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深夜のノック

 その奇妙な噂は、大学の寮に住む学生たちの間でひそやかに囁かれていた。

 一人暮らしの部屋に、「コツ、コツ、コツ」とノックする音が聞こえるというのだ。

 チャイムではない。はっきりと、指の関節でドアを叩くような硬い音。

 しかもそのノックは、決まって午前三時ちょうどにやって来る。

 回数は、三回だけ。


 ドアを開けても、誰もいない。

 廊下の監視カメラには何も映らない。

 しかし、音を聞いた者には共通点があった。

 それは、三日以内に、必ず姿を消す。


 最初に消えたのは、寮の三階に住んでいた二年生の男子学生だった。

 深夜にノック音を聞いた、と仲間に笑って話していた三日後、彼は姿を消した。

 サークルにも授業にも現れず、連絡も取れない。

 警察が部屋に踏み込んだとき、ドアは内側から施錠されており、侵入の形跡はなかった。

 部屋にはスマホも財布も衣服もそのまま残されていた。

 ただ、玄関には靴だけが、きれいに揃えて置かれていた。

 二人目は、別の階の女子学生だった。

 彼女は消える直前、友人にこう言っていたという。

「変なんだよ……夜中、決まった時間に、ノックが三回だけ聞こえるんだよね……」

 そして三日後。

 彼女もまた、同じように部屋から忽然と姿を消し、靴だけをきれいに揃えて残していた。


 以来、学生たちはその現象を玄関「三時のノック」と呼ぶようになった。

 誰もその姿をはっきりとは見ていない。

 だが、数人が口をそろえてこう言う。

「……ノックのあと、ドアの下のすき間から、女の髪みたいなのが見えた」

 ある者は言う。

「ひそひそと、こすれるような息の音が聞こえた」

「覗き穴を見たら、なにもないはずなのに黒い何かが塞いでた」

「ドアを開けたら、目だけが床に落ちてた」

 そして、ノックが聞こえたら絶対にドアを開けてはいけない。

 それが唯一のルールとなった。


 だが、ある年の夏。

 またひとり、新たなノックの体験者が現れた。

 午前三時。

 寮に住む慎一は、浅い眠りの中で耳元に硬い音を聞いた。

 「コツ、コツ、コツ」

 目が覚めた瞬間、全身に冷たい汗がにじむ。

 まさかと思い、時計を見る。

 ぴったり深夜三時だった。

 心臓の鼓動が、喉の奥でうるさく響いた。

 慎一は身を起こし、恐る恐る玄関へと近づいた。

 廊下灯がついたままのはずのドアのすき間に、黒い布のようなものが揺れている。

 それは、髪だった。

 じっと動かず、しかし生きているものの気配がする。

 その時、もう一度だけノックが鳴った。

 「コツ」

(え……四回目?)

 おかしい。必ず三回のはずだった。

 慎一が身を固くしたその瞬間、ドアの向こうから女の声がした。

「ひとり……足りないの……」

 その囁きは、耳ではなく、鼓膜の内側で鳴った。

 身体の芯まで冷えるような、湿った声。

 すき間に見えていた黒い髪がするすると持ち上がり、今度は眼球がのぞいた。

 真っ赤に血走った白目が、まるで覗き返すように慎一の方を睨んでいる。

 腰が抜けそうになる。

 逃げようとしたが、玄関のドアノブが勝手に回り始めていた。

(鍵……かけたはず……!)

 ドアがきぃ……っとゆっくり開いていく。

 中に何かが滑り込もうとしている——

 咄嗟に、慎一はありったけの力でドアの隙間に向かって蹴りを叩き込んだ。

 「ッッッ!」

 微かに、何かがうめくような音がした。

 ドアが勢いよく閉まり、何かが向こう側で倒れる音が響いた。

 数秒の静寂。

 慎一は震える手で二重に鍵をかけ、全身の力を抜いた。

 それ以降、彼のもとにノックの音は現れなかった。


 ただ、次の日に同じ寮に住んでいた友人が失踪した。

 その部屋にもやはり、靴だけが、きれいに揃えて置かれていた。

 あの声が言っていた言葉。

「ひとり、足りないの」

 つまり、慎一ではなく、代わりに誰かが取られたのかもしれない。


 今でも。

 どこかの寮で、あるいはあなたの一人暮らしの部屋で。

 深夜三時、コツ、コツ、コツ……とノックの音がするかもしれない。


 ドアを開けてはいけない。

 たとえ、そこにあなたの名前を呼ぶ声がしても。

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