紅葉狩のあとで
その山は、秋になると異様なほど美しく染まる。
風が吹くたび、赤、橙、金、そして黒に近い深紅の葉が、光を呑むように揺れている。
観光客は毎年押し寄せる。
だが“あの年”を境に、村人たちは決して近づかなくなった。
理由を知る人は、もう誰もいない。
ただ、山のふもとにある古い鳥居に、今でも誰かが紙で書かれた札を貼り替えている。
そこには、墨でこう書かれている。
《紅葉を拾うな》
市立高校の写真部は、秋の合宿でこの山にやってきた。
参加者は五人。
部長の 高坂、副部長の 美帆、一年生の 新、真帆、そして顧問の先生。
到着したのは午後三時すぎ。
空は一面の曇天で、太陽は雲の向こうにぼんやりと透けていた。
それでも、山全体がまるで光っているように赤い。
「すごい……まるで燃えてるみたい」
真帆がカメラを構えた。
シャッターの音がカシャ、と空気を切る。
風が吹き、もみじがひとひら、彼女の肩に落ちた。
それは、血のように鮮やかな赤だった。
その夜、彼らはふもとの民宿に泊まった。
古びた木造の建物。廊下はきしみ、どこからか水の音が絶えず聞こえていた。
夕食後、部屋に集まって撮影した写真を見返していると、美帆が小さく眉をひそめた。
「……ねえ、この写真」
画面を覗き込むと、紅葉の森の奥に、白い影のようなものが写っていた。
人影に見えるが、輪郭がぼやけている。
「誰かいた?」
「いや……あのとき、私たち以外誰も」
新が拡大してみる。
すると、そこには確かに、着物のような布をまとった女が、もみじの木の下に立っていた。
顔は、見えない。
というより、写っていない。
美帆は、唇を噛んだ。
「この山、昔“人を沈める紅葉”って言われてたんだよ」
新がぽつりと言った。
「どういうこと?」
と真帆が問う。
「紅葉の色が濃すぎて、見てると吸い込まれるんだって。それで、気づいたら帰れなくなる」
新は周りの反応を見ながら少し溜めていった。
「……人の魂を、紅葉が奪うって」
冗談めかして言ったつもりだった。
けれど、その場に流れた空気は重かった。
外では、風が強まっていた。
翌朝。
先生が朝食に現れなかった。
宿の人が部屋を見に行っても、布団は乱れたまま、姿がない。
高坂が外を探すと、山のほうへ続く細い道に、先生の靴が片方だけ落ちていた。
靴の中には、紅いもみじが一枚。
乾いている。
まるで、昨日の風景から抜け出したみたいに。
「……行ってみよう」
他の大人が止める間もなく、彼らは山道を登り始めた。
紅葉は昨日よりも赤かった。
曇天のせいで、光が乏しいのに、なぜか葉だけが明るく見える。
道の途中、真帆がしゃがみ込んだ。
「見て……これ」
地面一面に、もみじの絨毯。
でも、その真ん中に、人の形だけ、葉が積もっていなかった。
まるで、そこに“何か”が寝転がっていたみたいに。
風が吹くたび、葉がざわざわと音を立てる。
それが、人の囁き声のように聞こえた。
“ここにいなさい”
“きれいでしょう”
“ずっと見ていなさい”
新が振り返る。
「今、誰か言った?」
誰も答えない。
それどころか、誰もそこにいなかった。
美帆と真帆の姿が、消えていた。
高坂と新は、焦りながら山を走った。
霧が出てきて、道が見えなくなる。
気づくと、あたり一面が赤だった。
地面も木も、空でさえも、すべて赤く染まっている。
「……紅葉って、こんなに赤かったっけ」
足元を見下ろすと、地面に落ちた葉の下で、何かが光っていた。
金属。カメラのレンズ。
拾い上げると、それは美帆のカメラだった。
電源を入れると、シャッター音が勝手に鳴った。
カシャ。
画面には、さっきまでの山道が映っている。
その中央に、女が立っていた。
昨日、写真に写っていた影と同じ。
今度ははっきりと顔が見える。
赤い口紅、蒼白い肌、そして黒く濡れた瞳。
彼女の口がゆっくりと動く。
「……きれい、でしょう?」
次の瞬間、画面が真っ赤に染まった。
気づいたとき、高坂はひとりで立っていた。
足元には、山の地図。
その上に、紅葉が一枚。
赤く、鮮やかで、だが、しっとりと濡れている。
彼はそれを拾い上げた。
その瞬間、空が暗転した。
風が止まり、鳥の声も消える。
紅葉が、ふわりと浮かび上がり、彼のまわりを舞う。
葉の一枚一枚が、人の顔に変わっていく。
見覚えのある顔。
美帆、真帆、新、そして……先生。
皆、笑っていた。静かに、穏やかに。
そして、口を揃えて言った。
「ここはきれいでしょう?」
「もう帰らなくていいの」
高坂の足元から、地面が沈んでいく。
紅葉が積もり、音もなく体を包み込んだ。
最後に見たのは、曇天の空。
雲の隙間から、一瞬だけ陽の光が差した。
それが、血のような赤に染まっていた。
翌週。
山は静かだった。
観光シーズンなのに、誰もいない。
村人が鳥居の札を貼り替える。
古びた筆で、黒い墨を走らせながら。
《紅葉を拾うな》
札を貼り終えた老人は、山のほうを見上げた。
枝の先に、ひときわ大きな紅葉がひらひらと揺れている。
風が吹いた。
それが、一枚、ふわりと地面に落ちた。
裏側には、薄く文字が浮かんでいる。
《紅葉狩 2025 写真部》




