第038話 『緊急事態』①
「ああ、カイン様! やっと戻ってこられましたか!」
ノーグ村のすぐ隣、小高い丘の頂にある朽ち果てた屋敷から降りてきた『野晒案山子』の一党たち。
その中にカインの姿を確認して、村の入り口に立っていた大人の男が走り寄って声をかける。
たしかに『転移魔法陣』の前で座り込んで、あの日シロウとカインになにがあったのかを聞いていたため、いつもの帰還時間より気持ち遅くなってはいる。
だが「やっと」といわれるほどの遅延ではないし、常であれば誰かが『野晒案山子』の帰還を待ち構えているというわけでもない。
つまり何かがあったのだ。
その男の丁寧な言葉遣いは村長の息子であるカインに対して阿っているというよりも、心の底から尊敬している気配を感じさせる、誠実な態度に見える。
男の名前は、行商人レアル・ハーゲン。
数年前ノーグ村に流行病を持ち込み、ある意味においてはすべてが始まる嚆矢を放ったともいえる人物。
だが今では『ハーゲン商会の会頭』と呼んだ方が正しい。
身に付けている衣服も、一目でそれとわかるほどに上等なもので揃えられている。
これは自身の虚栄心や欲を満たすためだけではなく、主人の前に出る際にみっともない格好でいるわけにはいかないという、商人の矜持も多分に含まれている。
表向きは迷宮都市ヴァグラムにおいて、中堅商人にまで瞬く間に成り上がった成功者。
だがその実態は『野晒案山子』専属の商人であると同時に、メダリオン大陸全域に影響を及ぼす裏流通ネットワークの中核人物として君臨している。
今や『ハーゲン商会』といえば、裏の社会に近しい者ほど震え上がるほどの看板なのだ。
本人はよほど大きな商談でもない限りノーグ村に常駐していることが常となっており、正体を知らない商人仲間からは変わり者と看做されている。
それでもたった数年で一介の行商人から、大都市である迷宮都市ヴァグラムに立派な店を構えるまでに至った、商人としては相当の成功者であると看做されている。
実はそのほとんどすべての実績がカインのおかげとなれば、嘘偽りなく丁寧な態度を取ることは無理なからぬこととも言える。
あの日からずっと変わることなく、レアル・ハーゲンにとってカインは揺ぎ無く唯一無二の主なのだ。
レアルはカインを尊敬している。
まだ子供でありながら名うての商人たちのみならず、裏社会の要人ですら己にとって都合のいいように動かせるカインは、商人として見習いたいことばかりである。
だがそれ以上に怖くもある。
あれからたった数年でカインが積み上げてきた実績は、知恵、知識があれば可能という類のものではない。
必要なものは圧倒的な力。
莫大な資金力も、暮明で行使される容赦ない暴力も、一撃で沈黙させ得るだけの絶対の力。
それがなければ、大商人や裏社会の組織を膝下に組み敷くことなどできはしない。
レアルにとってはもう見慣れているが、仮面を被ったカインとの商談の開始と終わりで、相手の態度が笑うしかないくらいに豹変していることなど日常茶飯事である。
極稀に最初から彼我の力の差を理解している、賢者と称すべき者もいるのだが。
それはカインがその力を、取引相手に見せることによって発生する。
それだけで相手は二つのことを嫌でも理解するのだ。
一つはその力に寄り添うことによって己が得られるであろう、膨大な利益を。
もう一つはカインがその力を自分たちに対して晒したということは、自分たちは死によってしかその力の呪縛から逃れることは叶わないのだという、厳然たる事実を。
だから皆、精神的には這いつくばるようにして「よい取引」をカインに約束するのだ。
そしてそれは彼らがカイン以上の力に晒されるまで、反故にされることなどなく順守される。
商談というものの本質を体現したかのようなそれに、アレンは恐怖を感じながらも心酔している。
そのアレンはなんの心労かまだ三十半ばの年齢で薄くなった頭髪でありながら、ノーグ村という田舎に居ながらにして大商人としての貫禄を漂わせる大の大人である。
そんな男が12歳の少年に臣下の如き礼を取っているというのは本来奇異に映ってしかるべきであろうが、カインの容姿と身に纏う空気も相まってそうあることが当たり前のように見える。
少なくともノーグ村に暮らす人々や、迷宮都市にあるハーゲン商会本部で働く者たちにとっては、もはや見慣れた光景なのは確かだ。
「おちついてレアルさん。なにがあったのかを話してもらえますか?」
「すみません。猟師のタブラ様が森で小鬼の群れを見たと」
大の大人、それも大商人ともいえる相手が自分に取る丁寧な態度をごく自然に受け流し、慌てているらしいレアルに何があったかを確認するカイン。
一呼吸して謝罪をし、カイン以外の党員たちにも頭を下げた後、端的に問われたことに答えるレアル。
カインの返答に出てきたタブラとは、腕のいい猟師の名前だ。




