第020話 『強くなるべき理由』③
そして「みんなの意見」をすべて踏まえた上で最善の手を考え出しシロウに提案することが、カインが自分に任じている役どころである。
まあわざわざ言葉にして伝えなくても、カインはみんなの本音などお見通しだろうなという気もしてはいる。
それでもきちんと言葉にして伝える、伝えられる方が仲間として健全だろうとも思う。
その上で最後は責任者としてシロウが決め、その決定に責任を持つ。
そういう在り方が、シロウが党首である一党、『野晒案山子』なのである。
「でもシロウ君らしいです」
フィアの憮然たる言葉を受けて、シェリルはくすくす笑っている。
この一つ年下の女の子は、実は誰よりも大人なんじゃなかろうかと思うことがフィアには稀にある。
特にシロウが絡む案件については。
「うん」
珍しく声に出して、ヴァンもそれに同意している。
つまりは決定役、分析係、アクセル係、バランサーすべてがこの事態を肯定的にとらえているということだ。
「いやまあ、それはそうなんだけどね?」
であればこれ以上、フィアも言うこともない。
もともと「なにをいまさら」というのは全員の共通認識ではあろうし。
フィアだけではなく、『野晒案山子』の党員たるもの、全員がキチンとわかっているのだ。
シロウは生粋の『魔法バカ』であることを。
だがそれは『野晒案山子』が今のようなヒトの域を超えた戦闘能力を持つ、言ってみれば本物の魔法使い一党になる前からずっと変わることはない。
あの日。
成す術をなにも持たず、死を待つだけだったシェリル、カイン、ヴァン、フィアのみならず、ノーグ村の全員を救ってくれたのは、他の誰でもなくシロウだ。
ノーグ村全てを救うため、たった一人だけ本物の魔法使いになる前から、シロウの行動基準は単純である。
シロウは魔法を自分の知り得る限り最強の力とみなしているが故に、バカといわれるほどに魔法に傾倒しているにすぎない。
魔法以上の力を見つければ、それを得ることに躍起になるのは間違いない。
シロウが求めているのはより強い力。
そして彼が力を求めるのは、明確な理由がある。
常に自分のことを俗物だというとおり、彼は自分の大事なみんなと楽しく生きていきたいという俗な夢を、全力で叶えようとしているに過ぎないのだ。
魔法の深淵を覗き、己が力とする。
必要に迫られればその力を駆使して世界を統べる、あるいは世界を救う。
逆にもしも世界がシロウの大切なヒトたちの敵に回るというのであれば、滅ぼすことも辞さないだろう。
彼の大切なものは、ふわっとした『世界』などという概念ではない。
その大切なものを犠牲にしてまで、世界を救いたいなどと思ったこともない。
シロウにとっての大切は、言えば当たり前のもの。
顔と名前が一致し、他人に問われればその人がどういう人かを自分なりに答えられる身近な相手。
その上で好きだなと思えるヒトたち。
そしてシロウの大切にははっきりと優先順位がついている。
当然それは世界中の最後の一人に至るまで、序列がつけられているわけではない。
順番さえつけられていない知らないヒトたちをすら大切にすることができるほど、シロウはできた存在ではないというだけの話である。
己という存在が、言葉だけですらそれを口にできるほどの力を持っていないと自覚しているともいえる。
――身近な者すら守れない者が、世界なんて救えるはずがない。
英雄譚などでよく使われる言い回しは、心からその通りだと思うシロウなのだ。
シロウにとってまず揺るがぬ第一がシェリル。
続いてカイン、おそらくその次がヴァンで、フィアは残念ながら『野晒案山子』の中では四番目だ。
だけどフィアはそれを不満とは思わない。
それはシロウにとって、世界に数多いるヒトの中で四番目に大切なのがフィアだということなのだから。
本心から「自分は仲間みんなが平等に大切だ!」などという綺麗ごとを口に出来るヒトは、本当に幸せだと思う。
それをなにも知らない愚か者だから言える言葉だなどと、馬鹿にするつもりもない。
そう思ったまま、現実に残酷な選択肢を突き付けられることのないまま生涯を終えられることをこそ、本当の幸せというのかもしれない。
もしくはそう口にできるだけの力を本当に持っているかだ。
だけど自分たちは――ノーグ村の者たちは全員、あの日そんな選択肢すら与えられない無慈悲な現実に晒された経験がすでにある。
奇麗ごとや建前などが一切通用しない、正義も悪も、正しいも間違いも関係ない。
ただ理不尽で唐突な終わりというものが、いつでも、誰にでも訪れるものだということを思い知っている。
だがノーグ村は力を持つ者――シロウの大切なものだったからこそ救われた。
それも村中を救うだけの力を当時のシロウが持っていたから、誰一人命を落とすことなく済むという奇跡を享受できたのだ。
もしもシロウの力が足りていなければ、残酷な取捨選択をするしかなかったのは当然。
そうしなくて済んだのはたまたま偶然、運がよかっただけに過ぎない。
その現実を誰よりも強く経験したが故に、シロウはより強い力を求めて止まないのだ。
そしてあの日、シロウに命を救われたことを知っている自分たちは、自分の意志でシロウの役に立ちたいと思っている。
恩に報いたいと思うのは普通のことだと思う。
それが命の恩であればなおのこと。
だけど、もちろんそれだけではない。
世界の残酷さを身を以て知ってしまった以上、力を望むようになるのもまた当然のことだと思う。
力があれば大切なものを救うことも、理不尽に対して黙って下を向く必要もなくなる。
なによりも日々を何かに殺されずに生きていくことだって、力があってこそなのだ。
それをフィアたちは言葉ではなく、現実として体験している。
だから強くなるための手段があり、その方法も分かっているのであれば、それに伴う危険など何の問題にもなりはしない。
よしんばその危険のために命を落とすことになったとしても、力を求めず日々幸運を祈って生きていくことなど、一度でも理不尽な死がすぐそこまで来たことがある者に出来るはずもない。
ヒトはいずれみな死ぬ。
どうしても逃れられぬ現実がそうである以上、問題は死に方だと思うのだ。
それはとりもなおさず、生き方ともいえる。
シロウは、シロウに救われた『野晒案山子』の党員たちはみな、より力を求めて強くなり、自分にとっての『世界』を護れるようになることを望んでいる。
危険は承知。
慎重を期しても避けきれない終わりを引き当ててしまったとしても、それは望んだ生き方をした上での結果。
なにもせずに日常を繰り返し、ある日なんの理屈も理由もなく突然訪れる理不尽に、抗う術も持たぬまま終わるよりもずっといい。
いつか自分たちも、シロウのように自分にとっての世界を救えるだけの力を手に入れる。
それが幼くして冗談ではなく死線を越えた――越えさせてもらったことのある子供たちの在り方となっている。
『成長』によって普通の子供よりはかなり早熟というか、ませているというのもあるが。
だからより強くなれる可能性も見いだせるこの状況を、警戒はすれどもただ恐れる者など誰一人としていはしない。
いやだからといって手放しで喜ぶのもどうなんだと、まだ自分では常識人であるつもりのフィアやヴァンなどは思ってしまうだけである。




