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21.黒鹿色の再会

完全に眠ってしまったティアを抱えながら、私は雨の音を聞いて夜をすごした。ティアの髪を撫でながら頬や額だけでなく目頭や鼻先にも唇を寄せる。もちろん唇にも。その時間はなんとも幸せで、意外にもあっという間に朝は来た。まだ暗いうちに雨は止んでいる。隙間から差し込むまだ柔らかい日差しが、澄み渡る空を思わせる。夜が明けてまもなく、小さな身震いと共にティアが目を覚ました。

「起きたのか?」

「はい。ごめんなさい眠ってしまって…。」

「いや。おはよう」

「おはようございます。」

しっかりと固定していた腕を外すと、彼女はいそいそと立ち上がった。昨日の親密さが嘘の様に、朝の彼女はよそよそしい。それに少しショックを受けながら、朝の支度を整える。生乾きの服は肌に張り付いて気持ち悪いがそんな文句は言っていられない。外に出ると朝日が目に痛い。時間が経つにつれ背中の痛みは増していた。やはり昨晩は酒の効果で和らいでいたのかもしれない。けれども昨晩と違って、焦る気持ちは無く、その分だけ背中の怪我に対しても暢気でいられた。気持ちが前向きな分、痛みには鈍感になれる。

方向を確認して歩き出す。ほどなくして山道を見つけた。記憶と照らし合わせて、問題なく歩く事ができるば夕方までには下山できるはずだと見当をつける。時折木々の間に気を配るが、デロリスもカシューも見当たらなかった。人に飼われていた馬なのだ…昨晩で獣に襲われてしまっていても不思議は無い。どこかで生きているにせよ、連れ戻すのは諦めなければならない。私達が生きて下山するのが精一杯で、馬の捜索など出来そうもないのだから。

山道は昨日と同じように、緑色の光が落ちていた。けれど雨に濡れて色を濃くした地面はその輝きも飲み込んでしまっている。段々と気温が上がってきて、周囲はむせ返るような木々の匂いに満ちていた。昨日の雨の匂いも微かに感じられる。木の葉が風に揺れてざわめき、その合間を小鳥のさえずりと虫の声が埋めている。私達は無言で、繋いでいる手だけがお互いの存在を示しているようだ。ふと遠くから馬の足音が聞こえてきた。警戒したのもつかの間、聞き慣れた声が耳に届く。

「アデルバート様!奥様!」

男の声をこれほど嬉しく思ったのははじめてだ。


お互いの無事を喜んだのもつかの間、状況確認後すぐに移動をはじめようとして、私に用意された馬はデロリスだった。

「デロリス!」

思わず声を上げる。もう2度と会えないだろうと思っていた。なのに彼女の黒鹿毛はいつも通りの艶やかさだ。私に鼻先を押しつけて甘えてくる様子にもおかしいところは無い。ティアも隣でデロリスの鼻を撫でながら再会に感激している様だ。更に、カシューも無事だったと知らされ私達は興奮した。諦めなければと自分に言い聞かせていただけに、吉報に心が弾む。意外にもティアはカシューを恨んだりはしていないようだった。今回の遭難のきっかけになった馬など処分しろといっても不思議ではないのに。でも、私はもう彼女の意外さに慣れた。2人でデロリスに乗って麓を目指す。お互いからだが触れ合う事に少しの気恥ずかしさはあっても戸惑いはない。一晩の放浪は私達の距離を確実に狭めたらしい。

思った以上に麓に近い位置にいたらしく、程なくして小さな村にたどり着いた。他方に捜索に出ていた護衛団も既に戻っているようで、皆揃って私達を出迎えた。疲れを隠せない様子に寝る間も惜しんで捜索してくれていたのだと分かる。

「奥様、ご無事で…っ。」

アグリははらはらと涙を流してティアに縋りついた。

「アグリ、あなたも。心配かけてしまってごめんなさい。」

「もったいないお言葉ですっ。」

それだけ言うと言葉を失って泣き崩れてしまった。かなり心配してくれていたらしい。アグリはティアを抱き締めて離さないのだが、ティアは汚れが移ってしまうと必死で離れたがっている。ティアがあまりにも困ってみえて、仕方ないので助け船を出す。

「アグリ、私もいるのだが?」

「旦那様、そうでした…旦那様もご無事で何よりです。」

それまでの涙を引っ込めてアグリはティアから離れると、ついでと言わんばかりの投げ遣りな声で、しかし丁寧に腰を折って挨拶をした。…私に対しては心配よりも怒りの感情の方が強いらしい。

「私に抱擁はないのかい?」

アグリの怒気に気付かない振りをして誤魔化そうとすると、怒気が更に膨らんだ気がする。失敗したと思うがもうどうしようもない。

「なんならもう一晩、山を彷徨われますか?」

そのセリフに私はアグリの本気を感じて冷や汗をかいたのだが、周りは戯れ合いに聞こえたのか、明るい笑いが起こった。アグリはそれに毒気を抜かれたらしく、ぐっと姿勢を伸ばして気合いを入れ、きびきびと働きはじめた。


貸してもらった村の空き家にたどり着くと護衛達は既に夜営の準備をしていた。宿もない村に留まる事になって、アグリの仕事は山積みだった。護衛達も決められた仕事をするのだが、男の仕事は雑である。女性の細やかな気遣いと感性が至る所で求められていた。アグリは一先ずティアの身支度を手伝おうとしたが、ティアはそれを断った。

「私もおなかがすいているの。早くおいしいご飯を食べたいわ。お風呂は一人でも入れるから大丈夫。」

そう言われてはアグリも食事の準備に加わらない訳にはいかない。ティアは人を動かすのが案外上手い。少なくとも、アグリの性格を良く理解している。

すでに風呂の準備が整っていて、私はティアに先に入ってもらうことにした。もちろん少しでも早く身体を温めて欲しかったのだが、家に入るなり倦怠感に襲われ、風呂どころではなかった。数分でも良いから横になりたかった。何度かの譲り合いの後、折れてくれたのはティアだった。私の雰囲気から先に入らせるのは難しいと判断したらしい。

ティアが奥に消えると、私は飲み物を持ってきたマーカスにマントを借りて、人払いを命じた。ティアが風呂に入っているのだ、水音さえも他の男に聞かせなくは無かった。我ながら馬鹿馬鹿しいほどの独占欲に内心自嘲する。近くにあったソファーにマーカスのマントをかけると、私はその上に座った。マーカスの持ってきた果実水を飲む。どこか苦味のある果実水で喉を潤すだけで飲むのを止めた。本当ならば、たくさん飲んだほうが良いのかもしれないが、味の違うものを持ってこさせるのも億劫だった。部屋の奥からはティアが鼻歌交じりに風呂に入る音が聞こえてくる。あぁ、ちゃんと無事だった。そう思うと体中から力が抜けていく感じがした。私は体の重さに耐え切れずにソファに横たわる。こんなところをアグリに見られたら、何を言われるか分からない。そう思うけれども、次第にまぶたが落ちてきてしまう。少しだけ眠ろう。昨夜は一睡もしていないのだ。少し寝て、風呂に入ったら、医者に傷を見せたほうがいいかもしれない。肩は相変わらずズキズキと痛む。確かに自分の体が痛んでいるのに、どこか人事のようにも思う。ぼんやりとした感覚がなんとも気持ち悪い。私は目を閉じてティアを待った。勢い良く湯の流れる音はひどく心地がいい。

自分の体調には無頓着なアデルさんでした。


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