、酒井雅楽助は照れくさそうに笑い、石川安芸や鳥居伊賀、鳥居四郎左衛門、石川右馬允らは声を上げて笑っていた。そして、満座笑いが満ちるのにつられて、随念院も田原御前も、上品に笑い始める。


 先ほどまでの空気から一転、笑いによって楽しく、明るい空気が呼び戻された。当の元信はといえば、自分が酒井雅楽助にかけた言葉でかように大勢が笑うようなことになろうとは夢にも思わず、一人だけ笑みがぎこちなさが残っていた。


「よし!されば、この鳥居伊賀も婿や孫をお連れ申そう。四郎左衛門!本多作左衛門と三宅惣右衛門を連れて参れ!」


「承知いたしました!されど父上、作左衛門殿は一族で参っておりましたが、作左衛門殿一人をお連れするので?」


「いや、作左の父と兄、弟もみな呼んで参るがよい」


「然らば、お連れいたしまするゆえ、しばしお待ちくだされ!」


 少年らしい元気に満ちた足音が廊下から聞こえてくるのを楽し気に聞きながら、元信は鳥居伊賀・石川安芸とも言葉をかわす。その中で、廊下で律儀に突っ立っている鳥居彦右衛門尉を呼び寄せ、父との対面を済まさせるなどして、時を過ごした。


 そうして、鳥居四郎左衛門が退出してよりしばらくして、いくつかの足音が折り重なって聞こえてきた。


「殿!お連れいたしました!」


「おお、ご苦労であった」


 片膝をつき、目を閉じて報告する所作が美しく洗練されている。そのことに感心していると、廊下に老若の男子が横一列に並んだ。


「殿!某は本多次郎大夫重正(しげまさ)と申しまする。ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉りまする……!」


 一番左に正座し、左右の手を床について一礼する老人。彼こそ、元信の祖父・松平清康の代より松平家に仕える本多次郎大夫重正であった。


 そんな祖父の頃よりの老臣と対面した次は、その隣に控える中年男性が一礼する。父が話し終えた後の絶妙な間で話し始める様子が印象的である。


「本多孫左衛門(まござえもん)重富しげとみにございまする。以後、お見知りおきくださいませ」


「おお、頼りになる面構えをしておる。うむ、わしに子が生まれた暁には傅役を任せたいものぞ」


「勿体なきお言葉……!本多孫左衛門、この命を懸けて殿の御為に働きまするぞ!」


 三十八歳の本多孫左衛門と十五歳の元信。二十三もの年齢差があり、親子ほど年が離れている。そんな主従が交わす言葉に皆が感動を抱きながら見守る中、隣にいる二十八の若者が鼻で笑ってみせた。


「これ、作左衛門さくざえもん!何を笑うか!」


「ふん、兄者がこのような若造に篭絡されておるのだ。おかしくて笑いが止まらぬわ」


「口が過ぎようぞ!作左衛門!今すぐ殿に詫びよ!」


 空気が一変。突如として喧嘩となる本多孫左衛門と本多作左衛門。十も離れた兄と弟の兄弟喧嘩は激しく、主君の面前であることも忘れて罵り合っていた。


 その様子に茫然とする元信を見かねてか、鳥居伊賀が傍へ参る。


「殿……!某の娘婿が無礼、何卒お許しくださいませ」


「おお、あの本多作左衛門こそ鳥居伊賀が娘婿であるのか」


「はっ、あのように剛邁ごうまいな輩にございまするが、目をつむっていただきたく……」


「かまわぬ。思うたことを率直に主君へ伝えられる家臣は貴重なもの。ゆえに、罰することなど思いも寄らぬ」


 主命を忠実に実行する三河武士が多い中、本多作左衛門は物怖じせずに諫言してくれる。それ故に、得難い家臣であると元信は感じていたのだ。とはいえ、何でもかんでも噛みつかれては敵わないのであるが。


 その後も激しく口論する孫左衛門と作左衛門の兄弟。それを父親として本多次郎大夫が仲裁につとめている。その傍ら、鳥居伊賀によって隅で委縮してしまっている二人の少年が元信の眼前へ招かれた。


「ほれ、二人とも。殿に御挨拶を」


 鳥居伊賀に促され、言い合っている兄弟の方をチラリと窺った少年の方から自己紹介を始める。


「はっ、拙者は本多次郎大夫重正が四男!本多九蔵重玄(しげはる)と申しまする!あちらで言い合っておる兄らが大変ご迷惑をおかけいたしておりまする……!」


「おお、孫左衛門と作左衛門の両名が弟か」


「はいっ!殿と同じく天文十一年生まれにございますれば」


「ほう、わしと同じ十五の年か。親近感が湧くのう」


 思いがけず、目の前にいる少年が同い年ということに元信は親しさを感じていた。そうして本多九蔵が近ごろ武芸に熱を上げていることなど、次に会う時には手合わせをしようなどと話し、残るもう一人の少年へと話題が転じる。


「殿、某は三宅政貞が長子、三宅(みやけ)惣右衛門そうえもんにございます!」


「うむ、鳥居伊賀が孫とはそちのことで合っておるのか?」


「はっ、某の母が鳥居伊賀守さまの娘にございまするゆえ」


「されば、鳥居彦右衛門尉や鳥居四郎左衛門らにとっては甥にあたる者でもあるか」


 三宅惣右衛門と聞いた時、元信の心はさほど動かなかった。されど、鳥居家の縁者であると知り、その心の距離が縮まる、妙な心地がするのである。


「三宅惣右衛門、そちもわしと近い年頃と見えるが、いくつになるか」


「はっ、某は十三になりまする!」


「左様か。さすれば、あと二三年もすれば元服を迎える年か。その折には偏諱するとしょうぞ」


「あ、ありがたき幸せ……!その名に恥じぬ武者となれるよう、今より一層の鍛錬に励みまする!」


 偏諱するという言葉だけで、三宅惣右衛門の瞳の奥に炎が灯ったようであった。そんな三宅惣右衛門を羨ましそうに、本多九蔵が見つめている。嫉妬の混じった眼差しを向けている様子がどこかおかしく、元信はついに声を漏らして笑い始める。


 駿府に留め置かれ、未だ政に携われていない自分の一字を拝領することをこれほど喜び心待ちにしてくれる者や、隣の者が一字を拝領するかもしれないというだけで羨望の眼差しを向ける。


 岡崎の家臣らにとって、自分はそれほどまでに大切な存在として認識されているのか。そう思わされる出来事であった。


「殿」


「おお、善九郎か。いかがした?」


「はっ、某の弟が阿部四郎兵衛さまと阿部四郎五郎さまに連れられて大樹寺に参りましたので、取次に参りました」


「左様か。こうも人数が増えては、この部屋にて応対するは困難であろう。ゆえ、別室にて応対することといたそう」


 そこまで言うと、元信は起立。駿府よりともに参った酒井雅楽助らを引き連れて別の間へと移っていく。それと同時に、随念院と田原御前は矢田姫と市場姫を伴って大樹寺を去り、家路についた。


 元信は随念院が輿に乗るところまで見送ったのち、大樹寺の僧らに別の空き部屋を借り受ける旨の了承を得、阿部四郎兵衛定次(さだつぐ)、阿部四郎五郎忠政、阿部善八ぜんぱちの三名と対面した。


「竹千代君……いいえ、殿。お初にお目にかかります、阿部大蔵定吉が弟、四郎兵衛定次にございまする」


「おお、そなたの兄にはよく世話になっておる。して、阿部大蔵の姿が見えぬが、壮健にしておるか」


「そ、それが病に臥せっており、大樹寺へ参ることも叶わず……」


「左様であったか。阿部大蔵は祖父の頃よりの忠臣。しかと養生し、また元気な顔を見せてくれ。こう申しておったと伝えておいてはくれまいか」


「そのお言葉、兄も大層喜びましょう……!無論、お伝えいたしまする!」


 松平清康以来の忠臣・阿部大蔵。そのことを現当主・元信が認識してくれている。それが弟として、阿部四郎兵衛は何よりも嬉しかったのである。


「殿、阿部四郎五郎忠政にございまする!」


「おお、そちが大久保左衛門次郎忠次の次男であるか」


「はい!此度は養父とともに訪問いたしました!」


 大久保家から阿部家に婿養子として迎えられた、それが阿部四郎五郎忠政なのである。


「これなる四郎五郎は武芸を好み、中でも弓術に定評がある者にございまする」


「ほう、蟹江七本槍ゆえ槍の名手かと思うておったが、弓が得意であったか」


「はっ、いつか殿の御心も射止めてみせまするぞ!」


 何気ない阿部四郎五郎の言葉。しかし、『御心を射止める』という箇所に、元信はぶるっと身震いをしてしまった。


「と、殿!いかがなされましたか!?」


「い、いや、何でもない。ちと寒気がしたまでのこと」


「そ、それは一大事じゃ!は、早う殿にはお休みいただかねば!」


 真っ先に駆け寄った阿部善九郎は心配そうな面持ちであり、傍にいる平岩七之助ら近侍もうろたえるばかりであった。


「阿部善九郎、天野三郎兵衛の両名は殿を寝所へお運びせよ。鳥居彦右衛門尉は植村新六郎とともに鳥居伊賀守が元へ向かい、殿はお休みになるゆえ、本日はお引き取り願うのだ。平岩七之助は某とともに和尚のもとへ、参るぞ」


 能率的に指示を出し、主君のために行動する酒井雅楽助。元信は『大げさな……』と思いながらも、自分の身をこれほどまでに労わってくれる家臣を持てた僥倖に感謝したい気分でもあった。


「むっ、阿部善九郎と天野三郎兵衛!殿を担ぐことは叶いそうか!」


「はいっ、担ぐことは問題なく!されど、誰ぞ戸を開けてくれる者が……」


「よし、七之助!そなたは殿の寝所までの戸を開け、担ぎ込めるように支度いたせ!そうじゃな、阿部善八もそこな平岩七之助の手伝いをするのじゃ」


「「はいっ!」」


 平岩七之助と阿部善九郎が弟・善八の返事がほぼ同時。そのことに元信は不意に笑いをこぼすと、張り詰めた室内の空気が少し緩んだようであった。


 かくして、手分けして寒気がするという主君・元信を寝所を運び、その日はお開きとなったのである。


「殿、お加減はいかがにございまするか?」


「加減も何も、大したことではない。じゃが、お主たちの気遣いに甘んじて、今日はゆるりと養生することといたそう」


 そうして元信は数年ぶりに本国三河にて数年ぶりに眠ることができた。まだまだ枕を高くして眠ることは敵わないが、三河への帰国が叶っただけでも大進歩なのであった。

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