夜の着信
夜の街は静まり返っていた。
加藤一樹は、コンビニのバイトを終え、駅へ向かう途中だった。
いつもならダッシュで家に帰ってすぐ寝るのだが、その日はなぜか足が重かった。胸の奥がざわついて、何かに追われているような気がしていた。
急にスマホが震えた。見知らぬ番号からの着信だった。
画面を見ると、ただ「助けて」とだけ表示されている。
心臓が跳ね上がった。電話を取ろうか、一度は躊躇した。
しかし好奇心に勝てず、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
相手の声はほとんど聞こえなかった。わずかなノイズの向こうで、誰かが荒い息遣いをしているだけだった。
「たすけて……」
その言葉がまた繰り返された。
一樹は周りを見回した。夜道は無人。背筋が凍った。
切ろうとした瞬間、別の言葉が聞こえた。
「すぐ来て……地下に……」
そして、通話は切れた。
駅に着く前に、一樹は立ち止まった。
地下? どこの地下? 知らない番号、知らない声。
でも、もし誰かが本当に助けを求めているなら?
怖い気持ちが混じり合いながらも、彼は周囲の暗がりを見渡し、歩道橋の下にある地下道の入口に足を向けていた。
地下道は、街灯の明かりも届かず、ひんやりと冷たかった。壁は湿気でべたつき、遠くで水滴の落ちる音がぽつぽつと響いている。
一樹はスマホの懐中電灯を点けて、ゆっくりと奥へ進んだ。足音がエコーをかけて闇に吸い込まれていく。
「誰かいますか?」
声を震わせて呼びかけると、わずかにかすかな声が返ってきた。
「こっち……」
その声は子供のようで、すがるような響きを含んでいた。
一樹は声の方向へ進んだが、地下道は迷路のように入り組んでいて、どこから声が来ているのか分かりづらかった。
突然、足元に何かが触れた。
小さな手だった。
一樹は反射的に身を引いた。闇の中から、子どもの顔がゆっくりと浮かび上がった。
彼女の瞳は、真っ黒だった。
言葉を失い、一樹は後ずさった。彼女の口から小さな囁きが聞こえる。
「……助けて……出られないの……」
一樹はその言葉に胸を締めつけられた。だが同時に、彼女の体はぼんやりと透明で、光を通すかのように薄かった。
「君は誰だ?」
呼びかけても、彼女は黙ったままだった。
ただ、にじりにじりと一樹に近づいてくる。
そのとき、遠くから別の声が聞こえた。
「一樹、戻ってこい!」
振り返ると、入口の方から親しげな男の声。だが、誰も見えなかった。
「戻ってこい!」
戻れと繰り返す声はどんどん大きくなり、一樹の胸に重くのしかかった。
一樹は恐怖に震えながら、必死に走り出した。透明な少女の手が、かすかに彼の腕を掴もうとしていた。
なんとか振り切って地上に出ると、夜空は曇っていた。
スマホを見た。着信履歴が増えていた。
あの声は、電話の向こうだけじゃなかった。
彼の周りの闇の中にも、何かが、まだ囁き続けている。
一樹は、慌てて家へ帰ろうとした。
だが、背後から無数の子供の声が囁く。
「ここから出られないの……」
「一緒に遊ぼう……」
「戻っておいで……」
その夜、一樹のスマホは、着信を永遠に鳴らし続けた。
「たすけて……」




