307.翼が託されたもの
「マティルダ将軍!」
と、喉が裂けんばかりに絞り出した何度目かの呼び声が、ようやく彼女の意識に届いた。血溜まりに横たわったマティルダの瞼がゆっくりと押し開かれる。
とは言え視界の窓が完全に開かれることはなく、今にも再び閉じてしまいそうな帳の下で、マティルダの眼差しはあてどなく空を彷徨った。
まるで焦点の合わぬ瞳は、懸命に状況を把握しようとしているようであり──同時に誰かを探しているようでもある。
「……ジェロディ……?」
と、やがて自らを覗き込む影の正体に気づいたマティルダが、ひどく掠れた呼気を漏らした。それが辛うじてジェロディの名を紡いだかに聞こえた刹那、彼女は不意にゴホッと咳き込み、血の乾きつつあった唇をさらに赤く塗り変える。
「ダメです、喋らないで下さい! 今、僕らの仲間が傷を塞ぎますから……!」
「……何の……ために……? 私は……助けを、求めたつもりは……」
「ですがあなたは、僕たちを窮地から救って下さった。だから僕たちも……!」
「……違う。私は、ただ……部下の……仇を……討っただけ……ならば……おまえたち、に……救われる……謂れは、ない……」
掻き消えそうな呼吸の下で言うが早いか、マティルダは震える手を持ち上げて、自らの腹部にぽっかりと開いた穴の上、そこに翳された手を払いのけた。
が、突然のことにびくりと驚きながらも、マティルダに拒絶された彼女は──カミラは術を解かない。左手の甲に刻まれた、星刻による時戻しの術を。
「……おいジェロディ、本人もこう言ってるだろ。ならわざわざカミラに危険を冒させてまで、この女を救う必要は……!」
「イークは黙ってて! 私なら大丈夫だから……!」
「大丈夫なわけないだろ、お前はポンテ・ピアット城とソルン城で既に二回も倒れてるんだぞ! これ以上無理を重ねれば……!」
「分かってる! でも見殺しになんてできない……! だって、この人は……!」
その先に続く言葉を、マティルダの傍らに跪いたカミラは飲み込んだように見えた。彼女たちが敵親衛隊のいたトラクア城の本丸から駆けつけたのは、つい四半刻(十五分)ほど前のことだ。何でも第六軍副将率いる親衛隊の主戦力がマティルダ救出のため戦線を離脱したことで、本丸にいた敵軍は戦闘継続能力を失い、ついに白旗を上げて降伏したのだという。
これによってトラクア城は実質陥落し、戦闘は終息した。が、カミラたちも戦いの混乱に乗じて、敵親衛隊の一部が離脱したことには気づいていたらしい。
そして彼らの行き先が救世軍本隊、つまりジェロディのもとではないかと危惧した彼女たちは、本丸の制圧を連合国軍に任せ、こちらへ駆けつけてくれた。
おかげでまだ希望はある。星刻の力があれば──既に死影にまみれているマティルダを、救えるかもしれないという希望が。
「お、まえ、は……そう、か……アンゼルムの、妹……」
「……!」
「噂……には、聞いている……しかし……私を、助けた……ところで……兄の、歓心は……買えませんよ……」
「……っこの女……!」
「ちょっ、ちょちょちょイーク、待った待った!」
ところがマティルダが赤く濡れた口の端に冷笑を浮かべ、吐き捨てた挑発がイークの怒りに油を注いだ。おかげで腰の剣に手を回し、今にも抜き放たんばかりのイークをカイルが慌てて宥めている。
だがイークが激昂するのも無理はなかった。何しろ救世軍は今回のマティルダとの戦いであまりに大きな犠牲を払ったのだ。おまけにイークは新生救世軍に合流する前の、サビア台地を巡る小競り合いでもマティルダに煮え湯を飲まされている。
かの地の強制労働所に収容された仲間を救い出そうとして返り討ちに遭い、さらに救えなかった仲間を魔物どもの餌にされた。それだけでもマティルダを許せなくて当然だというのに、加えて敵である彼女を救おうとしているカミラを侮辱されたとなれば、いきり立つなという方が無理な話だろう。けれども、カミラは、
「……そんなんじゃ、ないです」
「カミラ、」
「今はお兄ちゃんのことなんてどうだっていい。私はただ、あなたに死なれちゃ困るから助けようとしてるだけ。あなたの意思も、お兄ちゃんの立場も関係ない!」
「私に……死なれては、困る……?」
「そうよ! ポンテ・ピアット城の戦いからここまで、目も当てられないくらいたくさんの人が死んだわ! 敵も味方も、あなたが魔族の言いなりになんかなったから……! だけどあなたが正気で、しかもあいつを倒す手段を持ってたなら、最初からそうしてればよかったのよ! なのにやつらの力に溺れて、死ななくてよかったはずの人たちまで……!」
カミラがうつむき、そう叫んだとき、はっとしたジェロディの脳裏に浮かんだのはもう帰らないマリステアの姿だった。けれど彼女だけじゃない。
確かに今回の戦いでは、ハーマンが守るオディオ地方を攻めたときよりもさらに多くの命が失われた。その最たる原因が魔族と魔人の介入だ。やつらがルシーンの野望のために力を揮い、マティルダもまたそれを黙認したがゆえに、夥しい血が流れた。すぐそこで無惨な肉塊と成り果てた第六軍の将兵がそうであるように。
「だからあなたにはこんなところで死なれちゃ困るの。たくさんの人を犠牲にした罪を生きて背負って、私たちと一緒に償ってもらわなきゃ、マリーさんが浮かばれないわ……!」
「カミラ……」
「ひとりだけさっさと死んで楽になろうなんて、そんなの絶対に許さない。魔界に堕ちて知性も理性もない魔物になるくらいなら、人間のまま死ぬほど苦しんでから死んで下さい! 最期まであなたを信じて戦った黄皇国の人たちのために……!」
カミラがそう声を荒らげた直後だった。口を開きかけたマティルダが言葉を発するのを待たず、彼女を乗せた希法陣が加速する。
青白く発光する五芒星と、それを幾重にも、円状に囲む古代文字。
星刻が生み出す法陣はカチ、コチ、カチ、コチ、と時計の音を奏でて回り出し、やがて猛然と噴き上がった光がジェロディたちの視界を奪った。
「うわっ……!?」
と、予想の上をいく強烈な光に、見守っていた仲間たちから悲鳴が上がる。
ジェロディもとっさに腕を翳し、網膜が焼きつきそうなほどの閃光に耐えた。
数瞬ののち目を開くと、そこにはムラーヴェイに襲われる以前の──すなわち腹部の傷が完全に塞がったマティルダの姿がある。
丸太に貫かれたかのようだった傷口から零れかけていた内臓はもちろん、地面に広がっていた血溜まり、そして今にも彼女を呑み込まんとしていた死影までもが嘘のように消えていた。何度見ても目を疑わずにはいられない、運命を変える力だ。水刻や光刻によってもたらされる癒やしの力とは一線を画する、まったく異質な神の奇跡……。
「カミラ!」
ところが刹那、傷が癒えたと知ってゆっくりと体を起こすマティルダに気を取られたジェロディの耳に、悲鳴にも似た仲間の声が飛び込んできた。
はっと我に返り振り向けば、隣で膝をついていたカミラの体がぐらりと傾ぐ。そうして倒れかかってきた彼女をとっさに支え、ジェロディは右手の《命神刻》に神力を集めた。しかしムラーヴェイとの死闘のあとで、ジェロディの神力もほとんど空だ。時戻しの術を使ったカミラに分け与えるには、恐らく足りない。
「カミラ、しっかり……!」
それでも今、自分の体内に残されたすべての神力を振り絞り、余すことなくカミラへ注いだ。冷たくなった体を抱き留めた両手に力を込めて、一滴でも多くの神力が彼女の魂へ届くよう祈る。祈る。
「……っ、ティノ、くん……」
ほどなく意識を失いかけていたカミラの唇から、ジェロディを呼ぶ声が漏れた。
ああ、よかった。どうやら今回は彼女が深い深い眠りの底へ落ちる前に手を取って、何とか引き止められたようだ。
「ごめん、カミラ。今はこれだけしか力を送れない。だけど……ありがとう」
「……うん」
そう言ってほんの一瞬、ジェロディを抱き返してきたカミラの指先には、わずかながらもちゃんと体温が感じられた。
次いで互いに体を離し、見やった顔色は青白かったが、それでもカミラは大丈夫だと告げる代わりに、にへっと笑顔を作ってみせる。
「マティルダ将軍」
が、そんなカミラに眉尻を下げ、ジェロディも笑い返した直後、誰かがマティルダを呼ぶ声で気がついた。ふと見ればついさっきまで傍らにいたはずのマティルダが、いない。彼女はまだ万全ではないはずの体でふらふらと立ち上がると、救世軍には目もくれず、ある一点を目指して歩き出す。
「将軍、お待ち下さい! まだお体が……!」
と、彼女の奇行を止めに走ったのはケリーだった。ところが彼女の手が届くよりも一瞬早く、マティルダはがくりと膝を折り、崩れるように座り込む。その体を横からケリーが支えた。ジェロディもカミラに肩を貸しながら立ち上がる。
そこで気づいた。マティルダが頽れたのは地面に倒れ、血と肉片にまみれた第六軍の大将旗『蘭捧ぐ大鷹』の傍らだと。
「……イーサン」
やがて微かな声で紡がれたのは、彼女の副官だった将校の名前。
強大にして凶悪なムラーヴェイの魔力の前に斃れた彼は、全身血にまみれたまま光を失った眼で夕空を見上げていた。同じような死体がいくつも、いくつも、いくつも、座り込んだマティルダの眼前に折り重なっている。
いずれも彼女を守ろうとした、忠勇の志士たちだった。
「……おまえの言うとおりです、アンゼルムの妹よ」
やがて目の前の血の海を見つめたままマティルダが言う。彼女の横顔は命を燃やして沈みゆく黄昏の陽を浴びて影となり、ジェロディの位置からはよく見えない。
「私が刺し違える覚悟で魔族に挑み、息の根を止めていれば……少なくともこの者たちが無意味に命を散らすことはなかったでしょう。そうと分かっていながら、私はあの魔族に抗うことをしなかった。ソルン城で目にした、魔のものたちが持つ圧倒的な力……もはやあれに賭ける他に、おまえたちを止める手立てはないと……」
「将軍……」
「しかしこれが魔界に魂を売った代償です。結局、私は……何ひとつ守れなかったのですね。城も、部下も、己の誇りも……そして、陛下に捧げた忠義さえ……」
マティルダの唇から零れる言葉は、音もなく濃さを増してゆく宵闇に掠れて消えるようだった。泡沫のごとく儚げに揺らめきながら、どこか虚ろに。
もうじき夜の帳が降りる。黄昏の時間は終わる。
けれどだからこそ、ジェロディには言うべき言葉があった。
「……マティルダ将軍。あなたと陛下の間に昔何があったのかは、僕も父から聞いています。真意はもちろん、陛下にしか分かりませんが……あの方があなたに手を差し伸べたのは、あなたに生きてほしかったからではありませんか。身分や性別やしきたりといった鳥籠に囚われることなく、誰よりも自由に」
「……」
「そして、同じように……あなたが守ろうとした部下たちも、あなたの生を願ったんです。彼らの死が本当に無意味だったかどうかは、あなたの心ひとつで決まります。マティルダ将軍──どうか彼らの死に報いて下さい。かつて陛下が望まれた世界を今度こそ、僕らの手で築くために」
マティルダは答えなかった。ただ魂を失ってしまったかのように茫洋と、目の前に広がる肉塊の海を見つめたまま。ところがそのとき、不意に羽音が聞こえた。
いよいよ迫る宵闇の中、ジェロディたちの頭上で響いた羽ばたきの音は、一直線にマティルダへと向かっていく。
残照を背に負って現れた翼の主に、ジェロディは見覚えがあった。
「アリーチェ」
目を丸くしたジェロディたちの視線の先で、羽音に気づいたマティルダが腕を差し出す。彼女も意図してそうしたわけではなく、長年の習慣で染み着いた動作を体が勝手に再現したような動きだった。するとアリーチェはそれを待ち侘びていたかのように舞い降り、鋭い爪の生えた両足でしっかりとマティルダの腕を掴む。
再び主人のもとへ帰ったアリーチェは、嬉しそうに小さく跳ねてマティルダを見つめた。黄色い嘴を開き、閉じた羽をちょっと浮かせながら、
──おかえり。おかえり。
まるで大好きな姉に、そう呼びかけるかのように。
「おまえ……どうして……」
と、マティルダが微かな声で尋ねたのが聞こえる。
対するアリーチェは主人が置かれた状況を理解しているのかいないのか、姿勢を低くしてマティルダを見上げると、鳴きながら無邪気に首を傾げた。
彼女のそんな仕草を見て、ジェロディはふと思う──ああ、そうか。
もしかするとアリーチェは、ずっと信じて待っていたのかもしれない。
マティルダがオルランドの帰還を信じ、待ち続けていたように。
アリーチェもまた、マティルダと再び穏やかに暮らせる日が来ることを。
「将軍」
そう呼びかけたケリーが触れた、マティルダの肩が震えていた。
彼女の頬を伝う涙が、落日の最後の光を浴びて宝石のごとく輝いている。
見つめ合ったひとりと一羽の間に、もはや言葉は要らなかった。マティルダが軽く腕を掲げればアリーチェも応え、姉妹はそっと互いの額を重ね合わせる。
ジェロディにはそれが誓いの口づけに見えた。
共に背負い、生きようと誓い合う口づけに。




