落ちてくる声
会社の夏季休暇を使い、三枝圭介は、大学時代の友人・ 古賀と二人で山奥へ小旅行に出かけた。
目的はただ一つ。
最近SNSで話題になっているという
“夜泣きの滝” を見に行くこと。
夜になると、滝壺の奥から女の泣き声が聞こえる。
そんな噂が、一部の登山者のあいだで囁かれていた。
「まあ、どうせ嘘だろ。滝の音を泣き声だって言ってるだけだって」
古賀は能天気に笑う。
圭介は曖昧に頷きつつ、胸の奥に小さな不安を抱えていた。
自分は昔から、水の音には敏感だったのだ。
とくに滝のような轟音には、時おり言葉にならない声が混じって聞こえる気がする。
そんな自分が、なぜわざわざこんな場所に来てしまったのか。
(まあ……古賀に誘われたから仕方ないか)
昼過ぎ、二人は山道を歩き、滝へと向かった。
山の空気は冷たくて湿っている。
遠くから、低い唸り声のような水音が聞こえてきた。
「お、近いぞ。ほら、あれだ」
古賀が指さした先、切り立った崖の奥に、白い水の筋が落ちているのが見えた。
滝の落差はそれほど大きくないが、周囲の岩肌に反響して、耳を圧するような轟音を生んでいる。
圭介の背筋に、ぞわりと悪寒が走る。
(……嫌な感じだ)
だが古賀は気づかず、嬉々として近づいていく。
「写真撮っとけよ〜。夜泣きの滝って」
「……はいはい」
圭介はスマホを構えようとした。
その瞬間、耳の奥に、
……たす、けて……
誰かの声が混じった。
「っ……!?」
「どうした?」
「いや……今……」
言いかけたが、やめた。
どうせ笑われる。
滝の音はさらに大きくなり、
声は水音に呑まれて消えた。
滝壺に近づくと、足元はぐずぐずとした湿地になっていた。
「ほら、これは噂になるわけだわ」
古賀は滝壺の縁まで歩き、身を乗り出す。
「お前も来いって。水冷たくて気持ちいいぞ」
「……そこ危ないだろ」
「大丈夫だって」
圭介は眉をひそめた。
滝壺の水は濁り、底がまったく見えない。
そしてもう一つ、気になることがあった。
水音に紛れてときおり、何かが岩を叩く「コン」という硬い音がした。
(流木でもぶつかってる……わけじゃないな)
流木が叩く音ではない。
もっと、規則的で誰かが石を打ち鳴らしているような音。
鼓動が早くなる。
そのとき、滝壺のほうから、
……おいで……
……おいで……
声がした。
圭介の足が、すくんだ。
「古賀、戻れ」
「なんだよビビってんのか?」
「違う……声が聞こえた」
「なんだよそれ。滝の音だって!」
「いや違う。人の声だ」
古賀は軽くため息をついた。
「お前ってさ、昔からそうだよな。気にしすぎなんだって」
そう言って、古賀は滝壺へさらに一歩近づいた。
その瞬間、足元の泥が崩れた。
「古賀!」
古賀の身体が、滝壺へ引きずりこまれるように落ちた。
水しぶきとともに姿が消える。
「おい!! 古賀!!」
圭介は滝壺へ駆け寄り、必死に覗き込んだ。
水は濁ったまま、中がまったく見えない。
だが滝の音の奥で、確かに聞こえた。
……たすけ……て……
……お……いで……
……こっち……
古賀の声では、なかった。
女の声。
複数の声。
悲しみとも、怒りともつかない声。
そして、圭介の背後で、何かが「コン」と鳴った。
振り返ると、誰もいない。
でも、辺りの岩の表面には、無数の小さな丸い跡がついていた。
石を、誰かが延々と叩いてつけたような跡。
その跡が、すべて滝壺の方向へ向かうように並んでいた。
(……道標だ)
気づいた瞬間、鳥肌が全身を走る。
そのとき、泥の水面がふっと盛り上がり、白い“手”が水中から伸びた。
「ッ——!」
圭介は飛び退いた。
次の瞬間、滝の音が変わった。
轟音の中に無数の声が混じる。
……おいで……
……さがさないで……
……おちておいで……
……いっしょに……
圭介はその場から逃げ出した。
背後で、何かが水を叩く音が追ってくる。
足音のように、規則的な「コン、コン」という音も。
(だめだ、追ってきてる……!)
息を切らしながら山道を走り、ようやく駐車場にたどり着き、車に飛び乗って逃げた。
翌日、警察と捜索隊が滝を調べたが、古賀の遺体は見つからなかった。
ただ、滝壺の周辺で、奇妙なものがみつかった。
岩の表面に残る無数の丸い跡。
よく見ると、その跡は石ではなく、人間の歯形だった。
さらに、滝壺の水中からは古賀のスマートフォンだけが発見された。
再生された最後の動画には、落下する直前の古賀が映っており、その背後で、滝の水面に“人影”がいくつも揺らめいていた。
そして、動画の終わりに録音されていた声は、こう囁いた。
『つぎは、おまえ』
圭介はもう、滝には行かない。
……時々、夜のシャワーの音に紛れて聞こえるのだ。
あの声が。
……おいで……
……まってる……
……おちておいで……
そして、浴室の排水口から「コン」と音がする。
まるで、滝壺の奥から呼んでいるように。




