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不屈の葵  作者: ヌマサン
第4章 苦海の章
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第100話 老少本来定むる境なし

 謡によって賑わう今川家の陣中にて、松井左衛門佐宗信と井伊信濃守直盛は義元に召し出されていた。


「太守様、お呼びでございましょうか」


「うむ。前衛も疲れが見え始める頃であろう。松井左衛門佐は朝比奈丹波守らが進んでいった長坂道の東西にある高根山から幕山にかけて部隊を展開させよ。井伊信濃守、そなたは陣を巻山より前進させ、北の織田軍の動きに警戒するのだ」


「承知いたしました!」


「しかと承りました!」


 命を受けた松井左衛門佐と井伊信濃守はただちに隊を前進させるべく、各々が陣地へ急ぎ戻っていく。そこへ、義元は思い出したように庵原将監忠春を手招いた。


「何事かございましたか」


「うむ、ただちに大高城におる瀬名陸奥守へ使者を。手薄な桶狭間と大高城を結ぶ地点に布陣して連絡路を確保しながら北の小川道を警戒するように、と」


「ははっ、ただちに使者を出しまする!では!」


 庵原将監は早馬を出すべく、義元の御前より駆け出す。どことなく慌ただしさの残る陣中は突如、豪雨に見舞われたのである。


「鬱陶しい雨じゃ」


 自らの血をたかりに来る蚊を白扇で追い払いながら、苦々しげにつぶやく義元。


 その頃、この突然の豪雨に織田軍・今川軍を問わず狼狽している頃。中島砦に織田信長の姿はなかった。すでに中島砦の東にある丘の北側を通り東進し、手越川上流へ到達していた。


「殿、この川を渡らねば義元の本陣は襲えませぬ!」


「分かっておる。されど、川を渡れば敵に気づかれる恐れもある」


 そう言って、血気に逸る池田勝三郎恒興を制しながら、信長は悩んでいた。ところへ、この豪雨である。


「おお、これぞ熱田の神が与えし好機!この雨音に紛れて渡河を決行する!これだけの雨では、川を渡る音もかき消され、山の上からでは我らの姿など見つけられまい!さぁ、一気に押し渡れ!」


 信長の演説に武者震いが止まらぬ織田の精鋭一千はついに手越川を渡河。生山を影にするように回り込んだこと、さらには豪雨による視界の悪さも相まって、ついにすぐ傍の高根山に布陣する松井宗信の隊に見つかることはなかった。


 そして、生山から釜ヶ谷と武路を経由し、今日では信長坂と呼ばれている坂道を登り、ついに今川義元の本陣を視界に捉えた。


 人馬に叩きつけるような雨粒に右往左往し、吹き荒れる暴風に陣幕を飛ばされまいとする今川軍。


 それを自らの眼で捉えた信長は陣刀・長谷部国重を高々と掲げ、全軍へ号令する。


「よいか!これよりの戦、今川義元以外の首級を手柄とは認めぬ!それ以外の首は打ち捨てよ!狙うは今川義元の首一つ!かかれっ!」


 永禄三年五月十九日未の刻。ついに、織田信長による大博打が始まった。


 織田の精鋭一千は今川義元という獲物を仕留めるべく、我先に坂を駆け上がり、山上の今川本陣へと斬り込んでいく。


 兵を分散させていたこともあり、双方の戦力に格段の差はなかった。そこへ、手柄に飢えた猛獣と化した織田兵が雪崩れ込んだのだから、義元本陣に混乱が起こる。その騒ぎは、すぐに義元に報せられた。


「なんじゃ、雑兵どもの喧嘩か!」


「おそらくそうであろうかと。方角からして、庵原右近が隊かと」


「富永伯耆守、すぐにも止めに向かえ」


「承知しました」


 雑兵の喧嘩であろうと悠長なことを言っていた富永伯耆守氏繁が騒動の鎮圧へ向かったすぐ後、由比美作守正信が血相を変えて義元の元へ駆けこんできた!


「太守様!」


「雑兵の喧嘩ならば富永伯耆守を向かわせ、鎮圧に当たっておるで案ずるでない」


「いえ!雑兵の喧嘩などではございませぬ!これは敵襲です!」


「何をたわけたことを――」


 そう言いかけて義元は口をつぐんだ。義元にとって、譜代の重臣で実直な由比美作守の眼を見れば、嘘偽りではないことの証左であった。


「よし、まこと織田の奇襲であるならば、ここを離れねばならぬ!久野氏忠は予の馬を!長谷川伊賀守は予の旗本衆へ告げ、予に続くように伝えよ!」


 久野氏忠、長谷川伊賀守元長は返事をすることもなく、弾かれるように命じられたことの支度にかかる。肝心の義元は由比美作守に手を引かれながら本陣の外へ。


 そこには汗なのか雨粒なのかは判然としないが、ずぶ濡れの久野氏忠が金覆輪の鞍置きに紅の鞦が目を引く馬高五尺五寸の青毛の馬をひいて待機していた。


「ご苦労じゃ!さっ、ここより最も近い場所に陣する井伊信濃守がもとへ向かう!出発じゃ!」


 かくして、今川義元は旗本三百余人に守られながら本陣を脱出。続く家臣は由比美作守、長谷川伊賀守、久野氏忠ら。


 その頃、義元が早くも脱出したことを知らぬ信長らは四方八方へ逃げ散る雑兵の波をかき分けながら、歯向かう今川家臣らを斬り伏せながら義元を見つけ出そうと躍起になっていた。


「庵原右近忠春とは拙者のこと!この首取って手柄とせよ!」


 井伊信濃守、松井左衛門佐と共に義を重んじ、武勇に優れた豪傑――庵原右近によって、殺気立つ織田兵が一人、また一人と切り伏せられていく中、河尻与四郎秀隆が立ちふさがる。


「この者の相手は、この河尻与四郎が引き受けた!皆は先へ進め!」


「おう、少しは骨のありそうなやつが出てきよった!拙者――」


「庵原右近殿とお見受けいたす!その武名は耳にしておる!いざ、手合わせ願おう!」


「受けて立つ!」


 手練れ同士の斬り合いが起こる中、他の織田兵は信長に率いられて義元本陣を突き進んでいく。


「殿!もぬけの殻じゃ!」


 義元が座していた場所を先に探索していた生駒八右衛門家長は口惜し気に報告する。だが、その場に立ち尽くしている時間など、信長にはなかった。


「むっ、その足跡はなんじゃ!」


「ほ、本陣の外へ続いておりまする!しかも、大勢の足跡が固まっておるし、馬蹄の跡も……!」


「四方八方に逃げ散った雑兵どもの足跡ではない!者ども、この固まった足跡を追え!急げ!」


 そうして慌ただしくなる信長勢へ今川家臣たちが先へ進ませまいと斬りかかっていく。


「我が名は四宮左近!これより先へは進ませぬ!」


「雑魚は引っ込んでおれ!」


 四宮左近が名乗るなり槍で串刺しにしたのは森三左衛門可成であった。


「某は三浦左馬助義就!織田信長と見受けたり!その首、頂戴いたす!」


 さっと信長めがけて繰り出される長槍の穂先は、次の瞬間には文字通りの横槍が入り、妨げられた。


「生駒八右衛門家長と申す!三浦某とやら、殿はやらせぬぞ!」


 そうして生駒八右衛門と三浦左馬助とで槍合わせが始まる中、信長は何も言わずに追跡へと移行していく。


「蒲原氏徳はこれにおるぞ!織田の者どもめ、好きにはさせぬ!」


 そう言って、太刀を振り回して暴れまわる蒲原氏徳には、乱戦の中で信長とはぐれた池田勝三郎が斬り結んでいく。


 義元の命を受けて庵原右近のもとへ向かった富永伯耆守氏繁は乱戦の中で河尻与四郎と一騎打ちをする庵原右近の姿を見つけるも、背部から槍を突きたてられる。


「くっ、貴様……!何奴じゃ……!」


「一騎打ちの邪魔をせんとする無作法者め!冥途の土産に教えてやる!わしは塙九郎左衛門尉直政じゃ!」


「ぐっ、ぐはっ!」


 名が鼓膜に届くのと同時に胸部より槍の穂先が飛び出し、富永伯耆守もここに絶命。


 その場から一町ほど離れた地点では信長を追おうとする佐脇藤八郎良之と一宮宗是が、長谷川橋介と斎藤掃部介利澄が太刀打ちしていた。


「某は一宮宗是!」


「おお、武田への援軍として派遣されたとかいう……!拙者は前田利春が五男、佐脇藤八郎良之と申す!」


「おう、このいけ好かぬ若造めが、我が刀の錆にしてくれるわ!」


 決着がつきそうにない佐脇藤八郎良之と一宮宗是が斬り合う側では、長谷川橋介と斎藤掃部介利澄が丁々発止でやり合っていた。


「長谷川橋介と言ったか!なかなかやるではないか!」


「貴殿こそ、良き太刀筋!されど、すでに見切った!」


 一太刀入れれば、一太刀返す。そんな応酬が繰り広げられる中、己の生死をかけた戦いの中で、長谷川橋介と斎藤掃部介はどこか楽しげでもあった。


 こうして各地で織田と今川とで斬り合いが起こる中、信長は甲冑ごしに雨粒に打たれながら今川義元を討ち取るべく、追撃の真っただ中であった。


 一方、追われる側となった義元はといえば、この大雨によって足元がぬかるんでいたせいで、騎馬の機動力を活かすことが叶わず、未だ井伊信濃守の陣へはたどり着けずにいた。


「いたぞ!今川義元じゃ!」


 その声に驚き、義元が背後を振り返ると、三町ほど先、豪雨の中を動き回る十名ほどの織田兵の姿が確認できた。


 しかし、その声を聞いてか、騎馬に乗った若大将が百名近く引き連れてその織田兵らと合流し、猛獣の眼をこちらへ向けたのである。


「太守様、ここは久野氏忠めが引き受けまする!」


「な、何を申すか!」


「ここで太守様が討たれるようなことなど、あってはなりませぬ!美作守殿、伊賀守殿!後はお頼み申す!」


 そう言い残すや、五十に満たない手勢を率いて突進してくる百以上の織田兵を迎え撃ったのである。


「太守様!さっ、参りましょう!」


「う、うむ」


 視界も悪ければ、足元もぬかるんでいる逃走経路である。久野氏忠の奮闘空しく、義元に追いすがる織田兵の襲撃に二度も遭遇し、そのたびに、義元の周囲からは兵が減っていくのであった。


「あれが義元じゃ!討ち取ってしまえ!」


「逃がすなっ!追えぇ!」


 逃がしてなるものかと遮る今川兵を斬り伏せながら追いかけてくる織田軍。義元はこれほど殺意を浴びながら逃げることの辛さ、恐怖といったものがどういうものであるのか、体験として理解させられていた。


「太守様、次は拙者が参りまする」


「長谷川伊賀守、そなたまで何を申すか」


「某の諱には太守様の魂が籠もっておりまする。必ずや、武神の加護があると信じておりまする!さぁ、長谷川の者共よ!織田の奴らを一人でも多く道連れにしてやろうぞ!」


 そう叫びながら、織田兵の只中へ家臣たちとともに斬り込んでいく長谷川伊賀守元長。すでにこれまでの織田兵との交戦において負傷していた彼は、ここが死に場所と覚悟を決めたのである。


 義元は泣きたくなった。一人、一人と自分を守るべく、辛苦を共にしていた家臣たちが命を落としていくのである。それも嫌々といった様子でなく、むしろ進んで命を落としに行っている風でもある。


 そんな悲運の義元の前に深田ふかだ、すなわち泥の深い田に行く手を阻まれたのである。


「これは、どうしたことぞ」


「太守様、ここらは田楽坪と称される場所であるそうな」


「田楽坪か」


 このような深田では馬での移動など到底できようはずもなく、ここまで逃亡を共にしてきた馬を乗り捨てる形で、ついに徒歩で深田を渡ることとなった。


「くっ、田とはこれほどまでに歩きにくいものであったか!」


「百姓どもはさほど苦労することなく、移動しているように見受けられましたが……」


「武士が自然に刀や槍を振るえること、僧侶が自然に読経するのと同じことよ。慣れ、というものじゃ」


「ははは、さすがは太守様じゃ。であらば、百姓であったならば、我らも逃げおおせたやもしれませぬ」


 そうして笑っていられるのも、この一瞬だけであった。たちまち追いついてきた織田兵が仲間を呼び、どんどん数を増やしていく。


 そして、罠にかかった獲物をなぶるかのように矢を射かけてくるのである。その矢によってある者は射殺され、ある者は足を射抜かれて田んぼに倒れ込む。


「ぐっ!」


「美作守!」


「太守様、某などに構ってはなりませぬ!太守様は駿遠三の三ヶ国を統べるやんごとなき御方!さぁ、前へお進みくださいませ!」


 右肩の矢傷から血を流しながら、にっと豪快に笑ってみせる由比美作守正信。彼はその後、深田へと足を踏み入れて追いかけてくる織田兵と切り結び、あえなく絶命となった。


 だが、それは義元とて例外ではなかった。何とか深田を渡り切ったところで、体力的に義元よりはるかに優位に立つ織田兵の若手らが先を競って向かってくるのである。


 ――されど、天はそこへ助け舟を遣わした。


「太守様!ご無事でしたか!」


「おう、松井左衛門佐か!」


「はっ!松井左衛門佐宗信!手勢二百を引き連れ、ただいま参上仕りました!」


 共に本陣より逃げ出してきた旗本衆も百を切った義元にとって、これほど心強い援軍はまたとない。


「よし、太守様をお守りし、ここは一旦退くのだ!」


 文字通り九死に一生を得た今川義元。しかし、突如として深田とは別の方角より織田兵の集団がぶつかってきたのであった――

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