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342.太陽と獅子


 自らの授けた(つるぎ)が肉に食い込み、鮮血が唇を濡らすのを感じながら、ガルテリオは微笑んだ。ああ、見ているか、アンジェ。君はこんな私を叱るだろうが──


 ジェロディはこれほど強く、立派になったぞ。


 いや、もしかするとそんなのは当然だと、君は胸を張って笑うかな。


 何せこの子は君と私の血を分けた、大切な、大切な息子なのだから。



              ◯   ●   ◯ 



 最後の瞬間、不意に伸ばされた父の手が、ほんの束の間、母の形見越しに自らの頭を包むのをジェロディは感じた。


「……見事だ、ジェロディ」


 父の指先に触れた金細工が、頭の後ろでチリチリと音を立てている。

 数瞬ののち、一歩あとずさったガルテリオの体は背後に向かってゆっくりと(かし)いでゆき、ジェロディの剣は自然と腹から抜けた。

 同時に『皇帝(ケイサル)』もまた父の手を放れ、大地を打って甲高く悲泣する。


「ガル様……!」


 そうして背中から倒れ込もうとする父に、ジェロディはすかさず駆け寄った。

 彼の血に濡れた剣は放り投げ、代わりにガルテリオの体を抱き留める。そこへすぐさまウィルとリナルドが走り寄ってきた。ケリーとオーウェンもだ。ふたりの勝負を見届けた両軍からは、どよめきひとつ上がらなかった。ただ、ただ、敵も味方も固唾(かたず)を飲んで、目の前の父子(おやこ)の行く末を食い入るように見つめている。


「ガル様……ガル様、しっかりして下さい! おい、早く水術兵を……!」

「……よせ、ウィル。お前にも分かっているはずだ。さすがに血を流しすぎた……ゆえに、もうよい」

「分かりませんよ! 分かるわけ、ないじゃないですか……! 俺は、俺たちは、ガル様を……!」

「……リナルド。ウィルを頼む」

「はい」

「それから……これが最後の命令だ。お前たちふたりには、私のあとを追うことを禁ずる。お前たちはまだ若い……どうか私の分まで、生きてこの国の行く末を見届けてくれ」


 ジェロディの腕の中で横たわったガルテリオが振り絞るような声音でそう告げるや、顔中をぐしゃぐしゃにしたウィルが、わあっと声を上げて泣き始めた。他方、リナルドは静かに「(かしこ)まりました」と答えたきり何も言わない。その沈黙に気づいたジェロディが目をやれば、彼の頬を音もなく涙が伝っていくのが見えた。


「ケリーとオーウェンは……そこにいるか?」

「はい。ここにおります、ガル様」

「うむ……お前たちにも、ずいぶん苦労をかけた。私が至らぬばかりに、要らぬ汚名と重責を背負わせてしまったな……すまなかった」

「いいえ、ガル様。俺も、ケリーも……ガル様に感謝こそすれ、恨んだことなんか一度もありません。あなたは俺たちにとって、最高の主人でした」


 同じく滂沱(ぼうだ)たる涙を流しながら、叫ぶようにオーウェンが言う。

 彼の隣で膝をついたケリーは、徐々に生気が失われていくガルテリオの顔を見つめながら口を閉ざし、何か言葉を(つむ)ぐ代わりに、両目を赤く腫らしていた。


「そうか……私にとってもお前たちは、非の打ちどころのないよき部下だった。これからも、どうかジェロディをよろしく頼む」

「はい、お任せ下さい。ガル様やアンジェ様の分まで……ティノ様のことは、我々がお支え致します」

「ああ……それと、トリエ。聞こえているか?」


 次にガルテリオが彼女の名を呼んだのを聞き、ジェロディははっと顔を上げた。

 そうして視線を向けた先に、トリエステはいる。

 いつの間にか馬を下り、されどケリーたちと共に駆け寄ろうとしてやめたのか、誰もいない空白の真ん中にぽつねんと立ち竦んで。


「……はい。聞こえております、ガルテリオ殿」

「……声が遠いな。どうか、最後にもう一度……君の顔も見せてくれないか」


 そう呼びかけたガルテリオの声色は、さらに力を失いつつあった。

 しかしそれでも彼は、今にも閉じようとする(まぶた)を懸命に押し上げて、最期に映る景色を目に焼きつけようとしているかのようだ。そんなガルテリオに近づくことを恐れているのか、トリエステは逡巡(しゅんじゅん)している。

 いや、違うな、とジェロディは思い直した。今なら自分にも分かる。


 トリエステが恐れているのはガルテリオに歩み寄ることではなく、己の罪だ。

 無二の恩人である彼を裏切り、あまつさえ命まで奪おうとしている罪。

 その罪が冷たく重い(かせ)となり、トリエステを引き留めている。

 立ち尽くしたままの彼女はうつむき、震えている。まるで自分にはこれ以上、ガルテリオに近づく資格はないとでも言うように。ゆえに、ジェロディは、


「トリエ」


 父に代わってそう呼びかければ、うなだれた彼女の肩がびくりと跳ねた。

 次いで視線を上げた彼女は、まるで父親に叱られて途方に暮れた少女のような、泣き出しそうな顔をしている。


「僕からもお願いするよ。どうか父さんの最後の頼みを、聞いてあげてほしい」


 ジェロディがそう告げるや否や、トリエステはさらにぎゅっと眉を寄せて顔を伏せた。されど最後には迷いを振り切るように踏み出して、足早に歩み寄ってくる。


「ガルテリオ殿、」

「ああ……君にもつらい想いをさせてしまったな、トリエ。改めて謝罪させてほしい。フィロメーナのことも、エリジオのことも……」

「いいえ……いいえ、ガルテリオ殿。あの子たちもあなたと同じように、己が正しいと信じる道を自ら選び取ったのです。ですから何も……ガルテリオ殿に謝罪していただくことなど、何もありません。最後まで、私たちのために心を砕いて下さって……本当に、ありがとうございました」


 父の謝罪にそう答えて、トリエステはつと彼の手を取った。そうして冷たくなった彼の指を大切な宝物か何かのように包み込み、額に当てて涙を流す。普段、皆の前では心などないかのように振る舞うトリエステが涙する姿を見たのはフィロメーナの死の直後、ジェロディたちが彼女の想いを伝えて以来のことだった。


「……あまり自分を責めるなよ、トリエ。見たところ、どうやら君はもう、ひとりではないようだ。これからは彼らと共に生き……喜びも悲しみも、仲間と分かち合いなさい。君がひとりですべてを背負い、苦しむ必要などないのだから」

「はい……お言葉、しかと胸に刻ませていただきます」

「ああ……そして、ジェロディ」

「はい」

「本当に、強くなったな。もはや私に教えられることは何もない……まったく、私は果報者だよ。息子が自らを超えてゆく瞬間に、生きて立ち会えたのだから」


 瞬間、ガルテリオが目を閉じてしみじみと零すのを聞いて、ジェロディの喉にも何かが(つか)えた。すぐに返そうとしたはずの言葉が、どういうわけか声にならない。

 だから一度出かかったそれを飲み込んで、ふーっとひとつ息をついた。(しか)して伏せた瞼を上げて、いつかの団欒(だんらん)の続きのように、ちょっと(おど)けて笑ってみせる。


「それはよかった。だけど、僕はもう息子じゃないんじゃなかった?」

「ああ……そうだ。そうだったな。ゆえに最後まで身勝手で、父親らしいことなど何もしてやれなかった私のことを、父と思う必要はない」

「父さん、」

「お前もお前の信じた道をゆきなさい、ジェロディ。その先に待つ未来(こたえ)がどんなものであろうとも、お前の選んだ道ならば、私は喜んで祝福しよう。だが、私のことは忘れていい。もはや誰にも止められぬと知りながら時代に(あらが)い、愚かにも散ったひとりの男として……」

「いいえ」


 刹那、ガルテリオの最期の言葉を遮ってジェロディは言った。

 言わねばならなかった。

 眠るように閉じていた瞼を上げて、ガルテリオが再び見つめてくる。

 その瞳をまっすぐ見つめ返して、ジェロディは言葉をつなぐ。


「いいえ、父さん。誰に何と言われようとも、あなたに育てていただいたご恩は生涯忘れません。僕は、あなたの息子に生まれて──本当に、幸せでした」


 そう告げると同時に涙が頬を濡らすのを感じて、ああ、とジェロディは眉を寄せた。最後くらい、父には心配をかけまいと思ったのに。自分はもう大丈夫だと安心させたかったのに。そんなジェロディの想いに反して、涙は次から次へと溢れてくる。そうして零れ落ちる雫のひとつひとつに、大切な父との思い出が宿っていた。

 あるいはガルテリオにもまた追憶(それ)が見えたのだろうか。

 彼はジェロディを映した瞳をまぶしそうに細めると、穏やかな笑みを刻む。


「……そうか。では私も最後に、父としての言葉を贈ろう──負けるなよ、ジェロディ。獅子(ヴィンツェンツィオ)の名を継ぐ者として」

「はい……!」


 頷いた拍子に零れた涙が、今度は父の頬を濡らした。されどガルテリオはなおも微笑んでいる。やはりジェロディがよく知る父親の顔で。


「ああ……これでもう、思い残すことはないな……」


 やがてため息のようにそう呟いたガルテリオが、再びそっと目を閉じた。それが父の最期になると思ったジェロディたちははっとして、銘々に彼を覗き込む。

 ところがガルテリオはまだ生きていた。次に瞼が開かれたとき、そこにはとてもいまわの際とは思えない、力強い光があった。彼の目は空を見上げている。


 黄金に輝き、地上のすべてを照らし出す太陽を。


 最後の瞬間、父が笑いかけたのはきっと、あの太陽と共に在った日々だった。



「さらば」



 短く告げられた別れの言葉は、果たして天の頂に届いただろうか。



              ◯   ●   ◯ 



 その日、ひとりの英雄が死んだ。


 永遠に沈まぬ太陽を、瞳の中に燃やしたまま。








(第九章・完)

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