35 クライバー公爵領
「……ル。……デル………。おい! アデル!!」
大きな声で名前を呼ばれ、アデルはビクリと我に返った。
「あ……なんですか? ベルノルトさん」
「お前…それどうすんの? 鳥にやんの?」
「え……? あ……」
皿の上には一口大に千切られ、こんもりと積まれたロールパンの山。
「わ…っ! ごめんなさい…っ! 食べます食べます!」
慌てて口の中に放り込む。
「大丈夫ですか? 体調が悪いようならもう一日日程を伸ばしても構いませんよ?」
アウグストが心配そうに覗き込む。
「いえ! 全然大丈夫です!! 問題ありません!」
昨夜。
テオからの思いがけない告白を受けて、アデルは一睡も出来なかった。ボーッとした頭で朝食の席につき、目の前にあったパンに手を伸ばした所まではなんとなく覚えている。
「出発は昼過ぎだ。工場のある公爵領までは馬車で二時間もあれば着く。俺たちは商会に顔出して来るからそれまで休んでていいぞ」
ベルノルトはそう言ってくれたが、寝不足なだけで体調も具合も悪いわけではない。
「いえ、私も行きます。昨日新しい図案をいくつか描き上げたので、もしよかったら見て頂きたくて」
眠れないまま横になっているのも苦痛で、眠くなるまではと刺繍の図案作成に取り掛かった。結果余計に目が冴え、気がつけば朝を迎えていたのは自己責任の甘さ。
「まさか、徹夜で描いていたんですか? すみません、私が無理を言ったばかりに……」
「ち、違うんです! 昨日はどうしても寝付けなくて……。気が付いたら朝になっていただけで…」
この視察に来る前、アデルが持っていたハンカチを偶然見たアウグストが、その刺繍の図案に興味を持った。自身のデザインである事を告げると大層驚き、描きためてある物があれば見せて欲しいと言われ、今回の視察に持参した。
「無理はしないで下さいね。と言ってもその図案、私も早く見たいです。商会の皆も褒めてましたよ。うちの織物に採用したいと口をそろえて言ってましたから」
「本当ですか? そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございます」
これまで刺繍は、ただの趣味でしかなかった。誰にも知られず、自分の世界で楽しむためだけのモノ。だからアルベルトや兄にもほとんど見せたことはなかった。自分と彼の母の作品を比較し、落ち込み、奮い立ち、努力する。それはすべて、自分の中で完結するものであり、それだけが唯一アデルの楽しみだった。外に出すなんて考えたこともなかった。
ラウルのおかげでそんな自分の欠点に気づき、アウグストや商会の人たちのおかげで自信が持つことができた。自身を変えるきっかけを与えてくれたみんなには感謝しかない。
「なんだなんだぁ? どうせ興奮して寝れなかったんだろ? お子ちゃまだなぁ、アデルは」
ベルノルトの揶揄いに、アデルは再び昨夜の事を思い出す。
「興奮……っなんてしてません!!」
「……? 遠出は初めてだって言ってたじゃねーか。何でそんなに怒ってんだ?」
「遠出……っ あ、そっち……っ?!」
「どっち?」
喋れば喋るほど、ドツボにハマっていく自分がいる。
「に、荷物まとめてきます。ごちそうさまでしたっ」
逃げるように席を立つアデルを、二人は首を傾げて見送った。
■◇■
王都を出発して二時間余り。
アデルたちは無事、クライバー公爵領へと到着した。
今回の滞在先は、工場に併設されたゴドウィン商会の保養所。前乗りしていた工場長たちとの打ち合わせが終わる頃には、日はとっぷりと暮れていた。
「工場の視察は明日にしましょう。今日はゆっくり休んでください」
アウグストはそう言うと、ベルノルトと共に領主の屋敷へと向かうべく慌ただしく準備を始めた。
商会長のゴドウィン氏とクライバー公爵は旧知の仲であり、商会設立時からの出資者でもあるそうだ。今回ゴドウィン商会が落札したキューナの取引はソアブルでもかなり話題になっているらしく、食事がてら話が聞きたいと打診されたのだそう。正装をした二人の姿に、周囲の女性たちから感嘆の声があがる。今まであまり意識したことはなかったが、背も高く、それに値するだけの容姿を持った二人に世間の関心が高いのも頷ける。アデルはこの日初めて、二人への認識を改める事となった。
食事を済ませ、与えられた部屋に戻る。今回の部屋は皆と同じ、極々一般的な広さと内装の部屋だ。
小さいけれど各部屋ごとに浴室も完備されていて、ゴドウィン家の財力をうかがわせる。昨晩の事は今日一日忙しくしていたことで、平常心を保てるくらいにまで落ち着いた。寝不足だった事も相まって、アデルは早々に眠りに落ちた。
翌日。
朝からのあいにくの雨で、空気はやや肌寒い。リムウェルの首都より北に位置するクライバー領では、夏の朝でも気温はこのくらいが普通だという。
正午過ぎまで工場の全体視察に通訳として帯同したアデルだったが、午後は再び自由時間を与えられてしまった。遊んでばかりでは心苦しく今度こそ手伝うと申し出たが、あとは荷積みをするだけだと言われ、黙るしかなかった。
「おおっ! 結構にぎわってんな。やっぱすごいわ、クライバー領」
ベルノルトさんが屋台で買ったポテトを頬張りながら感嘆する。
「ついてきちゃってよかったんですか?」
アデルが街に向かうと言ったら、なぜかベルノルトもついてきた。
「お前がまた変なのに絡まれるかもしれないからな。兄なら当然の事だろう」
まだ続くのか…と苦笑する。
「テオもラウルも変なのじゃありませんよ。二人ともいい人です」
「悪い奴だとは言ってねーよ。でも、なんつーか…あいつらはなぁ……」
「……?」
「うーん…うまく言えねーけど……なんかヤバい感じがする」
野生の勘、とでも言うのだろうか。確かに彼らには謎が多く、触れてはいけない何かを感じる事が多々あった。でも……、
「大丈夫ですよ。彼らとはそこそこ長い付き合いですが、信頼できる人たちです。人を騙すような人間ではありませんから」
これまで何度も、彼らには助けられた。アデルが新たな道を進むことができたのも彼らのおかげだ。
「まあ、いいや。これからは俺もいるからな。困った事があれば何でも言え。なんせ俺は…」
「お兄様、ですよね?」
「おう!わかってんじゃねーか」
ニシシッと、人好きのする笑顔でベルノルトが笑う。アデルもつられて笑った。
その時だった。
キャーッという女性の悲鳴が上がり、少し先の路上がどよめく。何事かとベルノルトと顔を見合わせると、その中から一人の男が勢いよく飛び出す。
「誰かーっ!! その男捕まえてーっ!!」
こちらに向かってくる男と、その男を追う若い女性。
男の腕には男性が持つには似つかわしくないカバンが抱えられている。
「アデル、危ないからこっちに……って、アデル?」
巻き添えになる事を恐れ、通行人たちは皆我先に左右に散る。男の前には道が開け、正面にはアデルただ一人が残される。そして…、
「どけーーっ!!!」




