第030話 『嚆矢濫觴』①
嚆矢揺籃の日。
その日、ノーグ村は絶望に支配されていた。
メダリオン大陸北西部、小国エメリア王国に属する辺境領シュタインアルク。
この時代には最重要経済拠点と看做される迷宮都市のひとつ、『黄金迷宮のヴァグラム』を自身の領地内に持つ大貴族、シュタインアルク辺境伯ハインリヒ・エイン・ヴォクトールが支配する、軍事大国フレイム帝国との緩衝地帯。
とはいえ睨み合う、というにはその緩衝地帯は広大すぎる。
ヒト同士が争うにはいまだ未開の土地が広すぎて、遅々とした入植による支配地域の拡大を進めるも、その地を外敵――野獣や、ときには魔物から防衛することさえ満足にできていないのが現状なのである。
この時代の辺境領とは、師を起こしてまで争うだけの利益を生み出す土地ではまだないということだ。
よほどの余裕を持ってでもいなければ、利益も生まないのに同族同士で殺し合いをする物好きなどそうはいないということらしい。
倉廩実つれば則ち礼節を知り、衣食足れば則ち栄辱を知る。
礼節、栄辱を知るということはつまり、各々の矜持のために殺し合うことも辞さない、生物の本能とはまた別のヒト特有の業に囚われるということなのかもしれない。
そんな救えない理由で殺し合うのに比べれば、まだしも膨大な利益を生むであろう迷宮や遺跡、魔物領域の一つでも発見され、その利益を争っている方がいくらかマシとすら言えるだろう。
争いの原因が利益の奪い合いであるならば、落としどころを互いに探ることも可能なのだから。
尤もそれも、運よく人の手に負える域の魔物しか湧出しないものに限られる。
そうでなければそれはないも同じどころか、ヒトの世界を脅かす『厄災の地』として遠巻きに監視を怠らないようにすることしかできない。
それが『魔法』を逸失してしまった今の時代における、ヒトという種の立ち位置なのだ。
そんな辺境領に点在する村の一つがノーグ村である。
辺境領にある開拓村の中では最古に近い歴史を持ち、ゆえにそれなりの規模と人口を持ってはいる。
だがそこに暮らす村人当人たちですら「なんだってこんなところに村を?」と思うほど人里と隔離された僻地にポツンと存在しており、それゆえに外との接触が極端に少ない村でもある。
そんな村を絶望が支配する理由。
それは最も近い位置にある迷宮都市ヴァクラム近郊で発生、拡大した流行病が行商人を介して村に侵入し、栄養状況もよくなければ衛生環境がいいはずもない辺境の村で、思うが儘に猛威を振るったからだ。
誰に悪意があったわけでもない。
ノーグ村という寒村が辺境の厳しい冬をなんとか越すためには、都市部から年に数度訪れてくれる行商人は必要不可欠だ。
病をおして来てくれたことに感謝こそすれ、恨む筋合いのものではない。
来てくれなければ病で死ぬ村人の数が、飢えで死ぬ村人の数に置き換わるというだけなのだから。
行商人だってそうだ。
「儲けすぎ」とまではいかないまでも、ノーグ村まで行商する経費込みで十分な利益が出る価格設定でも喜んで取引してくれる優良顧客を失えば、今年はなんとかしのげても来年には間違いなく廃業の憂き目にあう。
己の利益はもちろんのこと、寒村の生命線としての自負も持ち、良かれと思ってこそ病の身をおしてまで行商に来たのだ。
その病で村が滅ぶのは自身の身の破滅と同義であり、そんなことを望んでいたはずもない。
だが幾度も振られた賽子はすべて悪い目を示し、状況は最悪に陥った。
村も行商人も、流行病という厄災の恐ろしさを甘く見ていたとしか言いようがない。
秋の収穫期が終わり、冬籠り前に行商人が訪れたことは例年通り。
だが冬に向かって加速度的に寒くなってゆく辺境の地で、持ち込まれた流行病が猛威を振ることは自明の理である。
村で重症化し倒れた恩義のある行商人を、当然のこととして村は手厚く看護する。
ヒトとしては間違いなく正しいその行動は、流行病をそう広くもない村中に蔓延させるという意味においては最悪の選択となった。
経済的に栄えており、富裕層も相当な数が存在するのが『迷宮都市』であるヴァグラムだ。
その規模に応じて街の大部分はノーグ村に比べれば清潔であり、発展した物流網に支えられて食料や薬の流通も多い。
そんな大都市であっても猛威を振るう――大部分は貧困層であったとはいえ、裕福層や、中には冒険者すらその犠牲者に含める流行病が辺境の寒村に伝播すればどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。
老若男女を問わずみな罹患し、その流行病の特徴である高熱と関節痛に蝕まれ、普通に立つことすらもおぼつかなくなる。
迷宮都市でさえ多数の死者を出し、未だその終息すら見えていない凶悪な病が辺境の寒村に伝播すれば、その村そのものが滅びさることなどこの時代においてはそんなに不思議なことではない。
そしてまさに今、ノーグ村はその瀬戸際にまで陥っている。
十日にも満たない期間のうちに、絶望するしかない状況まで一気に進行したのだ。




