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64 信じられるものは?

 アルベルトの顔から笑みが消えた。



 それは、不思議な形のアザだった。

 頭をよぎったのは、あの日アデルと見た中央広場の掲示板。そこにあった捜索願の文言が鮮明に脳裏に浮かぶ。


「………」

 

 いくつかの花びらに分かれたバラのようにも見えるその赤いアザを前に、アルベルトの呼吸は次第に浅くなる。


「……ははっ……僕は何をバカな事を……っ!」


 乾いた笑いと共に、己の想像を強く否定する。


 でも……。


 どんどん早く、そして大きくなる胸の鼓動。

 震える手でそっと幼子の瞼を持ち上げた。青みがかった白目の中央にまるで宝石のように輝く瞳。吸い込まれそうなほど美しいその瞳から、アルベルトは反射的に目を背けた。


 赤子をそっとベッドに戻し、両手で顔を覆う。


 その色はアルベルトがよく知る色だった。

 自分ともセシリアとも違う、奇しくもそれはアデルと同じ榛色(ヘーゼル)。あの張り紙に書かれていた赤子の特徴とも一致する。


「違う……」


 馬鹿げた考えだと、アルベルトはすぐさま打ち消した。

 自分はこの十カ月、セシリアが大変な思いをして毎日を過ごしていた事をよく知っている。この目でずっと見守って来たはずだ。


 つわりの頃の彼女はとても食が細く、心配のあまり自身も食事が喉を通らなかった。腰が痛いとさすってやった事も一度や二度じゃない。この数か月は大きなお腹を抱え、辛そうにしていたのもずっと見てきた。彼女が妊娠していた事は明らかだ。それなのに……。


(本当に?)


 心の中で誰かが囁く。


(お前は本当に、彼女をずっと見てきたのか?)


 アルベルトはもう一度、冷静に自身の記憶を顧みる。


 妊娠初期の彼女は、気分が悪いと食事を前に席を立つ事が度々あった。眠さとだるさを訴え、勉強の時間以外は部屋にこもる事が多かった。

 性交渉に関しては、妊娠の初期は流産の可能性があるからと医者に止められていた。安定期に入った頃は家と騎士団の仕事に追われ、家にはあまり帰れなかった。そして出産前、セシリアはオルコットに里帰りし、ほとんどの時間を離れて過ごした。


「………」


 見る度に大きくなっていくお腹を、いつも幸せな気持ちで見つめていた。だがアルベルトは、結婚してから一度も、彼女が自身の前で服を脱いだ姿を見た事がない。

 アルベルト自身、自分が他の男たちに比べ性欲が薄い事を自覚していたため、それがおかしいとは思わなかった。だからセシリアとの結婚生活もキスや軽いスキンシップだけで問題はなかった。それに怖かった。再び彼女を傷つけてしまうのではないかと……。

 だから気づかなかった。


 彼女との交わりは、記憶がない最初の一度きりだった事に。


 あの日の記憶は、今も曖昧だ。

 アデルの死に打ちひしがれ深酒に酩酊し、酒場に入った後の事は何も覚えていない。

 酒場にはいつものように一人で入った。誰かと一緒に飲んだ覚えはない。そもそもセシリアはいつからそこにいたのだろう。


「僕は……」


 疑念がまるで、泉のように湧き上がる。

 たった一度の行為で授かる命はもちろんある。責任逃れの様な事は言いたくはないし、するつもりもない。けれど……。

 不意に殿下に言われた言葉の数々が頭をめぐる。



「僕は……本当に彼女を抱いたのか……?」




 その時、


「お待たせしてごめんなさい。()()()()()


 呆然と立ち尽くすアルベルトに、後ろから声がかかった。間違うはずもない。セシリアの声だ。


 落ち着け、と自分自身に言い聞かせる。


 これまでの憶測はあくまで自分の想像であり、子どもの事はきっと単なる偶然でしかないだろう。そうだ。瞳の色が違うからってそれが実子でない証拠にはならない。アデルがそうだったじゃないか。お前はあの子を、アデルのような辛い目にあわせるつもりか?


 アルベルトは呼吸を整えると、口元に笑みを作った。そうして振り返る。


「どうしたんだ、セシリア。アルベルトなんて珍しい呼び方し……て…………」


 思わず声を上げそうになるのを、アルベルトはぐっと堪えた。



 そこに居たのは、セシリアではなかった。


 ジンジャー色の髪にヘーゼルの瞳。身に纏うのは、自身が五年前のパーティで婚約者に贈ったものと、全く同じデザインのラベンダー色のドレス……。




「…………ア……デル………………?」




 目の前でほほ笑む淑女(アデル)の顔に、アルベルトはただ驚愕した。








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