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333.天界に最も近い谷


 鋭き峰々に挟まれた谷間に、確かにその町はあった。


 竜の谷(アラニード)、またの名をツァンナーラ竜騎士領。


 下界の人間たちがかの地を仰ぎ、畏敬を込めて〝天界に最も近い谷〟と呼ぶ理由が今なら分かる。何しろ、高い。とにかく高い。標高六(ゲーザ)(三〇〇〇メートル)の山上に位置する谷も、それを超えて飛ぶ竜の背も。


竜母(りゅうぼ)様! 竜母様のお帰りだ!」


 耳当てつきの毛皮の帽子をしっかり深く被っていても、耳が千切れ飛びそうなほど冷たい北風を裂いて飛ぶ銀竜の(くら)の上。そこで前の座席にしがみつき、何とか吹き飛ばされないよう(あぶみ)を踏み締めたカミラの鼓膜をそんな歓声が震わせたのは、銀竜が青天を滑空し、谷に築かれた灰色の町並みが眼下に近づいてきたときだった。


 見れば町を貫く大通りには群衆が列を成し、まるで凱旋する軍勢でも迎えるように沸き立っている。それもそのはず。何せ『翼と牙の騎士団』団長であるアマリアの話によれば、彼女が操る銀竜は谷の王である唯一の雄竜──すなわち『竜父(りゅうふ)』の生みの親で、竜の谷では竜父に次いで高貴な存在らしかった。


 名をビアンカ。眼下の民が彼女を『竜母』と呼ぶのは他ならぬ竜父の母であるからで『翼と牙の騎士団』では代々、この竜母と血の契約を結んだ竜騎士が団長を務めるしきたりがあるらしい。竜騎士はまるで神子と血飲み子のように竜の血を飲むことで生死を共にする契約を結び、一頭の竜と生涯添い遂げるのだそうだ。


「う、うわ、すごい人だかり……もしかしてみんな騎士団の帰りを待ってたの?」

「いえ、それもあるでしょうが、今日は鳥来祭(ちょうらいさい)ですので。我がツァンナーラ竜騎士領でも、六聖日(ろくせいじつ)は下界の国々と同じように祝うんですよ」

「あ、そっか。そういえば遭難してる間に年が明けたんだった……」


 と、カミラがすぐ後ろの座席で苦笑すれば、アマリアも朗らかな声で笑った。

 彼女はこの歳で騎士団長というのが信じられないくらい若く小柄な女性だが、なんと実年齢は百歳を優に超えているらしい。竜騎士は血の契約を交わした時点で、数百年の寿命を持つ竜と共に年を取るようになるからだ。


 カミラたちを捜索に来たアマリアら『翼と牙の騎士団』に発見され、ビアンカの背に乗せられてからここまで四半刻(十五分)足らず。

 あれほど険しかった山道を何の苦もなく、文字どおり一瞬で飛び越えてしまったカミラとイークは無事竜の谷へと降り立った。ビアンカがふたりを降ろしたのは、谷の最も奥地にある砦のような建物の前だ。竜牙山(りゅうがざん)から切り出されたと(おぼ)しい灰色の石材で築かれたその砦は『竜宮砦(りゅうぐうさい)』と呼ばれる竜父の()()であるらしい。


(だけど竜が暮らす建物というわりには、ずいぶんこぢんまりしてるような……)


 と地上に降り立ったカミラが首を傾げていると、にわかにビアンカの巨体が光を発し、みるみるうちに小さくなった。かと思えば光はやがて人型となり、ほどなく豊かな銀髪を蓄えた女の姿へと変貌する。


「えっ……えぇっ!? り、竜が人間になっちゃった……!?」


 と、衝撃の一部始終を目撃したカミラは当惑したが、光に呑まれたビアンカが見せた新たな姿は完全に人間そのものというわけではなかった。何せ波打つ銀髪の間からは二本の角が生え、尻のあたりからも白銀の(うろこ)に覆われた長い尻尾が生えている。が、何より目を引いたのは、彼女の額に張りついた青色の竜命石(りゅうめいせき)だ。


 ほとんど人間に近い姿をした者の額から菱形の宝石が生えているというのは何とも奇妙な光景で、カミラは呆気に取られてしまった。けれどもそうして立ち尽くしている間にも、ビアンカに続いて降り立った他の竜たちもまた次々と人の姿へ変化(へんげ)する。かくて様変わりした竜たちが全員女の姿をしているところを見るに、谷で暮らす竜は竜父を除いてみな(メス)だという話は本当であるらしい。


「ああ、驚かせてしまってすみません。ご覧のとおりここは狭い谷ですので、竜たちも普段は人の姿で暮らしているんですよ。でないとあの巨体では場所を取って仕方がありませんから……」

「竜が人間と同じ〝神に似せられた姿を持つ〟ってのは知ってたが……しかし仮にも『竜母』と呼ばれる存在がその格好はどうなんだ? 正直見てるこっちが寒くてしょうがないんだが」

「む? おお、すまぬ。我ら竜族は神子と同じく、人間ほど暑さ寒さを感じぬのでな。ゆえに着るものにはあまり頓着しておらぬのじゃ。とにかく動きやすければ何でもよかろうと……」

「いや、頓着しないにもほどがあるだろ」


 と、カミラの隣に並んだイークが冷静につっこんだのも無理はなかった。

 何しろ人の姿を取ったビアンカは、妖艶な色香がむんむんの見た目をしているにもかかわらず、ほとんど衣服をまとっていないのだ。

 いや、そもそも彼女が現在身につけているあの布の切れ端すらも、果たして〝衣服〟と呼んでいいのかどうか。装飾品のような華奢(きゃしゃ)な鎖によって辛うじて繋ぎ留められたいくつかの白い布切れは、素材こそ上等な絹のようではあるものの、豊満すぎる胸の一部や尻をわずかに覆い隠すばかりで、ほぼ裸同然と言ってよかった。

 いくら寒さを感じないとしても、娼婦すらドン引きするレベルの格好だ。

 そもそも同性のカミラでさえも目のやり場に困ると感じるのだから、下手な男なら鼻からの大量出血で失血死しかねないだろう。


「……イーク。相手は一応竜なんだから、変な気を起こさないでね」

「人をどこぞの宿屋の息子と一緒にするな。まあ、あいつをここに連れてこなかったのは正解だったなと今確信してるが」

「そうね。あいつがいたら最悪、谷中の竜に手を出そうとして、竜騎士領との同盟もダメになってたかも……」

「カミラ、イーク!」


 ところがふたりが砦の前でそんな会話を交わしていると、俄然(がぜん)入り口の扉が開け放たれて、あたりに呼び声が響いた。はっとして目をやれば、そこにはふたりの姿を見て息を弾ませたジェロディがいる。およそ半月ぶりの再会だ。


 ──本当に、無事だった。


「ティノくん、」

「カミラ、イーク、よく無事で……!」


 そう言って声を震わせたジェロディは、見たところ衰弱した様子もなく五体満足だった。谷まで飛んでくる間に聞いた話によれば、彼と共に登山を続行した仲間の中には、凍傷や低体温症にかかった者がいるらしい。さらにゲヴラーは落石に遭って鎖骨を折る重傷を負い、諜務隊(ちょうむたい)からも二名の死者が出たと聞いた。


 それでもジェロディは無事だった。無事でいてくれた。


 彼を加護する生命神(ハイム)の恩寵を思えば当然の結果かもしれない。でも。


「ふたりとも、どこか怪我は? あ、いや、怪我は星刻(グリント・エンブレム)の力で何とかなったかもしれないけど、食糧は──」


 と、こちらの身を案じるジェロディの言葉をみなまで言わせず、刹那、カミラは歩み寄ってきた彼に思い切り抱きついた。これにはさすがのジェロディも虚を()かれたようで「えっ!?」と上擦った声を上げたきり固まっている。


「い、いや、あの、カミラ……!?」

「ティノくんも、無事でよかった……アマリアさんから聞いたわ。私たちとはぐれたあと、遭難したみんなを助けるために、ひとりで谷まで辿(たど)()いたって……」

「あ、ああ……僕は《命神刻(ハイム・エンブレム)》のおかげで、ひとりでも何とか動けたからね。君たちの方こそ、あの崖を落ちてよく無事で……」

「私たちは運がよかったのよ。でも、ティノくんが先に谷に着いて救助を寄越してくれなかったら、また遭難するところだった。本当にありがとう……」


 カミラたちのことだけではない。本当は自分が渡り星として皆を導き、安全に谷まで送り届けなければならなかったのに、それができなかったカミラに代わって、ジェロディは仲間を守ってくれた。皆が寒さや飢えや負傷によって脱落してゆく絶望的な状況の中、たったひとりでだ。


 結果として二人の仲間を失ったものの、彼の勇気と行動がなければきっともっと多くの仲間が命を落としていた。否、状況次第では全滅だってありえたはずだ。

 そうなればカミラは自分を許せなかった。決死隊の全滅とはすなわち、救世軍の命運が尽きることを意味していたのだから。


「……いや、僕の方こそ。あのとき君が命懸けで僕を守ってくれなかったら、決死隊は全滅していたかもしれない。何よりこうして君やイークとまた会えて、本当によかった……生きていてくれてありがとう、カミラ」


 されどほどなく平静を取り戻したジェロディからそう言って抱き返されたとき、カミラは感極まって泣いてしまいそうだった。こうして彼と再会できたのは奇跡なのだと、改めてそう思う。いつか彼を連れ去ってしまう(ハイム)を受け入れ難い気持ちは変わらないけれど、今はその加護に心から感謝したかった。


 そして恐らく星界から彼を導いてくれたのだろう、マリステアにも。


「おやおや、感動の再会だね、ジェロディ。これで君の仲間は全員揃ったのかな? アマリアもご苦労だった。よくぞ彼らを見つけてくれたね」

「竜父様……!」


 ところがそこへ知らない男の声がかかって、にわかにあたりが騒がしくなった。

 瞬間、ざわめきの中に聞こえた竜父という言葉に反応し、カミラもはっと顔を上げる。そうして見やった砦の入り口に、息を呑むような気配をまとった一匹の竜がいた。いや、竜と言っても姿形はほとんど人だ。ただビアンカと同じく生えた角や尻尾──加えて額で輝く真紅の竜命石が、彼が人間ではないことを物語っている。


 淡い金の光沢を持つ長衣(ローブ)の上に、黄金を()いたような長髪を流したその男こそが竜族の王、竜父と見て間違いなさそうだった。何しろ竜でありながら唯一(オス)の姿を取っているし、ビアンカを除く竜と竜騎士たちは彼を見るや腰を低めて(こうべ)を垂れる仕草をしている。もっとも竜父の姿は人間の目線で見るとかなり若く、顔立ちも中性的で、声を聞かなければひと目で男だとは気づけなかったが。


「竜父様。おっしゃるとおり、捜索をお願いした仲間は彼らで最後です。『翼と牙の騎士団』を迅速に派遣していただいたおかげで、無事全員と再会することができました。本当になんとお礼を申し上げればいいのか……」

「なんの。仲間を救うため、たったひとりであの崖を越えてきた君の勇敢さに敬意を表せたのであれば何よりだ。で、君たちがカミラとイークだね。ようこそ、我がツァンナーラ竜騎士領へ」

「は、はじめまして……! えっと、このたびは危ないところを、ご厚意で助けていただいて……」

「いや、なに、そこは私とジェロディの仲だ、気にすることはないよ。けれどイーク、君とは以前一度だけ、ビヴィオという町で会ったことがあるね」

「え? あっ……そ、そっか、イークとティノくんが初めて会ったときの……!」


 と言われてようやくカミラも思い出した。既に遠い記憶となって忘れていたが、今からちょうど一年前、カミラたちがまだジェロディと出会う前に、イークはジョイア地方にあるビヴィオという町の郷庁(きょうちょう)を攻めたのだ。

 そして当時官軍の側についてイークらを追い返したのがジェロディであり、彼を背に乗せて現れた黄金竜──すなわち竜父だった。

 ゆえに彼とイークには面識があると言われれば確かにそうだ。

 もっともイークも人の姿をした竜父と対面するのは初めてだろうが。


「ああ、そういやそんなこともあったな。あのときはうちの大将(リーダー)が世話になった」

「はは、よかった。その口振りだと、当時のことを恨まれてはいないようだね」

「いや。残念ながら今でも根に持ってはいるが、ビヴィオの件はあんたらの分までジェロディが償った。何より俺たちは今回、あんたらに助けられた立場だしな。今更蒸し返すつもりはない」

「それは有り難い申し出だね。我らにもトラモント黄皇国(おうこうこく)の同盟者としての立場があったとはいえ、本当にすまないことをしたと悔やんでいたんだ。しかし見たところ、君たちは先に救助された者よりずっと元気そうだね? ジェロディからは、半月も前にふたり揃って崖から転落したと聞いていたのだけれど」

「え、ええ、そこはまあ、話せば長い事情がありまして……」


 と苦笑いして答えながら、カミラは思わずイークと目配せし合った。

 というのも山中でトリエステやフィロメーナの父であるエルネストと出会った話をどこまで打ち明けたものか、未だ決めかねていたからだ。少なくとも彼に助けられたことは事実だが、救世軍の初代総帥であるジャンカルロの死がエルネストの手引きによってもたらされたものであったことや、彼が血を分けた我が子であるはずのフィロメーナやエリジオの死を微塵も悼んでいなかったことは打ち明けづらい。

 それを話すということは、遠からずオーロリー家の長女であるトリエステの耳にも届くということだと思えば、なおさら。


「ふむ……? そうか。まあ、とはいえ君たちも過酷な状況に置かれていたことには違いないのだろうから、今はひとまず我が砦にて休むといい。他の仲間の無事も確かめておきたいだろう?」

「は、はい、ありがとうございます……!」

「うん。今日から六日間は谷でも祝祭が続くから、少々賑やかすぎて落ち着かないかもしれないが、余力と興味があれば君たちも祭を楽しんでいくといい。谷の外からの客人は久しぶりだからね。皆も歓迎するだろう」

「竜父様、たび重なるお気遣いに感謝致します。ですが僕たちが今回、竜の谷を訪ねたのは……」


 と、そこでジェロディが遠慮がちに口を挟めば、竜父は爬虫類に似た縦長の瞳孔を宿す金眼(ひとみ)に彼を映した。

 かと思えば無言のまま、穏やかだが意図の読めない微笑を(たた)えて口を開く。


「もちろん君たちの事情はよく分かっているつもりだよ、ジェロディ。けれど今は君も、君の仲間もしばしの静養が必要だろう。()いたところで、彼らがある程度回復するまでは君も谷を離れられないのだから」

「それは、もちろんそうなのですが……」

「地上に残してきた仲間のことを思えば、新年を祝うどころではないのは分かる。しかし我が谷の民はまだ下界で起きていることを何も知らないのでね。六聖日くらいは気兼ねなく楽しませてやりたいのさ」

「……分かりました。ではお言葉に甘えて、まずは仲間の静養に専念したいと思います。せっかくの祝祭のさなかにお騒がせしてしまって、申し訳ありません」

「そこは気にしなくてもいい。我が谷と友好な関係を築かんとする客人であれば、いつであろうと大歓迎だよ。ただ、私もしばらく砦を出たり入ったりしているだろうから、何か困ったことがあれば近くにいる竜か竜騎士に相談してくれ。皆で可能な限りおもてなしさせてもらうよ」


 そう告げてなお微笑んだ竜父は、騎士団長であるアマリアに二、三、指示を伝えると、長い尾を(ひるがえ)して再び砦へと引き取った。そのゆったりとした足取りは何ものも恐れる必要のない竜の優雅さと、長寿ゆえのおおらかさを感じさせる。

 されどそんな彼の振る舞いが、カミラたちの感じている焦りとはあまりにもかけ離れていることもまた事実だ。

 ゆえにカミラは不安になって、思わずジェロディの(そで)を引いた。谷に辿り着いた時点である程度の事情は彼の口から竜父に伝えられたのだろうが、竜騎士領側が救世軍の置かれた状況をどこまで汲んでくれているのかいまいち掴めない。


「ティノくん……」

「……うん。とりあえず一度みんなのところへ行って話をしよう。オーウェンたちも君やイークのことをずっと気にかけてたんだ。ふたりの無事な姿を見たら、きっと喜ぶよ」


 というジェロディの言葉に押されて、カミラもぎこちなく頷いた。

 隣ではイークも何となく据わりの悪そうな顔をしているが、竜父も言っていたように、今は仲間の無事を確かめるのが先決だ。

 そう思い直して、カミラは竜牙山の峰のごとく高い竜宮砦へと足を踏み入れた。

 ざわざわと不穏な音色を奏でる胸騒ぎを押し込めながら。


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