透明な通学路
放課後の教室には、もう誰もいなかった。
高校一年の西条結衣は、部活動の会議が長引き、すっかり帰りが遅くなってしまった。
外はすでに暗く、窓ガラスには夜景と自分の顔が重なっている。
(やだな……帰り、ひとりか)
鞄を肩にかけ、廊下へ出た。
蛍光灯の白い光が、足元まで平らに落ちている。
階段を降りようとしたそのとき、背後で声がした。
「ねえ、帰り道、気をつけた方がいいよ」
振り返ると、知らない女子生徒が立っていた。
見覚えのない顔。
髪は長く、制服のリボンが黒く見えた。
「……誰?」
「一年三組の、桐野」
聞いたことのない名前。
そんな名前の子はいなかったはずだ。
「気をつけてね。夜の通学路で、振り返っちゃだめ」
結衣は眉をひそめた。
「振り返ったら、なに」
桐野と名乗る少女は、目だけを大きくし、囁くように言った。
「振り返ると、透明な人が、ついてくる。見られると、帰れないよ」
ぞくりと背筋が冷えた。
「じゃあ、またね。あなたはまだ、見られてないから」
少女の足音は、ふっと途中で消えた。
結衣は固まった。
しかし、誰に連絡することもできず、学校の出口へ向かって歩き出した。
夜の通学路は、昼間とはまったく違う顔をしていた。
街灯は少なく、アスファルトの上には自分の影だけが長く伸びる。
家々の窓はどこも暗い。
葉の擦れる音だけが耳に響く。
(気のせいだよ……振り返ると透明な人がついてくるなんて、都市伝説とか、作り話でしょ)
そう思いながら歩いていたときだった。
タッ、タッ、タッ。
背後で、誰かの足音がした。
結衣は足を止めた。
足音も止まる。
(いや、聞き間違い)
歩き出す。
足音も、ついてくる。
(いやいやいや……)
桐野の言葉が頭をよぎった。
『振り返ると、透明な人が、ついてくる。見られると、帰れないよ』
結衣は息を止めた。
歩幅を大きくする。
足音も、早くなる。
(ついてきてる?)
汗が首筋を流れ、心臓の音が耳を塞ぐほど鳴り響いた。
(振り返らなきゃ、いいの。見なきゃ、いないのと同じ)
家まであと二百メートル。
角を曲がれば、明るい通りになる。
そのとき、耳元で声がした。
「みえてるよ」
結衣は悲鳴を上げたかった。
しかし声が出ない。
喉が凍りついたようだった。
(お願い、あと少し……!)
全速力で走る。
足音はすぐ後ろで重なって鳴る。
角を曲がる直前、背中に冷たい指が触れた。
「ふりかえって」
結衣は涙をこらえ、絶対に振り返らず走り抜けた。
明るい通りへ飛び出し、ようやく家の前にたどり着いた。
鍵を開けて中へ入ると、足音はぴたりと止まった。
結衣は床に座り込み、息を荒げながら泣いた。
翌日、結衣は友人の千夏に昨夜のことを話した。
千夏は眉を寄せ、そっと声を潜めた。
「ねえ、それ、知ってる」
「え?」
「うちの学校の都市伝説。夜の通学路で誰かの足音が聞こえたら、絶対に振り返っちゃいけないんだって」
昨日の桐野の言葉と同じだった。
「昔、振り返っちゃった先輩がいたらしいの。『透明な人』を見ちゃった瞬間から……」
「から……?」
千夏の顔が凍りついた。
「自分の後ろに、もう一人の自分が立ってたんだって」
空気が鋭く冷えた。
「そいつは、本人が寝てるときに背中に乗って、少しずつ体を奪うの。声も、思考も、顔も。最後には入れ替わる」
結衣は耐えきれず、自分の肩を抱えた。
「昨日、家に帰ったとき、後ろに誰もいなかったよね?」
千夏の言葉に、結衣はゆっくり頷こうとした。
だがーー
そのとき、スマホの画面が勝手に起動した。
カメラのインカメラが開く。
そこに映った画面には、結衣の後ろに、もう一人の「結衣」が立っていた。
笑っていた。
口元だけで、静かに。
画面の文字が滲むように浮かび上がった。
『ふりかえって』
その瞬間、結衣の視界が真っ黒になった。
翌日、学校の昇降口で、誰かが話していた。
「ねえ、聞いた? 夜の通学路で、変な声が聞こえるんだって。足音がついてきて、振り返ったらだめらしいよ」
「なにそれ、ただの都市伝説じゃん」
「違うよ、最近ほんとにあったんだって。名前は……えっと……」
女子生徒の一人が言った。
「……桐野って子らしいよ」
その声を聞きながら、昇降口の奥で、黒いリボンをつけた女子生徒が静かに笑った。
彼女の背後には、透明な足音が三つ、四つ……増え続けていた。




