302.どちらかが滅ぶまで
彼女の声が七色の陽射しの中に反響し、聖堂内を満たしたとき、ジェロディはぞわりと心が波立つのを感じた。マティルダ・オルキデア。間違いない。
やはりいた。ということは城館に立て籠もっているという彼女の親衛隊は囮か。
見たところ聖堂内にいるのは彼女ひとりで、通路を挟んで並ぶ礼拝用の長椅子の陰に人が潜んでいる気配もない。
「……マティルダ将軍」
開け放たれた扉の前に立ち、ジェロディは押し殺した声で彼女を呼んだ。
彩色硝子の麓に佇む彼女の表情は、逆光でよく見えない。
けれどもジェロディは強烈な違和感を拭えずにいた。
マティルダと最後に会ったのは今年の初め──ジェロディが黄帝に謁見し、近衛軍に入隊することが決まった日。あの日の晩、マティルダは同じトラモント五黄将であるハーマンと共に屋敷へ駆けつけ、ジェロディの仕官を祝ってくれた。
あれから一年近い月日が流れ、ふたりは互いの立場を変えて今、再び向かい合っている。いや、変わったのは自分だけか。マティルダは現在も黄皇国中央第六軍を率いる大将軍としてそこにいて、反乱軍に寝返ったジェロディを超然と見据えている。その一本の剣のごとき眼差しと佇まいもまた昔のまま。
何も変わっていない。いや──あまりにも変わってなさすぎる。
「お久しぶりです、マティルダ将軍」
マティルダ・オルキデアは魔族と共にある。それはカミラを狙った胎樹の根の出現により既に確定しているはずで、ならば彼女もまたかつてのハーマンのように、魔族が持つ強大な力に取り込まれてしまったのだろうと思っていた。
けれども今の彼女からは、魔のものの気配をまったく感じない。ハーマンと対峙したときには目に見えるほどはっきりと感じた、あのどす黒くおぞましい邪気を。
「……エルネスト殿のご長女か。十年ぶりですね」
ところがジェロディがその事実に戸惑っている間にも、マティルダの姿を認めた仲間が即座に周囲を固め、武器を構えていた。彼らと共に進み出てきたトリエステも、瞳を細めて逆光の中のマティルダを見据えている。
「貴女が生きて反乱軍の指揮を執っていると聞いたときは驚いたが、息災のようですね。ご令妹には会えましたか?」
「……ええ、おかげさまで。此度の策をあなた方に授けたのもフィオリーナだったようですね。ですがさすがの妹も、あなたが魔族や魔人と結託することまでは計算外だったことでしょう」
「……」
「マティルダ・オルキデア将軍。当城は間もなく陥落します。ですがあなたが我々をここへ呼んだのは、降伏を申し入れるため──ではありませんね」
刹那、トリエステの鋭い舌鋒が突き刺したのはマティルダではなくジェロディの心臓だった。そうだ。彼女が何の策もなく、単身救世軍の本隊を呼び寄せるわけがない。ならば彼女の狙いは?
今のマティルダからはやはり魔族の気配を感じない。けれど──
「話が早くて助かります。ジェロディ・ヴィンツェンツィオ。おまえは黄皇国に剣を捧げた身でありながら祖国を裏切り、あろうことか陛下に弓引く大罪を犯しました。その罪を今、神前で悔い改め、自らの首を差し出すつもりはありませんか?」
「は……? 将軍、何を言って──」
「当代きっての忠臣であるガルテリオ殿の功績に免じた、せめてもの情けです。これ以上偉大なご父君の名を辱しめる前に、贖罪の道を歩むべきでは?」
「お言葉ですが、将軍。真に罪を悔い改めるべきはルシーンのような魔女の専横を許し、陛下をお諌めしなかったあなた方ではありませんか。ゆえに我が主は黄都を追われ、祖国に矛を向けざるを得なかったのです。他でもない、かつての陛下が愛した黄皇国の民のために!」
淡々としたマティルダの問いに怒声で返したのは、ジェロディの傍らで槍を構えたケリーだった。されど彼女の剣幕を前にしてもマティルダの表情は変わらない。
瞬間、不意に羽音が聞こえ、はっとしたジェロディたちの頭上を小さな影が飛び越えた。かと思えば羽音の主は一直線に、陽光に縁取られたマティルダのもとへと飛んでゆく。マティルダも腕を差し出してそれを迎えた──アリーチェ。
長年マティルダが妹のように育ててきた猛禽が、甘えた仕草で喉を鳴らした。
するとマティルダはそっと彼女に顔を近づけ、互いの額と額を触れ合わせる。
まるで別れの口づけのようだった。
何故かは分からないものの、ジェロディにはそう見えた。
お行き、とマティルダの唇が囁いたのが聞こえる。アリーチェはそんな彼女との別れを惜しむように、じっと主人の顔を見つめていた。しかしやがて別れを受け入れたのか、祈るように頭を垂れたのち、軽やかに飛び立ってゆく。
妹の背をまぶしそうに見送る姉の姿はやはり、ジェロディの知るマティルダ・オルキデアその人だった。
「将軍──」
「確かにおまえたちが黄都を追われる原因を作ったのはルシーンです。そこは認めましょう。ですが我々とて手を拱いていたわけではない。何度も陛下をお諌めし、傾きかけた祖国を立て直そうと力を尽くしてきました。されど力及ばなかったことを悔やみこそすれ、おまえたちに責められる謂れはありません」
「ではあなた方は黄皇国の現状をどのようにお考えなのですか? 帝政の腐敗は正されぬまま、民が苦しむのを後目に〝やれることはすべてやったのだから仕方がない〟と諦めろと? 本気で祖国を救いたいとお考えならば、取れ得る限りの選択を試みるべきでしょう。たとえ一時の汚名を被ろうとも、真の黄臣ならば」
「真の黄臣……ですか」
とケリーの詰責を復唱したマティルダは、逆光の中でふっと笑ったようだった。
かと思えばすらりと腰の剣を抜き、細身の刃をこちらへ向ける。
ジェロディは息を飲んだ。まさか戦うつもりだというのか。
神に祈りを捧げるべき場所で──たったひとりで。
「笑止。帝政の撤廃を声高に叫び、陛下の弑逆を企むおまえたちが我が国の臣を名乗るなど痴がましい。交渉は決裂です。どうやら我々は、どちらかの気が済むまで殺し合うしかないらしい」
「マティルダ将軍……!」
「かかってきなさい、ジェロディ。私が生きている限り、おまえをこの先へ進ませはしない。おまえたちが陛下の御許へ近づくことは、一歩たりとも許さない」
「……っ何故ですか……! 陛下はあなた方の想いを裏切り、今も臣民を苦しめ続けている。だというのに何故あなたは、なおも陛下のために戦い続けるんです!?」
「──愚問ですね」
マティルダの即答は、彼女が構えた剣と同じくらいまっすぐで迷いがなかった。
まるで太陽の祝福のように、マティルダの剣が七色の光を弾く。
彼女の榛色の瞳が、覚悟の火で燃えている。
「私たちはそれでも陛下を信じている。あのお方が民の嘆きに耳を塞ぎ、破滅への逃避を続けるような暗愚ではないと知っている」
「将軍、」
「ゆえに我々はただ耐え忍び、待つのです。在りし日の英雄の帰還を。我らが王の再臨を!」
ジェロディは足が竦んで、立ち尽くしてしまいそうだった。
──なんて不毛なことを。そんな未来はもはや夢物語だ。
今の黄皇国を知る者ならば、誰もがそう一笑に付したことだろう。
けれどもジェロディは笑えない。彼女の想いを否定できない。
何故なら自分が今、ここにいるのは。
一度は救世軍に背を向け逃げ出した自分が再び戻ってこられたのは、こんな自分を信じ、待ってくれていた仲間がいたからだ。
(だとしたら、陛下も)
彼にもまだ、帰るべき場所がある。
何があっても彼を信じ、待ち続けている人がいる。
けれど、自分は。自分たちは。その場所を奪う。奪うしかない。
それがどれほど残酷なことか、身をもって知りながら。
誰もがもう引き返せないところまで来てしまったのだから。
(ごめん、マリー)
胸中で彼女にそう詫びながら、ジェロディは剣を抜き放った。
(やっぱり君は、あの人を救えと言うだろう。だけど、僕は)
失えない。失いたくない。マリステアが命を懸けて守ってくれた救世軍を。
だとしたら、戦うしかない。ああ、マティルダの言うとおりだ。
どちらかの気が済むまで殺し合わなければ、自分たちはもう止まれない。
けれど彼女はたったひとりだ。周囲には魔物の気配もない。
だというのにマティルダは一体どうやって、
「──貫け、絶望よ」
刹那、地の底から鼓膜を震わせた声があった。目を見開き凍りついたジェロディとは裏腹に本能が──否、右手に宿る生命神が叫ぶ。
《躱せ!》
それは自分の意思だったのか、はたまた神の意思だったのか。
気づけばジェロディは《命神刻》の力を解き放ち、床を蹴ると同時に仲間の武器へ命を吹き込んでいた。途端に意思を持った武器たちが持ち主ごとあらぬ方向へ飛んでゆく。突然の出来事に反応しきれなかったケリーたちが驚きの声を上げながら、得物に引っ張られてまろび出た。その様子を見たシズネが並外れた反射神経を発揮して、とっさにトリエステを突き飛ばす。
瞬間、ジェロディは見た。あれは──影?
寸前までジェロディたちが佇んでいた場所に銘々の影が取り残されている。
そんな馬鹿な、と目を疑った直後、黄砂岩造りの床に黒々と張りついた皆の影から、何本もの黒い槍が突き出した。あと半瞬でも長く自らの影を踏んでいたら、誰もがあの槍に貫かれていたに違いない。
(……! この力は……!)
ぞっと背筋が冷えるのを感じながら、ジェロディは即座にマティルダを顧みた。
すると彼女の足もとに伸びた影が妖しく揺らめき、黒い波紋が広がってゆく。
その波紋の中心から、にわかに実体を帯びた影が隆起した。
いや、違う。あれはマティルダの影ではない。何故なら影の中から現れた真っ黒な肢体には、赤く巨大な複眼を備えた虫の頭が乗っている。
背には黒い鱗の狭間から赤光が漏れる異形の翼。人に近い形の胴は男のものでも女のものでもなく、ただ胸もとを裂く亀裂の向こうで赤い光が拍動している。
もはや疑う余地はなかった。魔族だ。しかも蟻に似た頭部の造形は、ヴィルヘルムがソルン城で交戦したと言っていた魔族の情報と合致する。
「ふん……ようやく現れたな、ハイムの神子」
魔族の顔面を飾る鋏型の牙の間から、羽虫が翅を擦り合わせるようなノイズ混じりの声がした。マティルダの影より現れ、空中へ舞い上がった蟻頭の魔族は、遥か頭上からジェロディたちを見下ろしてくる。
「待ちくたびれたぞ。やっとこの手で汝の首を刎ねてやれる」
「そ、そんな……やっぱり、魔族が……マティルダ将軍、あなたは……!」
「何を驚いているのです? 私が魔族と手を結んでいると、あれほど騒ぎ立てていたのは他でもないおまえたちでしょうに」
「……っどうして、あなたほどの武人が……! あなたもルシーンと同じ魔道に堕ちるつもりですか! あの女がすべての元凶だと知りながら!」
「これは異なことを言う。神に選ばれたおまえからすれば、自らの意に刃向かう者すべてが魔道に堕ちたも同然でしょう。ならば魔族と結ぼうが結ぶまいが私の立場は変わらない。どのみち魔女と断じられ、破滅の道を歩むなら、一歩でも勝利に近づく選択をする。それが私の武人としての信念です」
マティルダがやはり揺るぎなくそう答えれば、頭上で魔族の哄笑が弾けた。
見上げれば蟻頭の魔族はひどく愉しげに、獅子のごとき尾を揺らめかせる。
「何を言っても無駄だぞ、テヒナの狗よ。もともと愚かにつくられた人類の中でも其奴は飛び抜けて愚かだ。マティルダの中には恐怖も迷いも絶望もない。神も魔も畏れぬ愚か者には、どんな脅しも侮辱も呪いも無意味だ!」
「……っ! マティルダ将軍、あなたは……!」
「これ以上の問答は無用です。おまえにも信じる正義があるのなら──私を殺してゆきなさい、ジェロディ・ヴィンツェンツィオ」
今にも剣把を砕かんばかりに、きつく右手を握り締めた。いっそ心から彼女を憎めたならば、こんな風に魂を轢き潰される思いなどしなくて済んだのに。
それでも自分は進まねばならない。彼女を殺し、その屍の先へゆく。
愛するものを奪われたがゆえに。そして、愛するものを守るために。
「将軍──お命、頂戴します」
告げると同時に、再びハイムの力を解き放った。
聖堂内に整然と並んでいた長椅子という長椅子が、一斉に宙へ浮き上がる。
まるで重力が逆転したような光景だった。生命を吹き込まれた長椅子たちはたちまち巨大な鈍器へ姿を変えて、宙空へ浮かぶ魔族へ殺到していく。
四方八方から突撃する長椅子の群に魔族が呑まれた。そうして生まれた一瞬の隙を衝き、ジェロディは気合を上げてマティルダの懐へ飛び込んでゆく。
互いの剣と剣とがぶつかり合い、暴力的な音色を奏でた。
あの魔族の言うとおりだ。マティルダの剣には恐怖も迷いも絶望もない。
つまり彼女は正気だった。
ハーマンのように魔術にかけられ、操られているわけでは決してない。
自らの意思で魔族と結び、自らの意思で勝利への道を開こうとしている。
ジェロディにはそれが悲しくてたまらなかった。
彼女と殺し合うことでしか、愛するものを守れやしないなんて。
「ジェロディ様!」
刹那、マティルダと迫り合うジェロディの頭上で轟音が弾けた。はっとして見上げれば黒い風が逆巻き、魔族に襲いかかった長椅子の群を弾き飛ばす。吹き飛ばされた長椅子は雨のごとく降り注ぎ、逆に味方を襲う凶器と化した。ジェロディも押し潰される寸前で跳び退いたが、そこにすかさず魔族の追撃が打ち込まれる。
「くっ……!」
落下する長椅子の狭間から、捩じ込むように突き出された黒刃をギリギリのところで受け止めた。よくよく見ればそれは剣ではなく、刃のごとく変形した魔族の腕だ。次の瞬間、ジェロディの剣に行く手を阻まれた黒刃の先端がぐわりと開き、鋭利な爪の形を取った。この魔族は──己の体を自由自在に変形させられるのか。
「ジェロディさま……!」
黒刃から姿を変えた五本の爪が、瞬時に伸びてジェロディへと襲いかかった。
しかしその先端がジェロディの眼窩を貫く寸前、すかさず跳躍したシズネが勢いよく体を拈り、魔族の側頭部に強烈な回し蹴りを見舞う。
おかげで魔族の狙いが逸れた。眼前に迫りつつあった漆黒の爪は、ジェロディの左頬を引き裂いて通り過ぎる。が、人間ならば間違いなく昏倒しているであろうシズネの一撃を喰らっても、魔族は衝撃を受け止めて空中に踏み留まった。
「破術ノ貳、雷遁!」
それを見たソウスケが懐から引き抜いた符を素早く構え、忍術を発動する。
符に描かれた紋様を青白い光がなぞり、たちまち閃光と雷気を生んだ。
そこから放たれた稲妻の矢が魔族の頭部を直撃する。
まるで神術と変わらない一撃だった。命中と同時に発生した爆煙を煙幕のごとく利用して、シズネが魔族から跳び離れる。ジェロディもつられて後退した。
が、白煙に視界を遮られたのはこちらも同じだ。直後、薄い煙幕を貫いて、魔術で練られた漆黒の矢が次々と救世軍へ襲いかかる。
「ぐうっ……!」
ジェロディはすんでのところで矢を躱せたが、不意を衝かれた兵士が何人も漆黒の矢に貫かれた。魔力によって生み出された矢は鎧さえも難なく食い破り、味方の体を貫通する。ところがそのおぞましい光景に、ジェロディが気を取られた一瞬の隙。そこにマティルダが踏み込んだ。
気づいたときには懐に入り込まれていて、横薙ぎの剣が飛んでくる。
「──!」
けれどもジェロディの体が反応するよりも早く、マティルダの攻撃を受け止めた穂先があった。ケリーの槍だ。彼女はマティルダの剣を防ぐと同時に得物の柄を返し、石突でマティルダの脇腹を狙う。対するマティルダも身をよじり、ケリーの反撃を躱した。今だ。ジェロディも続けて踏み込めば、攻撃を畳み掛けられる。
「影操呪法、影盗り」
そう勢い込んだのも束の間だった。
ジェロディが追撃に移る間を与えず、蟻頭の魔族が低く呪いの言葉を紡ぐ。
途端に背後で悲鳴が上がった。魔矢の直撃を受け、絶命した味方の影が突如むくりと起き上がり、自らの意思と実体を持って動き始めたのだ。
「な……!?」
あれも魔術の力なのか。主の死をもって軛から解き放たれた影の群は、兵士たちが死に際まで握っていた得物の影を振り回し、次々と味方を襲い始めた。
あの魔族が操る魔術は、圧倒的な力で地上のものすべてを捩じ伏せるようだったオヴェスト城の魔族とは違う。
影と呪いを巧みに操り、じわじわと戦力を削る戦いを得意としているようだ。
『魔王の忠僕』。そう呼ばれる魔族の力は、ジェロディの想像を完全に凌駕していた。同じ魔族でも操る魔術や戦い方が異なるというのか。
だが今は魔族に詳しいヴィルヘルムも、破魔の力を持つメイベルもいない。
となればやはりここは、ジェロディが持つ神の力で抗うしか──
「くそ……!」
《命神刻》の力を使うごとに、ジェロディの魂はハイムに食われる。
そうと分かっていても今はこの力を振るうしかなかった。
斃れた味方の手にある得物に、一斉に命を吹き込む。
あの魔族の気を逸らし、魔術を絶てば。
そうすればきっと味方を襲う影たちも動きを止めるか、消滅するはず……!
「射止めよ、影縫い」
ところがジェロディの手足となった無数の刃が、今にも魔族へ襲いかかろうとしたときだった。蟻頭の魔族は地上の攻撃が届かぬ高みから手を翳し、ジェロディたちの頭上に再び何十もの矢を生み出す。しかし地面に向かって垂直に降った矢の雨が貫いたのは、救世軍兵だけではなかった。
影。聖堂の床に落ちた剣や槍や刀の影だ。ジェロディが神の力で従えた武器たちが、漆黒の矢に影をぴたりと縫い止められて、どれほど念じても動かない。
(そ、んな……ハイムの力が……!)
宙空に浮かび上がった武器という武器が、まるで時間が止まったように静止していた。そこには確かにハイムの力を感じるのに、やはり動かそうにも言うことを聞かない。ならば一体どうやって。どうやって魔族を討てばいいんだ?
ジェロディを見下ろす魔族の赤い複眼が、せせら笑うように明滅した。
ヴヴヴヴヴ……と翅が震える不快な音が、ジェロディの鼓膜を掻き鳴らす。
「無様だな、侵略者の末裔よ。我らを欺き裏切った結果、汝らもまた人類に裏切られ栄華を失うとは愉快なものだ。汝らが醜いと言って捨てた故郷が、我らに与えた力に屈する気分はどうだ?」
「な、に……?」
「だが諦めろ。イマの器はもはや汝らに従わぬ。汝らは汝らの不義と強欲によって滅ぶのだ。ならば見苦しく足掻くのはやめて楽になれ。我ら《はじまりの一族》の父祖の地を──返してもらうぞ」
何、を、言って、いる?
あの魔族は、今、なんと──侵略者? イマの器? はじまりの一族?
それらの言葉がジェロディの思考を掻き乱し、意識を散り散りにしてしまう。
なんだ、この奇妙な感覚は?
まさかハイムが魔族の挑発に乗って現れ出でようとしている?
だがダメだ。今、こんな状況で意識を持っていかれるわけにはいかない。
戦わなければ。
自分は救世軍の総帥として──ジェロディ・ヴィンツェンツィオとしてここに、
「あ、れ……?」
ところがハイムの意思を振り払うべく、剣を振るおうとして気がついた。
動かない。体が。まるで空間に縫い止められてしまったかのように。
そこでようやく気がついた。足もとから背後に向かって伸びた影。
死角ゆえに見逃した。
射抜かれた武器たちの影と同じく、ジェロディの影にも無数の楔が、
「死ね」
蟻頭の魔族が伸ばした人差し指が、くい、と軽く持ち上げられた。途端にジェロディの真下から、おぞましい気配が槍の形を取って突き上げてくる。
それを避けることはおろか、見下ろすことさえできなかった。
黒い穂先がジェロディの心臓目がけ、瞬きの間に伸びてくる──




