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86.彼女の星

「――テオ・エシュ・ネクシオ・トラリットリ……! 火箭ナール・ヘッツ!」


 暗い虚空に、人の頭ほどもある火の玉が浮かび上がった。

 それはぱっとあたりを照らし、火の粉を散らし、喊声を上げて突っ込んでくる敵兵の眼前へ落下する。

 爆音が弾けた。燃え盛る炎に巻き込まれ、先頭を走っていた敵兵が吹き飛ばされる。後続の敵も動揺した。ジェロディはカミラ隊の兵と共に、すかさずそこへ殺到する。


「マリーはトビアスさんと一緒に後方へ! 負傷者に備えて……!」

「はい……!」


 後方からマリステアの返事が聞こえたのを確かめて、ジェロディは斬り込んだ。悲鳴を上げる敵兵を薙ぎ倒し、前へ、前へ、前へ。こちらの前進を阻むべく突出してきた敵の壁を、がむしゃらに突き破る。

 ビヴィオ郷庁の裏手にある獄舎。その入り口の前には、ざっと百人近い敵兵が展開していた。

 この町に駐屯している地方軍の規模が二百程度だったことを考えると、およそ半分の兵力がここに集中していることになる。なるほど、これはイークも手こずるはずだ。


 何故彼らはそこまで頑なにこの獄舎を守ろうとするのか。ジェロディは地方軍の行動に一抹の異様さを感じたが、今は悠長に思考している場合ではなかった。

 理由が何であれ、とにかくこの守りを突破しないことには村人を救出できない。こちらはカミラ隊の五十人にイーク隊から合流した二十人が加わって七十の兵力だ。戦力差は埋まった。突破できる。今なら。


「カミラ、敵の後衛を……!」

「任せて!」


 剣弓の呼吸、という言葉がある。

 エマニュエルには神剣の化身であるヘレヴと神弓の化身であるシェラハという神がいて、この二柱の神は非常に呼吸が合っていた。

 ヘレヴが先陣を切って魔軍へ突っ込み、後方からシェラハが援護する。どんなに遠く離れていても互いの声が聞こえているような、奇跡じみた連携で。


 今のジェロディとカミラは、まさにそれだった。

 何故だろう、彼女とは不思議と息が合う。

 余計な打ち合わせや合図はいらない。目が合っただけで相手の考えを理解できる。まるでずっと昔から・・・・・・・・・こうだったみたいに・・・・・・・・・


「ネ・クィト・カティ・テフアトル――クィマ・ヤフィ! 火焔嵐タブエラ・セアー!」


 ジェロディが味方と共に抉じ開けた血路から、カミラが一人飛び出した。突き出された彼女の両手に炎が宿る。

 横殴りの熱風かぜが吹いた。それは地面と水平に逆巻く炎の渦だった。

 熱さを感じないはずのジェロディでさえ息を飲むほどの熱量。その渦が大蛇おろちのごとく敵兵の壁に襲いかかり、呑み込み、大爆発を引き起こす。


「よし、今だ! 煙に紛れて突撃……!」


 先行したカミラに代わって指揮を執り、ジェロディは敵の前衛を蹴散らした。濛々と立ち込める砂塵を突っ切り、獄舎の手前を固めている一団へ躍りかかろうとする。

 だが刹那、にわかに腕を掴まれた。「え?」と思っているうちに引き戻され、後ろ向きにたたらを踏む。

 ジェロディを引き止めたのは、カミラだった。煙のせいで気づかなかったが、いつの間にか彼女を追い越していたらしい。


「カミラ? 何を――」

「――総員退避!」


 ジェロディの問いをみなまで言わせず、カミラが叫んだ。彼女は煙の中でもそうと分かるほど血相を変え、ジェロディを連れて後退する。

 どうして、と、更なる疑問を差し挟もうとした、直後だった。

 煙の向こうで光が弾ける。黄色みを帯びた土色の光。瞬間、地面がズン、と沈み込んだ――何だ、と思っている暇もない。


 前方の煙を突き破り、にわかに大地が牙を剥いた。地中から横一列に、槍のごとく土塊が突き出してくる。

 あちこちから悲鳴が聞こえた。カミラ隊の兵が地の槍に貫かれ、吹き飛ばされ、瞬く間に混乱が広がる。大地の切っ先はジェロディの眼前にも迫った。貫かれずに済んだのは、カミラのおかげだ。


地刻グラウンド・エンブレム……!」


 呻くようにカミラが言った。それを聞いてようやく、ジェロディも何が起きたのか理解できた。

 地刻。カミラやイークが刻む火刻フレイム・エンブレム雷刻ライトニング・エンブレムなどと並んで、エマニュエルで最もよく発見される種類の神刻エンブレムだ。

 あれはその地刻の力――。カミラは同じ神術使いとして、敵方へ流れる神気を感じ取ったのだろう。だからすんでのところで回避できた。しかし急制動できなかった味方の多くは、神術の餌食となっている。


「やられた……神術使いがいるなんて聞いてないわ……! しかもよりにもよって地術使いなんて……!」

「や、厄介な相手なのかい?」

「厄介なんてもんじゃないわ。地術使いにはほとんどの神術が通じない。あいつらは防御特化型なの。攻撃特化型の火術使いわたしじゃ分が悪い……!」


 知らなかった。それぞれの神刻にも相性のようなものがあるのか。ジェロディはまずそこに驚いて目を見張った。

 そうこうしている間に煙が晴れる。その後に見えた光景は、カミラの言葉が真実であることを如実に物語っていた。


 先程彼女が放った火炎の竜巻。それに呑み込まれたと思っていた敵兵が、無傷のままでそこにいる。

 右手に土色の光を宿した兵士が、ニヤリと不敵に笑ったのが見えた。地刻は防御特化型――ということはカミラの神術もやつに防がれたのか。ジェロディが茫然としている間に、敵の指揮官が号令する。


「かかれ!」


 怒号が轟き、神術で態勢を崩された救世軍へ地方軍が襲いかかった。逃げ遅れた数人がその鯨波に呑み込まれる。

 それを見たカミラが結った髪を翻し、猛然と駆け出した。カミラ、と思わず呼び止めたジェロディに指示が飛ぶ。


「ティノくんは一旦下がって味方をまとめて! 負傷者の回収を……!」

「だけどカミラは……!?」

「陽動作戦!」

「よ、陽動って――」


 ――まさか囮になるつもりか。ジェロディが息を飲んだところで、カミラが敵兵の真ん中に飛び込んだ。

 彼女を中心に炎が迸り、攻めかかろうとしていた敵兵が吹き飛ばされる。先頭の集団が一瞬怯んだその隙を、カミラは見逃さなかった。

 すかさず敵兵の懐へ飛び込み、下段から斬り上げる。不意を衝かれた一人がたおれ、更に動揺している隣の兵へ躍りかかった。

 たちまち数人の首が飛び、敵の陣列が乱れたところでカミラは駆ける。わずかな間隙に手を突っ込んで、敵兵に囲まれていた味方を引っ張り出した――そうか、彼女は仲間を助けるために……!


「ティノ様、ご指示を!」


 共に後退してきたケリーが叫ぶ。ジェロディは頷いて、夜空そらへ剣を突き上げた。自分を目印に、味方が戻ってこられるように。

 負傷した仲間を引きずり、救世軍兵たちが退いてくる。ケリーがマリステアとトビアスを呼んだ。負傷者を治療させるためだ。

 どうやらトビアスもマリステアと同じく癒やしの術が使えるらしい。聖職者の掟で戦いには加われないが、味方の傷を癒やすくらいならたぶん問題ないのだろう。


「カミラ隊長……!」


 そのとき負傷兵の一人が血を流しながら叫んだ。立ち上がり、再び前線へ向かおうとする彼を周りの仲間が引き止める。

 はっとして振り向けば、カミラは一人で敵勢を引き受け、止まることなく走り回っていた。彼女の髪は赤くて目立つ上に、最初の一撃で神術使いだとバレている。だから敵も彼女に追い縋るのだ。カミラはそれを承知で自ら囮になったのか――。


三連火箭ギメル・ナール・ヘッツ……!」


 残りの力を振り絞るように、カミラが神の力の名を唱えた。彼女の頭上に三つの火の玉が生まれ、間を置かず地方軍へ襲いかかる。

 だが相手もさすがに学習したらしい。パッと赤い光が弾けると、途端に立ち止まって後方へ退避した。炎の弾丸が誰もいない地面を砕き、爆発する。あちこち走り回った上に限界まで神術を行使したせいだろう、カミラもだいぶ苦しそうだ。

 助けに行かなければ。ジェロディは動ける兵を連れて前進しようとした。

 ところが寸前、


大地の咆吼コルカ・ヌンヘマー!」


 カミラの足元に光の輪が浮き上がり、直後、炸裂した。

 轟音と共に大地が爆ぜ、衝撃と破片とがカミラを襲う。


「カミラさん……!!」


 救世軍兵の悲鳴が重なった。カミラは吹き飛ばされる直前、とっさに両腕で顔を庇ったようだがかえってそれが仇となった。

 受け身を取り損ね、隣の建物に背中から叩きつけられる。一緒に吹き飛んだ土塊や小石もかなりの破壊力だったようだ。裂けた衣服のあちこちに鮮血が滲んでいる。

 そのままずるずると落下し、カミラは動かなくなった。頭を打ったのか、それとも。息を飲み、身を乗り出したジェロディの視線の先で、得物を振り上げた一団がカミラへと殺到していく。


「てめえら、よくも隊長を……!!」


 その行動が救世軍兵の怒りに火をつけた。彼らはまだ態勢も整っていないのに、喊声を上げて敵軍へと突っ込んでいく。

 待て、と叫んだが間に合わなかった。横腹を衝かれる形になった敵勢が、ぶつかる前にわっと逃げ散っていく。

 救世軍はそれに誘われた・・・・。激情に任せて深追いする。

 だが相手の備えは万端だった。再び土色の光が閃く。

 まずい。神術の第二波が来る……!


「ダメだ、下がれ! 神術が……!」


 声の限りにジェロディは味方を引き止めた。

 けれど叫びは大地の鳴動に掻き消される。

 地響きが起こり、またも地面が牙を剥いた。無数の土の槍が来る。

 それは地方軍へ殺到する救世軍を、津波のように――


「――光の盾オール・ソーレラー!」


 瞬間、世界が白に染まった。突如巻き起こった閃光に視界を塗り潰される。

 しかしその光の中で、ジェロディは何かが砕ける音を聞いた。

 額に腕をかざしながら、目を凝らす。

 真白く溢れた光の中で見えたのは――粉砕されるいくつもの土の牙。

 いや、それは破壊されているのではなかった。むしろ自壊しているのだ。

 閃光に怯んだ救世軍兵たちの行く手。

 そこに立ち塞がった光の壁が地術を阻み、味方を守り包んでいる。


「ま、守りの術なら、地神の加護より光神オールの御力の方が上ですよ……!」


 ジェロディは驚いた。振り向くと、そこには前線へ向けて両手を翳したトビアスがいた。

 彼が嵌めた白い手套の下からは、それ以上に白い光が迸っている。あれは恐らく――光刻グリーム・エンブレム。神刻の中では特に稀少だと言われている、光明神オールの力の欠片だ。


「今です、マリステアさん!」

「はい……!」


 そのトビアスに促され、マリステアが右手を翳した。そこに青色の光が宿っている。水刻ウォーター・エンブレム。まさか――


雨の神タリアさま、泉の神ラフィさま、河の神ベラカさま、大いなる水神マイムさま……! どうかこの手に偉大なる御力をお貸し下さい――大水流ガドル・マ・ヴエ!」


 青い閃光。マリステアの右手から放たれたそれが矢のように飛び、飛沫を上げ、やがて鉄砲水へと姿を変えて地方軍を襲った。

 殺傷能力はほぼないが、すべてを呑み込み押し流す力。巻き起こった奔流は救世軍を守る光の壁を突き抜け、地方軍へと押し寄せる。

 大量の水を被った敵勢は悲鳴を上げて流された。危うく巻き込まれるところだった救世軍兵も逃げ惑っている。

 だがマリステアは、ほとんどの敵兵が流されてもなお水を撒き続けた。まるで己の神力を使い果たそうとしているかのように。


 マリー、もういい。ジェロディがそう言って止めるより、土色の光が弾ける方が早かった。獄舎の鉄の扉前、そこに折り重なるようにして流れ着いた敵兵の中から再び神術の気配がする。

 このまま神術合戦に持ち込むつもりか。ジェロディは身構えた。

 しかし次の瞬間、勢いよく隆起した地面が崩れる。大量の水を浴びた土は泥と化し、槍を形作るための強度を失っていたのだ。


(そうか、マリーはこのために……!)


 マリステアが自分で考えたのか、それともトビアスの提案か。とにかく彼女のおかげで敵の神術は封じられた。

 こうなればもうこっちのものだ。ジェロディはケリーに目配せする。そうして今度こそ敵に追撃をかけようとしたところで、


「――火箭ナール・ヘッツ……!」


 ダメ押しの一撃が来た。マリステアの神術が止み、どうにか体勢を立て直そうとしていた地方軍の真ん中に、真っ赤な火の玉が落下した。

 はっとして振り返る。――カミラ。無事だった。

 いや、正直無事……とは言えないかもしれない。彼女は駆けつけた仲間に体を支えられ、どうにか半身を起こしているような状態だ。それでも撃った。神術を。


「ティノくん……!」


 その呼び声だけで十分だった。ジェロディは頷き、駆け出した。

 味方を集め、カミラが開いてくれた道の真ん中へ。

 あとはもう、迷わず突き進むだけだった。


 敵味方の上げる喊声に包まれる。

 どっちが前でどっちが後ろか。次第にそれもわからなくなる。

 でも、どっちだっていい。今、自分の向いている方向が前だ。

 皆もそこについてくる。誰もジェロディを止めない。止められない。


 取り乱しながら斬りかかってきた敵兵の剣を弾き、がら空きになった腹部に刃を突き入れた。しかし引き抜くより一瞬早く、新手が背後から攻めてくる。

 自暴自棄めいた雄叫び。けれどそれはすぐに途絶えた。ケリーか。そう思って顧みた先には、知らない救世軍兵がいる――守ってくれた。僕を。


 刹那、かっと熱いものがこみ上げてきた。

 神子は熱さや冷たさを感じないはずなのに、妙な話だ。

 号令を上げ、皆を励まし、ジェロディは敵兵の海を進んだ。負ける気がしない。不思議だ。まるで皆と体が一つになったような。そんな感じだ。

 だから、動かせる。思いのままに。自分の手足のように、皆が動いてくれる。


「お……お前は、ジェロディ・ヴィンツェンツィオ……! 大将軍の息子が、なんで――」


 最後に上がった敵兵の呻きを、ジェロディはみなまで聞かなかった。真横に剣を払い、斬り捨てる。言い訳なんて無意味だ。そう思ったから。

 気づけば獄舎の前には、死屍累々の光景が広がっていた。もはや抵抗してくる黄皇国兵はいない。

 敗勢を悟って逃げ出した者もいるだろうが、半分以上は仕留めた。味方から勝鬨が上がる――勝った。戦いは終わった。


 それを実感した途端、体中の力が抜けて息をつく。良かった。こちらも犠牲を払ったが、どうにか獄舎を解放することができた。

 が、ジェロディはそこではたと我に返る。そうだ。カミラ。直前まで戦場だった場所を見渡すと、彼女はまだあの建物の傍にいた。壁に背を預け、座り込んでいる。隣には膝をついたトビアスが。

 二人が何か話し込んでいるのを見て取って、ジェロディも駆け寄った。カミラの安否が気になったのだ。同じように彼女の無事を確かめに来たのだろう、あたりには早くも人垣ができている。


「カミラ、怪我は?」


 そう尋ねながら歩み寄ると、座ったままのカミラが見上げてきた。……思っていたよりひどい有り様だ。

 衣服があちこち破れ、数え切れないほどの擦り傷を負っている。右肩に走っているのは斬傷だろうか。どうやら敵兵の間を逃げ回っている最中に斬られたらしい。

 そんなカミラの姿を見ていたら、ジェロディは無傷の自分が恥ずかしくなった。いや、実際には完全に無傷なわけではなく、負傷する先から神の力が癒してくれたのだが――それならあのとき、囮には自分がなるべきだった。


「ごめん。君一人に大変な思いをさせちゃって……」


 トビアスの右手にぱっと光が宿るのを見ながら、ジェロディも片膝をつく。座り込んだままのカミラと視線を合わせたはいいものの、どんな顔で接すればいいのか分からなかった。

 だが意外なことに、そんなジェロディを見たカミラが「ぷっ」と吹き出す。意表を突かれて顔を上げれば、カミラはさも可笑しそうにけたけたと笑った。


「どうしてティノくんがそんな顔して謝るの? 無事に勝てたんだから結果オーライじゃない」

「い、いや、だけど君が……」

「私なら大丈夫よ。見た目はちょっとひどいけど、コレ全部軽傷だから。幸い骨折もなかったし……ああ、ただ神力はすっからかんね。あと一、二発で限界かも」


 そう言って苦笑している間に、カミラの傷はみるみる癒えていく。トビアスの使う癒やしの術は、マリステアのそれとはまた感じが違った。何がどう違うのかは、神術に疎いジェロディには上手く説明できないけれど。


「だけど、ありがとう」

「……何が?」

「何がって、私の代わりに隊を率いてくれたでしょ? ティノくんの指揮、まるで武神オーズが降りてきたみたいだったわよ。おかげで助かったわ、ジェロディ副隊長・・・


 だからありがとう、と改めて礼を言われ、ジェロディは思わず返答に詰まった。

 ……何故だろう。分からない。

 分からない、が、今、目の前にあるカミラの笑顔が妙に眩しい。

 ――僕の方こそ。

 そう返したかったのに、声が出なかった。

 やけに胸がざわめく。

 心を直接両手で包まれたような、それでいて締めつけられるような……。


「カミラさん」


 と、そこへ新たにカミラの部下がやってきて、彼女の傍らに跪いた。

 そうして何事か耳打ちする。途端にカミラの顔色が曇った。ほんの一瞬、彼女の細い眉の間を悲しみがよぎったような気がする。


「……分かった。フィロとイークに伝令を飛ばして。イークにはあとで謝らないとね。ほとんどの兵を死なせちゃった――」


 やがてカミラが零した呟きを聞いて、ジェロディははっとした。肩の傷を押さえ、うつむいたカミラの表情は分からない。

 どうして思い至らなかったのだろう。

 カミラはこう見えてまだ十七歳の少女だ。ジェロディとも二つしか違わない。

 なのにその若さで救世軍の一隊を任されている。それはつまり、たった十七歳で仲間の命を背負っているということ……。


 たぶんその重圧はジェロディの想像を超えている。だって彼女は救世軍に入るまで、ちょっと剣の腕が立つだけの、どこにでもいる女の子だったのだから。

 なのにどうして、さっきはあんな風に笑っていられたのだろう。

 もしやあの笑顔は、ジェロディの気を病ませないためのものだった――?


「カミラ、」

「大丈夫。負傷者の手当てが終わったら、任務を再開しましょう。ティノくんはそれまで付近の警戒をお願い」


 そう告げたカミラの声はしっかりしていた。

 少しも揺れていないし、滲んでもいない。

 けれど彼女は最後まで顔を上げなかった。ジェロディは不意に不安になる。


 彼女はこうして、これからも戦い続けるんだろうか?


 こんな風にボロボロになりながら、それでも、救世軍フィロメーナのために。



              ◯   ●   ◯



 潮風に頬を撫でられると、無性に懐かしい気持ちになった。

 たぶん、故郷の記憶が呼び覚まされるからだろう。モアナ=フェヌア海王国は名前のとおり中央海にぽっかりと浮かぶ島国で、どこにいても潮の香りが漂ってくる、そんな場所だった。

 だからこうして潮風を浴びていると、何も知らず無邪気に幸福を謳歌していた頃のことが次々と脳裏をよぎる。

 それは甘く愛おしい記憶。けれど同時に、苦く狂おしい記憶。


 懐かしくてたまらないけれど、できることなら思い出したくない。

 そういう複雑な想いを抱えて、もう三十年も逃げ回っていた。

 だけど逃避行はここで終わり。自分にはやるべきことができた。

 それを成し遂げるまでは、死ねない。

 たとえ呪いがどんなにこの身を蝕もうとも。


「――マナ」


 息苦しさを覚えて、胸を押さえる。嫌だわ、今日はこんないい天気なのに。軟弱な己の体にため息をついて、陽射しを弾く海原を見つめた。名を呼ばれたのはそんなときだった。

 振り向くとそこにはユニウスがいる。いつの間に船室から出てきたのだろう。彼は舳先に立つマナを見ると、三十年前と変わらない青年の顔を曇らせて、困ったように眉を寄せた。


「やっと見つけた。こんなところで何やってるんだ。一人で勝手にうろつくなって言ったろ?」

「やーねー、ユニウスったら。そんなに私を閉じ込めておきたいわけー? それとも私が留守にしてる間に、マグナーモ宗主国はちょっと外の空気を吸いに行くのにも宗主様のお許しをもらわないといけない国になったのかしら。だとしたら今頃メイテルさんが草葉の陰で泣いてるわねー」


 言ってから、チクリと胸が痛む。

 メイテル。目の前にいる彼の乳母だった人。

 彼女は自らの命をマナに与えて死んだ。

 それを知っているのに、ついこんな言い方をしてしまう自分が嫌になる。

 でも、仕方ない。こうするしかないのだ。

 もうすぐ訪れる別れを受け入れるためには。


「……そうじゃなくて、君は昨日も倒れたばかりだろ。安静にしていてほしいんだ。ヴィルヘルムも心配してる。それでなくても君の体は、もう……」


 背を向けると押し殺したような声が聞こえて、マナは余計に胸が詰まった。

 ――知ってる。そんなこと、言われなくても分かってる。

 だから改めて現実を突きつけないでほしい。これから先、最果ての塔へ至るまで、自分は嫌でもその現実と戦わなければならないのだから。


「……ユニウスはさー。なんでわざわざ私を追ってきたの?」

「なんで、って……」

「そんなに私を連れ戻したかった? どうせ老い先短いなら、海王国の復興に全力を尽くせって?」

「マナ」

「だけどこんな呪われ者を女王に戴くなんて、モアナの民が可哀想だわ。王になったからって子を生める体になるわけでもなし。仮に生めたとしても、こんな醜い体じゃお乳もあげられない。海王国は天帝国と違って子に乳母をつけないから――」

「――放っておけなかったんだ。僕は知っているから。君がいつだって誰かのために犠牲になろうとすること。ちっとも自分を顧みないこと。そんな君を一人にしておくなんて、やっぱり僕にはできなかった」


 息が苦しい。

 胸が潰れそうだ。

 『呪いの種グラナトゥム』が疼いている。

 ユニウスから顔を背けて、泣きそうになっているマナを嘲笑うように。


「そう言う君こそ、どうして」

「……何が?」

「どうしていつも一人で苦しもうとする? それが自分への罰だとでも?」

「仕方ないじゃない。そういう運命なの」


 投げやりに笑って、マナは海を見つめた。

 白波を立てて進む帆船ふねを追いかけ、潮風が吹いてくる。

 それが少し癖のある金髪を揺らした。

 異国で買った、やけに袖口の広い服がはたはたと鳴る。

 この船はもうすぐ、行く手にマナたちの故郷を望むだろう。

 そこでこの船を下りてくれないかしら。

 マナはこっそり、後ろに佇む彼に対してそう思う。


 すると心の声が聞こえたみたいに、ユニウスが言った。


「なら、僕は砕くよ、その運命を。君と二人で」


 はっとして、ユニウスを顧みた。


 一際強い潮風かぜが帆を鳴らし、二人の間を吹きすぎてゆく。



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