第026話 『鬼が嗤う話』③
現代の冒険者とは、その黎明期のように荒くれ者たちが小汚い冒険者ギルドに集い、こなした依頼で得た金で呑んだくれているようなイメージとは程遠い。
確かにそういう無頼を気取る者もまだごく少数おりはするものの、その総体としては冒険者のイメージといえば選良であろう。
美しく整えられた最新の武装に身を包み、ヒトの域を超えた戦闘力をその身に宿す。
力だけではなく知識も豊富であり、自分たちが任意で選ぶ依頼だけではなく、冒険者ギルドが発効する正式任務を受けて市井の困難を解決したりもする。
もちろん魔物との戦闘を経てなお美しいままの武装などありはしない。
だが本来の妥当な価格など無視して、冒険者であれば依頼で得られる報酬の一部で毎回新調できる程度の価格で提供されるため、ほとんどの者は使い捨てのようにして使っている。
それらの装備はすべてその国の近衛兵が身に付けるものと同等、あるいはそれ以上の技術、品質をもって最新を更新し続ける一級品である。
国家がそれだけの特別扱いをしてもなお、得られるもののほうがずっと多い。
迷宮を攻略するというのは、いまや明確な経済活動となっているのだ。
だれもが憧れる、強く、その力を以てヒトの世に貢献するという力ある者の義務を遂行できる、誇りとやりがいのある仕事。
それが現代における『冒険者』という職業に対して、ほとんどの民衆が持つ認識なのである。
そうなったのはもちろん、各国の王立学院が冒険者養成学部を設立したが故だ。
国家肝入りのため潤沢な予算を持ち、入学試験に合格さえすればすべて無償で卒業まで衣食住も保証される。
ここ数十年で蓄積された迷宮攻略による経験と知識の情報を惜しみなく与えられ、少なくともヒトに管理された迷宮、遺跡、魔物領域の浅い階層で命を落とすことなどない程度には鍛え上げられる。
今の冒険者は必ず在学中に三度の『成長』を経てから卒業する。
なぜならばそれが進級と卒業の条件になっているからだ。
入学は教会による『聖別』が受験資格とされ、一応形だけ行われる試験を以て認められる。
二年生への進学は最初の『成長』を以て、三年生への進学と卒業も同じく『成長』を成し遂げることによって認められる。
それ以外の座学や実地における単位など飾りに過ぎない。
それは戦闘力さえあれば、知識や教養などどうでもいいと看做しているという意味では決してない。
入学時が貴族の子弟であろうが、辺境の孤児院出身であろうが、一度でも『成長』を経た者は、頭脳もそうではない凡人のそれをはるかに凌駕する。
スタート時点で少々後れを取っていたところで、最初の『成長』――二年生に進級できた者にとって、個人差があるとはいえ座学などあっとういう間に習得可能な程度のものになるからだ。
ごく稀にそうでない者もいるが、それらの者であっても卒業までにはまず同じことになる。
二度の成長、その双方で『知力』が一つも伸びない可能性は限りなく低いのである。
稀にいるそういう存在が残念かといえばその逆である。
人並の知能を備えた上で他の冒険者と比べて知力以外が伸びることになるので、突出した戦闘力を得ることがほとんどだからだ。
そうした前提をもとに築き上げられた現在の『冒険者像』は、憧れの対象としては十分以上であることは言うまでもない。
まだ年端もいかぬ街の子供たちに将来の夢を聞けば、教会が無料で行ってくれる判定儀式『聖別』によって冒険者となれる才能を認められ、まずは王立学院の冒険者養成学部に入学することだと答える者が大多数だろう。
入学さえできればあとは選良路線一直線とくれば、それも当然のことなのだ。
また生まれではなく、己の力ひとつで成り上がれる道があるという事実は、国家にとって民衆を統治する上で損になるものではない。
その道がいかに狭く、ある意味貴族に生まれるよりもすっと神に愛される必要があるとしても、民衆はそんなことになど頓着しないのだから。
わかりやすい特権階級への抜け道があるように見える、というのは良い毒抜きなのだ。
迷宮からの恩恵によって、全体としてはヒトの暮らしがよくなっていっている時代においてはなおのこと。
その上国家の役に立ってくれるというのだから文句などあるはずもない。
大事なのはその手綱の握り方だ。
幸いにしてまだ軍という数に勝てるだけの『個』が冒険者の中に生まれていないとはいえ、将来においても絶対にそうだとは限らないのだから。




