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82.その血のために

 その日は雨が降っていた。

 叩きつけるような土砂降りの雨。浴びる者の体温を容赦なく奪う、晩秋の雨。

 重苦しい曇天の下、ずぶ濡れのジャンカルロ・ヴィルトは剣を抜いた。

 目の前には百を超える黄皇国兵。対するこちらはジャンカルロ一人だけ。


「どうして来たの、ジャン……!!」


 そんな敵兵の壁の向こうで、フィロメーナが叫んでいた。激しい雨音に半ば塗り潰されながら、しかしそれは確かにジャンカルロの耳に届いた。

 数日ぶりに彼女の声を聞けたことに安堵して、ジャンカルロはそっと微笑む。

 その微笑みが、敵将の傍らで取り押さえられているフィロメーナには届くまいと知りながら。


「ネデリン准将、約束だ。ご覧のとおり、私は一人でここへ来た。見返りとして太陽神シェメッシュに誓ってもらおう。我が妻を無傷で解放すると」


 円陣を組んだ部下に守られ、馬に跨がった初老の男は呵々と笑った。いかにも小狡そうに口を歪めた、凡小な男だった。


「いいだろう。敵ながら天晴れだ、ジャンカルロ・ヴィルト。その血と蛮勇に敬意を表し、貴様には名誉の死を与えてやろう――殺せ!」


 喊声が地を震わせた。

 滝のような雨の中。雄叫びを上げた敵兵が、正面から殺到する。

 その雑音の狭間に、泣き叫ぶフィロメーナの声が聞こえた気がした。

 静かに目を伏せ、ジャンカルロは笑う。


「許せよ、イーク」


 騙して置いてきた友を思いながら、剣を体側へ引きつけた。

 そうして限界まで敵を寄せたところで、一気に体を回転させる。

 それは小さな旋風だった。

 たった一人の男がこの国に巻き起こした旋風だった。

 その風が今、黄皇国を吹き抜けている。

 じゆうきぼうを描いた救世軍の旗を空高く靡かせるために――。



              ◯   ●   ◯



 カミラが来る前と同じ静寂が、しん、とあたりを満たしていた。

 フィロメーナ・オーロリーがジャンカルロ・ヴィルトの跡を継ぎ、救世軍を率いるようになったいきさつ。

 それを話し終えたカミラは、深い息を吐き切ったきりうつむいている。まるで自分の胸でも引き裂かれたみたいにつらそうな顔で。


「……じゃあ、そのジャンカルロという人は……」

「ええ、死んだわ。フィロを守って」

「……っ」

「〝フィロメーナ・オーロリーを解放してほしければ、一人で指定の場所まで来ること〟。それがフィロを攫った黄皇国軍の出した条件だった。もちろん軍にはそんな口約束を守るつもりなんてさらさらなかったみたいだけど、幸い……って言っていいのかどうか、途中でジャンカルロさんが消えたことに気づいたイークたちが駆けつけたおかげで、フィロだけは助かった。……二人はその年の春に結婚したばかりだったわ」


 ぱたっ、と、何かが膝の上で音を立てた。

 それが自分のから零れた涙の音だと気づいて、マリステアは我に返った。

 ――どうして泣いているの?

 彼らはティノさまやガルテリオさまの仇なのに。

 本当に悲しいのは、わたしじゃないのに……。


「一年もの間、ずっとジャンカルロさんを探し続けて……ようやく再会できたと思った矢先にそれよ。そんな話があると思う? 正々堂々戦った結果、負けて殺されたなら確かに仕方ないわ。だけど、こんなのは――こんなのが黄皇国軍のやり方だって言うなら、私はこの国を許さない」


 カミラが卓の上に置いた手がきつく握り締められている。

 今のマリステアには、それさえ滲んで見えた。

 愛する者が自分のために目の前で命を落とす瞬間。

 そんな光景を目の当たりにしたフィロメーナは、そのとき何を思ったのだろうか。自分も一緒に死んでしまいたい、とは、思わなかったのだろうか。


(わたしなら、きっと――)


 そう思う。

 たとえばティノが自分を庇って命を落とし、一人だけ遺されたなら……。

 考えるだけで気がれそうだった。

 彼を失った世界で生きていくなんて自分には無理だ、と思った。

 けれどフィロメーナは生きている。

 愛する人の死を無駄にしないために。彼の遺志を継ぐために。


「……だからフィロメーナは、反乱軍を率いて黄皇国に復讐しようと?」

「いいえ。復讐……っていうのとは、たぶん違うと思います。フィロは……フィロはただ悲しいんです。悲しくて仕方ないんです。だから今も戦ってるんだと思います。今のこの国には、自分と同じような思いをしている人がたくさんいるから」


 フィロメーナはその悲しみの連鎖を止めたいのだと思う、とカミラは言った。

 それはある意味では復讐と言えるのかもしれないけれど、だったら彼女が報復しようとしている相手はこの国じゃない。運命だ、と。

 かつてこの地には、同じように国の暴政に苦しんだ人々がいた。彼らの慟哭を止めるために竜騎士フラヴィオは降り立った。


 なのにまた歴史は繰り返す。

 三百年前、フラヴィオが仲間と共に流した血を、汗を、涙を嘲笑うかのように。

 たぶんカミラはそれを〝運命〟と呼んだのだろう。そしてフィロメーナは今度こそそんな運命を打ち砕こうとしている。

 すべてを理解したとき、マリステアは恥じた。彼らを誤解していたことを。その戦いの意味を一瞬でも軽んじてしまったことを……。


「もちろん私も、ギディオンやティノくんたちの話を聞いて分かってるつもりよ。今の黄皇国にだって、ティノくんみたいな人たちがいるってこと……だけど、やっぱり許せないの。だから私はこれからも救世軍ここで戦う」

「……うん」

「ティノくんたちはどうしたい? それでも自分の国を信じたい?」

「僕は……」


 ティノは飲みかけの香茶に目を落とし、黙りこくった。カミラの口調には、官軍の肩を持つマリステアたちを責めるような響きはない。

 けれどティノはつらそうだった。愛する祖国と非情な現実の間に挟まれて。


「――カミラさん」


 そのときだった。突然入り口の方から声がして、マリステアはびくりと震えた。

 一体いつからそこにいたのか、振り向いた先には見知らぬ青年がいる。

 年はたぶん、マリステアと同じくらい。どことなくガルテリオの部下であるウィルやリナルドに似た――いかにも好青年といった感じの――ライトブラウンの髪の青年だった。カミラは彼の姿を見るなりはっとした様子で、ガタリと椅子から腰を上げる。


「アルド、よくここが分かったわね」

「フィロメーナ様に聞いたんです。カールの旦那から地方軍が引き上げたって知らせが入ったんで、カミラさんに伝えるよう言われて……」

「ほんと? 良かった……思ったより短い時間で済んだのね。アルドも疲れてるのに、わざわざありがとう」


 ついに地方軍が去った。その知らせを聞いて、マリステアたちはほっと胸を撫で下ろした。

 向かいでは立ち上がったカミラも愁眉を開いている。地上の宿が官軍に占拠されることは救世軍かれらにとっても死活問題だろうから、危難が去ってひとまず安心したのだろう。


 だがそれですべてが解決したわけじゃない。マリステアたちにはまだ、ここで見聞きした事実をどう受け止めるかという問題が残っている。

 ときにカミラがこちらを向いた。目が合ったマリステアはドキリとする。次に何を言われるか――そう身構えたマリステアの視線の先で、カミラは、笑った。


「さ、これでもういつでも地上に出てもらって大丈夫よ。ここを出てくなら出口まで案内するけど、どうする?」

「え……い、いや、〝どうする〟って……僕たち、このまま外へ出ても構わないのかい?」

「ええ、もちろん。さっきフィロが言ってたでしょ、無理に引き止めるつもりはないって」

「そ、それはそうだけど……」


 やけにあっさりとしたカミラの態度に、マリステアたちは困惑した。だって自分たちは反乱軍の拠点の在り処を知ってしまったのだ。ならば彼らとしては、このままマリステアたちに出ていかれるのは困るはず……。


「……そうやって油断させておいて、外に出るなり伏兵が待ち構えてる、なんてことはないだろうね?」

「あはは、まさか。確かにイークならやりかねませんけど、そうならないように私がここへ来たんです」

「どういうことだい?」

「フィロに頼まれたんですよ、あなたたちが出てくならこっそり逃してあげるようにって。だから皆さんの安全は私が保証します。だけど代わりに一つ、約束してくれません?」

「約束?」

「ええ。もしもあなたたちが国へ戻るなら、そのときは正々堂々私たちと勝負するって」


 マリステアは小さく息を飲んだ。カミラは笑っていたけれど、その空色の瞳は真剣だった。

 正々堂々。どうせ戦うのならジャンカルロを殺した軍のようなやり方ではなく、互いの誇りと正義を懸けて、正面から。

 カミラはそう言っているのだと思った。いや、より正確には、国へ戻ってもマリステアたちにはそう在ってほしいと願っている、と言うべきか。

 それはある意味取り引きだ。ここでマリステアたちを見逃す代わりに、この拠点のことは黙秘するようにと――そして次は戦場で会おうという取り引き。


 マリステアは戦慄した。もしもこのまま国へ戻ったら、自分はこんな人たちと戦わなければならないのかと思った。

 こんなにも潔くて、勇敢で、眩しい人たち。

 何故だろう。これじゃ自分がひどく惨めだ。

 自分の正義だって決して間違ってはいないはずなのに。

 ガルテリオやティノの戦いだって正しいと、そう信じているのに……。


「カミラさん。その人たちにビヴィオの話はしたんですか?」


 ところが刹那、入り口の青年――カミラはアルドと呼んでいた――が口を開いて、カミラがぎくりと固まった。

 それから彼女はギ、ギ、ギ、ギ、とぎこちなくアルドを振り向くと、明らかにうろたえた様子で言う。


「あ、アルド、その話はまたあとで……」

「まさか、何も知らせずにこのまま見逃すわけじゃありませんよね? あのあとビヴィオで何があったのか、そいつらはちゃんと知るべきだ。だってそいつらのせいで一揆衆は……!」

「アルド!」


 慌てたように、かつ叱るようにカミラは叫んだ。アルドがそれ以上何か言う前に止めようとしたのだろうが、もう遅い。


「待って、カミラ。彼の言うビヴィオの話って?」

「い、いや、それは……」

「僕らがビヴィオで君たちと戦ったあと、何かあったの? 確かあの一件は、後日憲兵隊が調査するって言ってたけど――」

「はっ、あれが〝調査〟だって? 官軍のやつらは不正の証拠を武力で隠滅することを〝調査〟って呼ぶのか? あんたら、何も知らないのかよ。あのときあんたらに邪魔されたせいで、おれたちはビヴィオの郷守を討ち損ねた。おかげであの反乱に加わった村は全滅だ! 家も畑も地方軍に全部焼かれて、一揆に加わらなかった女子供まで、みんな……!」


 ぞっ、と、暗い穴の底へ落ちていくような感覚がマリステアを襲った。

 ……〝全滅〟?

 あの青年は今〝全滅〟と言ったのか?

 全滅。ゼンメツ。ぜんめつ……。

 確かに知っているはずの言葉なのに、理解できない。

 ティノやケリーもそれは同じなのか、何も言わず茫然としているだけだ。

 けれどその視線の先で、アルドは泣いていた。

 血が滴るほどきつく両手を握り締め、うつむいたまま。


「アルド」


 彼の名を呼び、カミラが足早に歩み寄る。

 そうしてアルドの傍らに立つと、彼の拳をそっと両手で包み込んだ。まるで自分もアルドの痛みを感じようとしているみたいに。


「……彼は、アルドは、ついさっき本部ここに戻ったの。第四郷区で一揆衆を守ってた仲間を連れて」

「……一揆衆を守ってた、って……」

「ビヴィオでの敗戦のあと、地方軍が追撃をかけてくる可能性があったから。だからアルドたちには本隊が救援に向かうまで、何とか現地で一揆衆を守ってもらう作戦だった。でも……」


 勝勢に乗った地方軍による追撃は、彼らが想定していた以上に苛烈だった。

 郷守はまるで見せしめのように、己に逆らった者たちの村を次々と焼き払った。

 自分に刃向かえばこうなると――不正の事実を暴こうとすればこうなると、郷区内にあるすべての村にそう知らしめたのだ。

 アルドたちは急襲された村を守るために身を挺して戦ったが、敗北。彼らはボロボロになってロカンダへ戻った。民を守れなかった事実に打ちのめされながら。


「ごめんなさい。ティノくんたちには黙ってるつもりだったの。フィロもそうした方がいいって言ってくれたから……」

「どうして……」

「だってティノくんたちは知らなかったんでしょう? ビヴィオの郷守がとんだ腐れ外道だってこと」


 だからあなたたちを責めるようなことはもう言いたくなかった。

 カミラはぽつりとそう言った。

 彼女の手は汚れている。アルドの拳から滴る血で。


「とにかくそういうわけだから、私たちはこれからビヴィオへ向かうわ。地方軍に攫われた人たちを助け出さないと」

「……攫われた?」

「アルドの報告のとおりなら、一揆に加わった村の人たちはほとんど殺されたけど、生きたまま捕縛された人たちもいるらしいの。その大半は若い女性だったみたいで……」

「ま……まさかあの男、村の娘たちを慰み者に……!?」

「いいえ。たぶん状況はもっと悪いです。救世軍わたしたちの調査が正しければ、あそこの郷守は砂王国に出入りする奴隷商人とつながってる」

「ど、奴隷商人だって……!?」


 マリステアたちはますます言葉を失った。今年は年明けからずっと耳を疑う話ばかり聞いているけれど、中でもこの驚愕は群を抜いている。


「ば、馬鹿を言うな! この国では建国以来、人身売買が固く禁じられて……!」

「だけどあの郷区では、郷庁へ連行されたまま行方が分からなくなっている人たちがたくさんいるんです。やっぱりそれも若い女性ばっかりらしくて、彼女たちのほとんどは税を納められなかったときのかたとして連れて行かれたって……」

「だ……だからと言って、その娘たちを奴隷商に売り渡しているとは……!」

「じゃあ、ビヴィオの郷庁から女性をたくさん積んだ馬車が出ていくのを見たって人がいるのは何だと思います? 馬車に乗せられていた人たちはみんな猿轡さるぐつわを噛まされて、手枷までされてたって話ですけど」


 瞬間、マリステアの全身を激しい怖気が包んだ。

 手枷。足枷。猿轡。

 ――同じだ。自分が砂王国の蛮兵に連れ去られそうになったあのときと。

 途端に当時の恐怖が甦り、立ち上がりかけていたマリステアは再び椅子に座り込んだ。そうして自らの体を抱き、どうにか震えをやり過ごそうとする。


「マリー?」

「お……同じ、です……」

「同じ?」

「わ、わたしが、昔、乗せられた馬車と……同じです……!」


 異変を察して覗き込んできたティノの顔色が変わった。もちろん彼も知っている。マリステアがかつて砂王国の奴隷にされかけたことは。


「……。ケリー」


 そのときティノに呼ばれたケリーが、体を強張らせるのが分かった。

 たぶん彼女は予感している。これから発せられるであろうティノの言葉を。

 だからケリーは嘆息した。眉を寄せて深く深くため息をつき、次に顔を上げたときにはもう、覚悟を決めた様子でそこにいる。


「分かりました。このケリー、ティノ様をお守りするためならばどこへでも」

「ありがとう」


 ケリーを見上げて、ティノが微笑わらった。


 その迷いのない笑みこそが、彼の答えだ。



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