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【side:A】エマニュエル・サーガ―黄昏の国と救世軍―  作者: 長谷川
第4章 君を忘れないために
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123.シニョリーナ

 ミレーナ・シュバルツ・ヴァンダルファルケは、かつてのトラモント黄皇国将軍ヴィルヘルム・シュバルツ・ヴァンダルファルケの姪である。

 出身は南半球のテペトル諸島で、ヴィルヘルムの妹アガーテが母に当たる。アガーテは兄との旅の途中、島の青年と恋に落ち、彼の村で共に生きることを選んだ。そこで生まれたのがミレーナだ。

 生まれも育ちもテペトル諸島のトラグ村。だからちょっと変わった訛りをしているが、今は両親と死に別れ、伯父であるヴィルヘルムに引き取られて旅をしている。


 今宵カミラが演じなければならないミレーナの設定はこうだ。

 もちろんヴィルヘルムには妹なんていないし姪もいない。いずれもカミラの正体を偽り、訛りを誤魔化すためにでっち上げた作り話である。


 カミラは気が遠くなるほど長く、眩暈がするほどたくさんの絵画が飾られた画廊を歩きながら、何度も何度もその設定を頭の中で反芻していた。

 見た目も質感も極上の壁紙にかけられている絵画たちは、いずれも名だたる画家の作だ。競売にかければ五百金貨シールはくだらない巨匠の遺作から歴代当主の肖像画まで、実に様々、色とりどりの絵画が額縁の中で誇らしげに燭台の光を弾いている。


 が、そんなことはどうでもいい。

 というか絵画と言えばこれまで遺跡コリ・ワカの壁画くらいにしか縁のなかったカミラには、右手の壁にずらりとかかる絵画の価値が分からない。

 それよりもいま大事なことは、案内役として自分たちを先導する下僕に遅れずついていくことだ。ヒールを履き慣れていないカミラは一歩踏み出す度にぐらぐらとぐらつき、抜き足差し足でないと転びそうで進めない。

 早く重心の取り方を覚えなければと焦るものの、学習を妨げているのがコルセットによる圧迫だ。これのおかげでカミラはピンと姿勢よくいられるが、同時に柔軟な姿勢を取れない。端的に言えば動きずらい。しんどい。息苦しい。


 そのせいで既に息も絶え絶えなカミラが何とか立っていられるのは、左腕をヴィルヘルムのそれに絡めて支えてもらっているためだった。

 不幸中の幸いと言うべきか、トラモント貴族の紳士は淑女をこのような姿勢でエスコートするのが標準らしく、周りから不審の目を向けられることはない。


 とは言えちょっとした鍛練場になりそうなほど広いエントランスからこの画廊の中ほどまで踏破したところで、カミラは早くも限界を迎えようとしていた。

 まるで急な山道を何刻もかけて下ってきたみたいに脚が震え、立ち止まるとぷるぷるする。そんなカミラを休ませるためか、時折ヴィルヘルムが壁の絵画に目を向けて下僕に解説を求めたりするのだが、もはやあまり意味がない。焼け石に水、泣きっ面に蜂だ。


 できれば一刻も早くどこかに腰を下ろして、慣れない靴に悲鳴を上げている両脚をいたわってやりたかった。

 が、聞けば今宵の宴は豪勢な立食パーティーだと言うではないか。会場となっている舞踏室には既に百名を超えるお客様がお見えになっていますよ、と下僕がにこやかに教えてくれたときには、カミラは魂がふわ~っと抜けていく感覚を味わった。


 早くもそれほど多くの招待客が集まっているというのなら、人数が揃うまでちょっと休憩……とはいくまい。夜会はもう始まっており、カミラたちはこれから二刻か三刻か、とにかく途方もなく長い時間その場に拘束されなければならないのだ。

 そう考えたら胃の中のものが迫り上がってくるような感じがして、カミラはヴィルヘルムにしがみついた。下僕はそんなこちらの様子に気づいていないのか、明かりを手にすたすたと先へ行く。


「あ、あの、ヴィル……? 残念ながら私、もう限界なんですけど……」

「何を言ってる。まだ会場に入ってすらいないだろう。もう少し気張っていろ」

「無茶言わないでよ! そもそも指名手配中の賞金首が、自分から貴族の群に飛び込むなんて正気じゃないわ。今夜集まってるのは国の官僚とか軍人ばっかりってことでしょう? そんなところで正体がバレたら一巻の終わりよ、この靴じゃいざというとき走れないし……」

「心配するな。少なくともジェロディを女装させて寄越そうとしたお前の策よりはずっと正気だ。それにその変装も思ったより様になっている。堂々と構えてさえいれば、誰もお前の正体に気づかんさ」

「いや、もちろんそうであってほしいとは思ってるけど……私、貴族なんかと何話せばいいのかサッパリだし、テペトル諸島に行ったことなんて一度もないし……」

「この国の貴族の中にもあの島へ行ったことのある者などまずないから安心しろ。今のお前なら、何も喋らずとも笑って愛想を振り撒いていれば何とかなる」

「そんな適当な感じでほんとに大丈夫なの?」

「現に宿でジェロディが呆けていただろう。体調でも悪いのかと尋ねたら、正装したお前が予想以上に綺麗で呆気に取られていた、と言ってたぞ」

「はあ……!?」


 いきなり何を言い出すんだこの野郎、とカミラはとっさにヴィルヘルムを突き飛ばしそうになった。が、前方で下僕が足を止めたことに気づいたヴィルヘルムに腕を引かれたことで未遂に終わる。

 下僕は既に扉の前まで到達し、少し遅れたカミラたちが追いつくのを待っていた。小声でのやりとりだったので会話は聞かれていないと思うが、何をちんたらやっているんだと若干不審に思われている気配はある。


 が、カミラはまず自分の心臓を宥めるのに必死で、下僕の視線になど構っていられなかった――だって、ジェロディが、自分を〝綺麗だ〟って……?

 ヴィルヘルムの言葉の意味を改めて咀嚼したら、ボッと顔に火がついた。どうしてこんなに恥ずかしいのか自分でもよく分からない。


 ……いや、恥ずかしい? この感情は果たして羞恥なのか? もちろん柄でもない自分の姿を見られて恥ずかしいという思いがないわけじゃないけれど。

 でも、これはむしろ〝嬉しい〟というか……。

 ……嬉しい? 何が? どうして?


「すまんな。途中、コンラートの肖像画に気を取られて遅れた」

「ああ、いえ、お気になさらず。そう言えばヴィルヘルム様は、先代の旦那様と正黄戦争を共に戦われたのですよね。先代がご存命でしたなら、きっとヴィルヘルム様との再会を喜ばれたでしょうに」

「ああ。叶うことならもう一度、俺もやつと酒を酌み交わしたかった。黄皇国は惜しい人材を手放した・・・・な」


 そんなヴィルヘルムと下僕の会話は右から左へ流れるばかり。カミラがふわふわした心地のまま大きな扉の前まで来ると、ついに会場への道が開かれた。

 途端にぶわっと溢れ出してきたのは歓談の声。熱気。葡萄酒と香辛料の匂い。やわらかく響き渡る楽器の音色。目も眩むほどの光、光、光。


 カミラはそこで目が覚めた。そして茫然と立ち尽くした。

 扉の向こうに広がる景色は、この貧相な語彙力ではとても形容しきれない。

 敢えて一言で言い表すなら、眩しい。照明も金銀の装飾も、きらびやかな衣装に身を包んだ大勢の貴族たちの壮麗さも。


 太古に実在したという巨人ナフィールでさえ収容できそうな大広間は、数え切れないほどたくさんの蝋燭の明かりで輝いて見えた。何本もの柱に飾りつけられた金色の燭台もそうだが、特にすごいのが天井から吊られた多灯火照明具シャンデリアだ。

 天井の五ヶ所に設けられたそれは、一番大きいものだとざっと三十本近い蝋燭が備えつけられていた。蝋燭というのは灯火具の中でも特に高価で、庶民ではなかなか手が出ない品なのだが、そんなものをあれだけ大量に使っているという事実に愕然とする。


 無数の火に照らされた遥か頭上の天井には、天使たちが舞う荘厳な宗教画。カミラがよく通っていた金神正教会の聖堂にだって、あんなに広大で精緻な宗教画はどこにもなかった。

 そこから地上へ目を戻せば、毛足の長い絨毯の上を優雅に行き交う貴族たち。見たところ男女いずれも年齢を問わず集まっているようだが、その姿の何と輝かしいことか。

 紳士たちはいずれも品の良い燕尾服に身を包み、淑女たちは色とりどりのドレスの裾を蝶のようにひらひらさせている。百花繚乱の花畑に迷い込んだかと錯覚するほどの美しさに、カミラは目を奪われた。


 純白のクロスがかけられたいくつもの円卓の周りでは、彼らが葡萄酒の杯を手に会食と談笑を楽しんでいる。高そうな銀食器に盛られているのは、料理というより芸術品と呼んだ方がしっくりくる食材の数々。

 一体この夜会のために、主催者はどれほどの私財をなげうったのだろう。

 フィロメーナの生家オーロリー家とも肩を並べる大貴族、ヒュー家。かの家の財力と権威とを、カミラは入り口から望める景色だけでまざまざと見せつけられたような気がした。


 が、いつまでも唖然としているわけにはいかない。扉付近の貴族たちの視線は、新たに現れた見慣れぬ客人に集まりつつある。

 あれは誰だと囁く声が、水たまりに石を投げ入れたようにさあっと奥まで広がった。その声の波紋に圧倒され、カミラは思わず怖気づく。

 けれどそんなカミラを促すように、ヴィルヘルムがまたもぐいっと腕を引いた。カミラは振動に驚いて、びくりと肩を震わせる。


「目を合わせるな。前だけ見ていろ。余計な詮索をされたくなければな」

「で、でもなんか、みんなこっち見てる……」

「俺が珍しいんだろう。普通、夜会に顔を隠して現れるやつなどいないからな」

「そ、それって既に怪しまれてるってことじゃないの……!?」

「問題ない。行くぞ」


 いやいや問題ないことはないんじゃない? ここで注目を浴びるのはまずいんじゃない? というカミラの懸念をまるっと無視して、ヴィルヘルムはさっさと歩き始めた。カミラも抗う暇なく引っ張られ、ついに貴族たちの宴へ足を踏み入れる。

 やはりヴィルヘルムの異装が珍しいのだろうか、二人が進むと貴族たちは次々道を開けた。彼らに怯えた様子はないが、しかし奇異の目で見られていることは確かだ。


 どうしよう。初っ端からこんなに目立って大丈夫なの?


 カミラは不安で叫び出したかった。

 けれどそのとき、カミラたちの行く手で人垣が割れる。

 ヴィルヘルムが押し通ろうとしたからじゃない。貴族の壁の向こうから、ぎょっとするほどの美丈夫が進み出てきたためだ。


「お待ちしておりました、ヴィルヘルム殿。ご足労いただき光栄です」

「……ヴィルヘルム? ヴィルヘルムというと、あの『黒迅風』の?」

「我が国に戻ってこられたのか」

「いつから来ていた? そんな噂は聞かなかったぞ……」


 再び声の波紋が広がった。今度はこちらを訝る声じゃない。驚きと戸惑いと昂揚とが複雑に入り混じった声だ。

 その中に「ならば隣にいるご令嬢はどなたです?」という声が紛れて、カミラは身を固くした。でもヴィルヘルムは自分の名を囁かれたところで微動だにしていない。だったらカミラも努めて冷静に振る舞うべきだ。頑張れ私。負けるな私。


「昨日ぶりだな、ハインツ。ご招待に感謝する」

「いいえ。こちらこそ、再び貴兄を陋宅にお招きできたことを嬉しく思います。星界より地上を見守る我が父も、きっと喜んでいることでしょう」


 優しげな笑みを湛えて歩み寄ってきた美丈夫は、秋の穂麦を思わせる豊かな金髪と菫色の瞳を持った男だった。

 歳はヴィルヘルムよりやや下と思しいが、彼がハインツと呼びかけたところを見ると、この美丈夫こそが今宵の宴の主催者にして屋敷の主なのだろう。


 ということはフィロメーナやジェロディと同じ詩爵家の人間ということになるわけだが、なるほど、確かに絵に描いたような貴公子だ。喋り方や立ち居振舞いは完璧に洗練されているし、金糸で縁取りされた夜会服は高級そのもの、右耳には既婚者の証である結婚石を下げている。

 ならば会場のどこかに、彼と同じ耳飾りをつけた妻女がいるはずだ。もしかして子供もいたりするのかしらとカミラが興味の眼差しを注ぐと、ちょうどハイツもこちらを向いて、二人の視線が搗ち合った。


「そちらが噂のご令姪れいてつですか。貴兄に姪御様がいらしたとは驚きました」

「ああ、名前はミレーナという。こういう場所に伴うのは初めてで、不調法をするかもしれんが多目に見てやってくれ」

「は、はじめまして、ミレーナです。以後お見知りおきを」


 カミラはよそゆきの声で挨拶すると、事前にマリステアから教わったとおり、ドレスのスカートをちょっと摘まんで膝を折った。正直慣れない靴のせいでカクンと膝を折ってしまいそうだったが、そうならなかったのはすかさず――と言うべきかどうか、ハインツがカミラの左手を掴んだからだ。


「お会いできて光栄です、ミレーナ嬢。私は当家の二十七代目当主、ハインツ・ヒューと申します。正黄戦争の折りには貴女の伯父上から、ひとかたならぬご恩を賜りました。どうぞ今宵は春の訪れを祝う宴を存分にお楽しみ下さい」


 滑らかな話し口でそう言うと、ハインツはごく自然な動作でカミラの手に口づけた。これもマリステアから事前に聞かされていなかったら、カミラはきっと素っ頓狂な声を上げ、彼を突き飛ばしていたに違いない。

 しかしこの口づけは、トラモント貴族の間ではごく当たり前の礼儀作法だ。女性フェミ優遇者ニストの国として知られる黄皇国の紳士たちは、女性に頭を下げ手に口づけを落とすことで自らの敬意を示すらしい。


 だからカミラも落ち着いてその礼を受けた。いや、正確には緊張で体が硬直して動かなかっただけだし、婚前の女の体に口づけするなんてルミジャフタでは考えられない暴挙だけれど、これは文化の違いなのだ。異文化交流だ。つまり気にしたら負けだ。大丈夫。口づけと言ってもハインツの唇が触れたのは、あくまでこの手套だし。


「ですがドレスもよくお似合いで。まるで初めから貴女のためにあつらえたかのようですね。お気に召しましたか?」

「は、はい……えっと、お屋敷の皆さんには、色々とお世話になりました。私なんかのために、わざわざこんな素敵な服を用意していただけて……」

「いえいえ。事前にお伝えしたとおり、そちらのドレスは過日、亡き姉が仕立てた一品です。娘が社交界に入るまでは衣裳室の奥で眠っているはずでしたが、今宵貴女のような麗しい女性に着ていただけて、きっと亡姉あねも喜んでいることでしょう」

「こ、こ、光栄です……」


 にっこりと微笑みながら歯の浮くような台詞を繰り出す貴公子を前に、カミラは顔が引き攣らないよう返すだけで精一杯だった。

 実を言うとたった今カミラやヴィルヘルムが身にまとっているこの衣装は、既に他界したというハインツの父や姉のものなのだ。


 こんなことになるまでカミラはまったく知らなかったのだが、何でも貴族たちの夜会にはドレスコードなるものが存在し、しっかり正装をしていかなければ会場に入ることすら拒まれるのだという。

 だが根なし草のカミラたちが、貴族の審美眼に耐え得る衣装など持ち歩いているわけがない。そんなものがもしも手元にあったなら、とっとと売り払って救世軍の活動資金に換えているし。


 だからヴィルヘルムがその旨を伝えると、ならば衣装は当家が貸し出しましょうとハインツが申し出てくれた。彼は屋敷の使用人たちに命じてあのボロ宿まで山ほどの衣装を運ばせ、カミラたちを変身させ、そして夜会に迎え入れてくれた――というわけだ。


 まさに至れり尽くせり。ジェロディの元上官は貴族だが実に親切で誠実な人だなと、カミラは改めて目の前のハインツを見た。

 今は夜会服に身を包んでいるせいかもしれないが、この人が軍人だなんて一目ではとても思えない。体つきは貧相ではないし弱そうでもないけれど、戦場で剣を振るって他人の血を浴びるような、そんな人間には見えないということだ。


 この人になら、ジェロディのことを話してもいいんじゃないか。

 彼の贖罪の気持ちを伝えてあげたい。


 カミラはそうした衝動に駆られかけたが、ぐっとこらえた。これはただのお節介であって、ジェロディもそう望むとは限らない。

 だからカミラが唇を結んだところで、ハインツの手がついに離れた。周りの視線が集まっていることを気にしたのだろう、彼は会場に目を配る素振りをしながら、やや低めた声色で言う。


「ところでブランチ卿ですが、出掛けに馬車が故障したとかで、まだご到着されていません。代えの馬車の準備ができ次第ご来場されるとのことでしたので、しばしお待ちいただくことになるかと」

「構わない。それまではヒュー詩爵主催の晩餐会を楽しませていただくとするさ」

「世界中の貴族を知る貴兄にそう言われると、何やら空恐ろしいですね。どうぞお手柔らかにお願いします」


 ハインツは微苦笑を湛えてそう言うと、他の来賓への挨拶があるので、と一度カミラたちの前を辞した。

 しかし彼のおかげでこの隻眼の偉丈夫がかつての〝ヴィルヘルム将軍〟であることが知れ渡り、二人に注がれていた疑いの眼差しは瞬く間に好奇のそれへと変わっていく。


「ヴィルヘルム将軍! いや、今はヴィルヘルム殿とお呼びすべきですかな? ようこそ我が国へお越し下さいました! わたくしを覚えておいででしょうか、かつて共に真帝軍を率いたグレイズでございます。いやあ、お懐かしい……!」


 そこからヴィルヘルムが見知らぬ貴族たちに囲まれるまで、さして時間はかからなかった。彼らはみな口々にヴィルヘルムの知人を自称し、かつての将軍との再会を喜んでいる。

 対するヴィルヘルムも普段は見せないような柔和な笑みを浮かべて、彼らと久闊を叙していた。だがカミラには分かる。あれはきっとやり手の商人が常連客に見せるのと同じ仮面だ。現に彼の隻眼はほとんど笑っていないじゃないか。


 とは言えそういう対応をそつなくこなすあたり、彼がこうした場に呼ばれ慣れているというのは本当なのだなとカミラは思った。他方、カミラはヴィルヘルムの気を引こうと押し寄せる貴族たちにもみくちゃにされ、早々に限界突破だ。

 ただでさえ両脚のぷるぷるも健在で死にそうなのに、この仕打ちはあまりにもむごい。バランスを取ることに夢中でだんだん無口になっていくカミラを見かねたのか、やがてヴィルヘルムが小声で「離れていろ」と耳打ちしてきた。


 彼の視線の先には、壁際に並べて置かれた背凭れつきの椅子がある。立食に疲れた客人が休めるよう、屋敷の者たちがあらかじめ用意していたのだろう。

 カミラはヴィルヘルムからの指示を是幸いと、頷いて一直線に椅子を目指した。貴族だらけの会場で仲間の傍を離れることに不安がないわけではないが、しかし今は休息を渇望する心がそれに勝る。


 ふらつきつつもようよう壁際まで辿り着いたカミラは、大息をつきながら椅子に腰かけた。ああ、なんてやわらかで座り心地のいい椅子だろう。さすがはお貴族様のお屋敷のお椅子様、一度座ったらもう二度と立ち上がりたくない、そんな思いさえ抱かせる。神か。もしやこの椅子は神々が創り給うたのか。ありがとう神様愛してる。


 ……それにしたところで、本当になんと贅沢な宴だろう。

 会場のしつらえはもちろんのこと、各円卓に並んでいる料理の一つを取ってみても、カミラが逆立ちしたって払えない額のお金がかかっていることは容易に知れる。見渡す先にはそうした酒や料理を当然のように口へ運び、舌鼓を打っている貴族たち。この光景こそが彼らにとっての〝当たり前〟。


 だけど彼らの中の一体何人が、今の黄皇国には一欠片のパンにすらありつけない民がいることを知っているのだろう。

 国の現状を知っていたらこんな贅肉だらけの晩餐会、参加することさえためらわれるのではないか。カミラには貴族の事情とか機微とかそんなものは分からないけれど、自分なら招待状をもらったところで破り捨てる。

 仮に無理矢理参加したって、あんな風に笑って談笑に耽る気分にはなれないはずだ。春を祝う宴で終始沈鬱な表情というのもどうかとは思うが、少しは贅沢を憚る心があって然るべきだろう。


 しかしここにいる誰からも、カミラはそうした誠意や謙虚さを感じない。彼らは心からおいしい料理を楽しみ、舞踏を楽しみ、歓談を楽しんでいるように見える。

 ……自分たちの国がこんな状況なのに、どうして笑っていられるの。

 カミラは胸の内がゆっくりと暗闇に侵食されていくのを感じた。

 かつて聞いたフィロメーナの言葉が甦る。


 カミラ、あなたにも見えるでしょう?


 民の血で真っ赤に染まったおぞましい屋敷と、そんな屋敷で笑って暮らす亡者の姿が――


「シニョリーナ」


 と、ときに至近距離から声がして、カミラはふと顔を上げた。

 そして飛び上がりそうになる。だってほんの数瞬うつむいているうちに、いつの間にかあたりを大勢のトラモント紳士たちが取り囲んでいるではないか。


「え……え!? あ、あの、私……ミレーナ、ですけど……」

「ああ、これは失礼。シニョリーナというのは我が国の言葉で〝お嬢さん〟という意味でしてね。先程ヴィルヘルム殿からお話を伺ったのですが、何でもミレーナ嬢はかのテペトル諸島のご出身だとか。噂には聞いていますよ、海と風と岩に守られた、美しきテペトル織りを織り出す島々の話は――」


 ……とんでもないことになった。

 カミラを囲んだ若き貴公子たちは、いずれも瞳を爛々とさせながらあれこれと話を振ってきて、カミラはそこから逃げられなくなった。

 いや、そもそも壁を背にした状況で目の前を半円状に囲まれているから、今のカミラに逃げ場なんてない。ヴィルヘルムに助けを求めようにも貴公子たちの壁は厚く、今現在彼がどこにいるのかさえ分からない。


 なんということだ。宿を出る間際、ジェロディに忠告されたことが早くも現実となってしまった。

 曰く、黄皇国の紳士たちは隙きあらば女性とお近づきになろうとするから気をつけろ、と。


(いや、そりゃ、トラモント人の男が女たらしなのは知ってたけど――)


 それにしたってこの圧迫感はなんだ。たった一人の女に群がりすぎじゃないか。ああそうか物珍しいのか、遥か遠いテペトル諸島の出身だなんて言ったから?

 だとすればしくじった。こんな苛烈な質問攻めに遭うなんて聞いてない。ヴィルヘルムはとにかく笑っていれば大丈夫と言っていたじゃないか。

 なのに笑えば笑うほど男が群がってくるんですけど? おかげで表情筋が限界なんですけど? 逃げ出したいんですけど?


「おい、前の曲が終わったぞ」


 と、不意にどこかの誰かが言った。途端に舞踏室の一角から盛大な拍手が上がり、彼らもそちらを振り返る。

 どうやら楽団の演奏する舞踏曲が一曲終わったらしかった。会場には先程から途切れることなく色んな曲が流れていて、彼らが演奏している間なら誰でも舞踏の輪に加わっていいらしい。

 まあ、もっともカミラには関係のない話だ。自分には舞踏の心得なんて五分の一アレーほどもないし、今は卓越した楽師たちの演奏にゆっくり耳を傾けている余裕すら――


「もうすぐ次の曲が始まる」

「いい頃合いだな。ミレーナ嬢、いかがでしょう? 次はぜひ私と一曲」

「……は?」


 と、カミラは思わず間抜け面を晒してしまった。ところが貴公子たちはそんなことなどお構いなしに、三方からずずい詰め寄ってくる。


「奇遇だな、ブルーム卿。実は私も次はミレーナ嬢をお誘いしようと思っていたところだ。というわけで一曲いかがですか、シニョリーナ?」

「おいおい君たち、抜け駆けとは感心しないな。ここはまずミレーナ嬢と踊りたい者が残って、その中からご本人に選んでいただくべきだろう」

「なるほど。さすがはユライアス卿、それならば至極公平だ」

「ではそうしよう。我こそはミレーナ嬢と一曲舞いたしという者は――」

「い、いやいやいやいや、あの、ちょっと待って下さい? お、お誘いは嬉しいんですけど私、舞踏なんて踊ったことな――」

「ご安心下さい、シニョリーナ。我々トラモント紳士は皆、どんなに舞踏が不得手なご令嬢でも完璧にリードしてみせます。それができないような者は、恥ずかしくて夜会になど顔を出せませんよ」

「まったくシャルウェット卿のおっしゃるとおりです。というわけで麗しの貴女と踊る栄誉を、どうぞわたくしに授けて下さいませんか?」

「いいや、ここは俺が」

「いやいや、私が」

「わたくしですよね、シニョリーナ?」

「いいえ、ここはぜひともこの私に――」


 いやいやいやいやいやいやいやいや。

 おかしいでしょ。なんで私が誰かと踊ること前提で話が進んでるの?

 私は踊れないって言ってるし、そもそも国がこんな状態なのに貴族ライフを満喫してるあんたらなんかと馴れ合いたくないの。分かる? 分かるよね? 分かって下さいお願いします。


 カミラは壁際に追い詰められたまま、場違いなほどやわらかな椅子の上で固まっている他なかった。その間にも貴公子たちはカミラに詰め寄り、我も我もと名乗りを上げている。

 ああ、どうしよう。こいつらみんな燃やして逃げたい。逃げてもいい? 許されるよね? だってこいつらは民の痛みを知ろうともしない、亡者の家のボンボンども。だったら――


「――失礼、諸君」


 そのときだった。今にもカミラの神術が炸裂するかに見えた刹那、突如人垣を割って現れた人物がいた。

 そいつはずかずか人を押しのけてやってくると、いきなりカミラの手を掴む。

 そうしてぐいっと引っ張られた。驚いている暇もない。

 カミラを引きずるように貴公子の群から連れ出したのは――まったく見知らぬ、長髪の男。


「彼女は私と先約があるので、申し訳ないが諦めてくれたまえ。この埋め合わせはいずれまた」


 そう言って薄く笑ったその男は、菫色のをしていた。


 呆気に取られた貴公子たちを前に悪びれもしない、大胆不敵な犯行である。



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