第21話 日ノ本一の山に登ったお山の大将
駿府にて祖母・源応尼が義元に掛け合い、養育にあたる旨の了承を取り付けたとは露知らず、竹千代の駿府入りの準備で松平家は大忙しであった。
「我らが殿が駿府へ発たれるにあたり、誰をお供させるか……」
阿部大蔵定吉、石川安芸守忠成、酒井雅楽助政家、大久保新八郎忠俊、鳥居伊賀守忠吉、平岩金八郎親重、酒井将監忠尚ら重臣は竹千代とともに駿府へ向かわせる者には誰が良いか、頭を悩ませていた。
もちろん、誰でもよいというわけではない。竹千代に近侍する小姓は年が近い者の方がよいのは共通認識といっても過言ではなかった。しかし、それだけでは子供ばかりとなってしまい、いざという時に竹千代を守ることができない。
「然らば、この酒井雅楽助政家が殿をお守りするべく、駿府へ同道つかまつる!」
そういって膝を進める二十九歳の酒井雅楽助。竹千代の誕生時、へその緒を切る胞刀の役を務めた彼ならばと、反対する者は出なかった。
「御一同、よろしいか」
酒井雅楽助の後を引き取るように発言したのは、つい先日まで反旗を翻していた酒井将監であった。
裏切り者と謗る者も多いが、この場にいる重臣らは彼の松平に込める想いの深さをよく理解している。それはさておき、松平家中で筆頭の貫高を誇る酒井将監忠尚が何を言わんとしているのか。一同の視線が彼の口元へ集中する。
「拙者は同行する大人として、甥の酒井左衛門尉忠次を推挙いたす」
「あの、えびすくいの左衛門尉か」
「いや、彼もまた忠義に熱い武士。この大久保新八郎は適任じゃと思う」
大久保新八郎の口添えもあり、二十三歳の酒井左衛門尉忠次もまた、駿府へ同行することとなった。こうして同伴する大人二名が決定。その後も誰を竹千代に付けるかの評定が続けられる。
結局、石川安芸の孫にあたる十七歳の石川与七郎数正、十三歳の天野又五郎、九歳の阿部徳千代、竹千代と同じく八歳の平岩七之助、七之助の異母弟・平岩善十郎などが随行する運びとなった。
竹千代とその一行が駿府へ到着したのはその年の十二月二十四日。竹千代が住まう駿府の少将之宮の町は遠く三河より人が来ると知り、幾人かのやじ馬が見受けられた。
その日の天気は晴れ。されど、竹千代の到着を喜んでいるかのように、風花も舞い散っている。晴れのような雪のような、いかんとも表現しがたい天候の中、竹千代は輿に揺られながら駿府の仮寓へ入った。
「殿、駿府に到着いたしましたぞ」
「うむ。寒いに、皆もご苦労であった」
一応、君主としての意識があるのか、同行している酒井雅楽助らにも労いの言葉をかけていく。
八歳児でここまでのことができるとは、まさしく麒麟児である。酒井雅楽助は英雄の片鱗のようなものを竹千代から感じていた。
寒さが厳しくなる中、竹千代一行は駿府の仮寓にて越年。天文十九年の正月を迎えた。
元日は恒例によって、今川家臣一同はもちろん、京よりの公卿らも御所の表御殿に参集し、義元へ年賀の祝いを述べていた。
正面の上段の間には言うまでもなく、今川治部太輔義元。その右には静かに目をつむっている太原崇孚。
義元の左隣りには彼の舅にあたる無人斎道有が老いてなお覇気に満ちた様子で座していた。この無人斎道有こそ、甲斐の武田晴信の実父・武田信虎その人なのである。
二百畳あまりある大広間、前面の戸を開け放てば雄大な富士を眺望することのできる、絶好の立地であった。そこへ、諸将が煌びやかに着飾って登城してくるのであるから、繁栄ぶりが目に浮かぶようである。
義元によって指名された者はうやうやしく一礼し、盃を受けていく。酸いも甘いも嚙み分けた老将から血気盛んな若武者まで、幅広い齢の者が義元の前へ出ていくが、一人一人身に纏う雰囲気に差異があるのも、義元にとって楽しみの一つであった。
「そうであった、岡崎の松平竹千代も参っておったな。竹千代、これへ参れ」
今川家に従属して間もない松平の当主ということもあり、竹千代の席は限りなく庭に近かった。そこから、九歳の竹千代が席を立ち、子供らしさを残した歩き方で一歩を踏み出す。
松平の小倅と厳しい目が向けられるが、それがすべてではなく、気張れと応援するような眼差しも数多見受けられた。
素直に義元が手招かれるまま、人と人の間を進んでいく様は実に可愛げがある。ちなみに、この年賀における対面が、竹千代と義元の初対面であった。
「竹千代」
「はい」
「近う参れ。予が今川義元じゃ」
義元が座する上段には上らず、限りなく近い位置まで子供らしい元気さを帯びた足取りでやってきた。我が子よりも、さらに四ツも年下の少年を眼下に見据え、穏やかな表情を向ける義元。
三十二歳の知らない大人を前にした九歳児。満足に話せず、恥をかくようなことが起こるのではないか。そのようなどこか心配げな色が大広間に居合わせる大人たちの表情には混じっていた。
「今川治部太輔義元さま、新年明けましておめでとうございまする。昨年は父が大変お世話になりました」
「ほほう、世話になったことを理解しておるとは聡い子じゃ。よいか、皆の者。この者が広忠が嫡男にして、清康が孫。松平宗家の主であるぞ」
両手をつき、四角にお辞儀をしながら発した言葉は義元の心を鷲掴みにした。可愛げがありながら、大人びている。庇護欲を掻き立てられる何かが竹千代にはあった。
一同の目線が竹千代に集められていく中、決まりきった儀礼に飽きてきていた老人が竹千代に話しかけていく。
「此方が竹千代か」
「はい。竹千代にございます」
「儂は無人斎道有じゃ。その昔、甲斐国主であった男じゃ」
今川家中では御舅殿として今川一門よりも上位に置かれていた無人斎道有。五十七歳となった彼が珍しく興味を持ち、少年に話しかけたのだから、さすがの義元も隣で驚いている様子であった。
「甲斐のコクシュ……」
「甲斐という国を治める者ということじゃ。甲斐は分かるか」
「分かりまする。ここ駿河の北にある国にございます」
「よしよし、その年でそこまで分かっておれば上々上々」
しかも、先ほどまで早く帰りたそうにしていた老僧が上機嫌でいるのだから、一同もどうなることかとはらはらしているのだが、それを知らぬは当人らのみであった。
「竹千代よ。あれなる山は何というか、存じておるか」
「はい、存じております。富士の山にございます」
「うむ、儂は身延山参詣の後、あの富士山へ登ったことがある。ちょいと登ったのではないぞ。山頂まで登ったのじゃ」
無人斎道有は甲斐国主・武田信虎であった頃、富士山頂を一周する「御鉢廻り」を行った。その時のことを竹千代に話聞かせているのである。
そんな「お鉢廻り」は富士山頂の高所を八枚の蓮弁に見立て「八葉」と称し、後には富士山頂の八葉を廻る御鉢参りの習俗が成立。 武田信虎の富士登山は御鉢参りの習俗が戦国期に遡る事例として注目されているのだが、それはさておくとしよう。
「舅殿。そのような小難しい話、竹千代には早すぎましょう。かように困り果てておりますぞ」
「左様か。ならば、御鉢廻りの話はここまでと致そうぞ」
「竹千代、下がってよいぞ」
義元よりも二回りも年上の無人斎道有の相手は、さすがの竹千代にも厳しかった。やや疲れた色を見せながら、席へと戻っていくのだが、去り際の一礼はまた見事なものであった。
その後も元旦の賀は続き、ようやく終わる頃には陽も傾いてこようかという時刻になっている。
こうして、竹千代の新年は始まった。明けて二日からはさっそく手習いが開始されることに。
竹千代は近侍である石川与七郎数正、天野又五郎、阿部徳千代、平岩七之助・善十郎兄弟を伴い、自らの養育にあたる源応尼の元へ赴いていた。
竹千代の住まい近くに結ばれた小さな庵。そこに祖母・源応尼は暮らしていた。昨日登城した御殿とは正反対と言っても良いほどに質素な造りをしている。
同じ人の住まう家でありながら、まったく異なる性質を持っていることに興味津々の竹千代。庵をキョロキョロと見回しながら奥へ奥へと進んでいく。
「竹千代殿。遠いところ、よう参られました」
「遠くはない。そこな屋敷から歩いてこれる距離じゃ」
「ほほほ、そうでございましたなぁ。して、妾のことは存じておりましょうか」
「知らぬ。名前は左衛門尉から聞いておるが失念した」
言葉遣いはやはり子供。難しい言葉も用いるが、相手の気持ちを配慮した言葉選びはまだ難しいと見受けられる。しかし、源応尼が着眼したのはそこではない。受け答えが素直である、この一点であった。
「妾はそなたの祖母じゃ」
「祖母……」
「お許を産んだ母を産んだのが、この源応尼じゃ」
「母の母――」
竹千代は言葉の意味は理解できていた。されど、祖母という言葉に実感が伴わずにいる。
――その理由は母にあった。
竹千代の中で、生母である於大の方が占める割合は肉親の中でも小さい。三歳の頃に生き別れて以来、会うこともなかったのだから、当然と言えば当然である。そんな母親の実母だと言われても実感が湧かないのは無理もない。
ただ、竹千代の反応は源応尼とて十二分に予期していた。しかし、叶うならば、祖母と孫の感動の再会を果たしたかった。
「では、竹千代殿。今川の太守様よりお許しをいただきましたゆえ、妾と普段の手習いをすることになります」
「よろしくお頼み申します。源応尼さま」
祖母として呼んでもらえない寂しさを感じつつ、年明け一発目の手習いが始まる。基本的な文字の読み書きから、礼儀作法などを教わっていく。教え方は実に丁寧で、彼女の教養の深さを感じさせる。
そして、祖母と呼べる年代の尼僧から教えを受ける感覚を想起した竹千代の頭の中には、大叔母・随念院のことが浮かんでいた。さらには、於大の方以上に母として接した時間の長い田原御前の顔が浮かんでくる。
走馬灯のように浮かんでくる顔で、最後に浮かんだのは亡き父・広忠であった。自分が尾張で人質生活を送っている間に体を壊し、若くして亡くなった先代の松平宗家の当主。今一度会いたかった、この世でたった一人、かけがえのない父親の顔。
手元にある半紙に、雨が降り始めたように一つ、二つと重なってこぼれる雫。竹千代の目からこぼれたそれは、堰を切ったようにとどまることを知らない。
自らの双眸から溢れる水滴に気を取られ、いつしか手習いの筆も止まってしまった。
「竹千代殿……」
「竹千代は泣いてなどおらぬ。泣いてなどおらぬ!」
悲しい哉、素直な竹千代が源応尼に対して初めてついた嘘であったのだ。だが、源応尼は怒る気になどなれなかった。いや、なれようはずもない。
三歳で生母と生き別れ、六歳で故郷から引き離され、八歳で実父と死別。さらには、またもや見知らぬ地で生活を送っていかなければならない。そのようなこと、九歳の童の心が耐えうるはずもなかった。
竹千代と源応尼が手習いをしている次の間では近侍の石川与七郎らが貰い泣きしている。主君の辛い境遇に同情したのであろう。中でも、ひときわ大きな声で泣いているのが石川与七郎なのであった。
「では、竹千代殿。本日の手習いはここまでといたしましょう」
竹千代は「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。正しくは言えなかったのだが、なんにせよ返事はなく。
「妾の身の上話もかねて、竹千代殿のお母上のことをお話しすることにいたします」
そう言って、そっと目を閉じて過去を思い出しながら語り始める源応尼。ゆったり落ち着いた語調で語る話は、次第に悲しい気持ちに呑まれている竹千代の注意を引き付けてゆく。
「妾は水野家に竹千代殿の母を含めて、五人の子がおります。二十六歳となった清六郎忠守、伝兵衛近信、十四歳の藤二郎、竹千代殿の一つ上の十歳である藤十郎」
「みな竹千代の母と兄弟ならば、竹千代のおじということになる」
「左様にございます。現在の緒川水野の当主は妾にとっては義理の息子にあたります」
「むぅ、そうなると松平と水野は近い間柄ではないか」
「そうなりましょう。竹千代殿はいわば、松平と水野の架け橋と申せましょう。なるべく、争わずに済む方法をお考え下さい」
昨年、父の死に伴って当主となったばかりの竹千代。自分に流れる血の半分が水野であると源応尼に指摘されてみると、水野とは争ってはならないような心地がしてきた。
「おばばさま、次は母上のことをお聞かせください!竹千代はもっと、様々なことを知りとうございます!」
この瞬間、竹千代は無意識のうちに源応尼を祖母であると認めていたのであった――




