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最後の演奏

 放課後の音楽室には、いつも少し冷たい空気が漂っていた。

 窓を閉めていても、どこからか風が入り込む。

 カーテンがゆらゆらと揺れ、壁に吊るされた楽譜がかすかに鳴る。

 その真ん中に、黒いグランドピアノがあった。

 艶を失った黒鍵、少し欠けた白鍵。

 それでも、触れれば音はまだ確かに生きている。


 花音は、そのピアノの前に立った。

 ピアノの蓋に手を伸ばすと、ぎい……と軋むような音が鳴る。

 空気が揺れた。

 彼女は、深く息を吸った。

「……今日も、弾かないとね」

 薄曇りの窓の外では、放課後のチャイムが遠くで鳴り終わるところだった。


 花音は音楽部の最後の部員だった。

 卒業生が去り、後輩も入らず、顧問の先生も産休でしばらく不在。

 もう半年以上、この部室には彼女しかいない。

 でも、それが少し嬉しかった。

 ひとりでピアノに向かっているときだけは、世界が静かになる。

 鍵盤を押せば、音が返ってくる。

 そして、その音に自分の心が少しずつ重なっていく。

 だから今日も、曇り空の下で、彼女は指を置いた。

 ――トン。

 最初の一音。

 それは小さな波紋のように音楽室に広がる。

 ド、ミ、ソ、シ……

 少し歪んだ和音。

 でも、そこには懐かしさがあった。


 この旋律。

 前の部長の、美月先輩が弾いていた曲だ。

 去年の文化祭のリハーサルで、美月先輩はこの曲を弾いていた。

 曇天の午後。突然の停電。

 ライトが落ちて、暗闇の中で一瞬だけ、音が途切れた。

 そして彼女は、そのまま鍵盤の上に崩れ落ちた。

 病気でも、事故でもなかった。

 心臓が突然止まったという。

 その日から、誰もこのピアノに触れなくなった。


 それでも花音は、弾き続けている。

 彼女の中で、この旋律がまだ終わっていない気がしていた。

「先輩、あのとき……どうして止まったんですか?」

 問いかけても、返事はない。

 風がカーテンを揺らすだけ。

 花音は再び鍵盤に指を置く。

 ド、ミ、ソ、シ、ド……

 和音が少し濁る。


 ……その瞬間、背後の譜面台が「カサッ」と音を立てた。

 花音は振り返った。

 誰もいない。

 でも、譜面が一枚、床に落ちている。

 拾い上げてみると、見覚えのない楽譜だった。

 手書きの譜面。インクが少し滲んでいる。

 題名の部分にはこう書かれていた。


《未完のソナタ》


 五線譜の下の余白には、鉛筆で走り書きのようなメモがある。

《最後の和音を弾いてはいけない》



 それから数日、花音はその曲に取り憑かれるように練習した。

 旋律は穏やかで、美しい。

 だが、弾けば弾くほど、不思議な違和感が増していった。

 テンポを上げても、遅くしても、最後のフレーズが落ち着かない。

 音が宙に浮いたまま、どこにも帰れない感じ。

 まるで“何かが”その先を待っているように。


 放課後、また曇天。

 教室はしっとりとした暗さに包まれている。

 ピアノの前に座り、花音はそっと鍵盤を撫でた。

 指先に、冷たい感触。

 それが、まるで呼吸をしているみたいにわずかに震えていた。

「……いるんですか?」

 そう呟くと、ピアノの中で「コト」と小さな音がした。

 花音は指を動かした。

 メロディが流れ出す。

 ド、ミ、ソ、シ、ド。

 不協和音が、曇った空気を震わせる。

 低音の響きが、どこか遠くの井戸の底から聞こえるように重くなる。

 そして、曲の終わりが近づいた。

 あの、最後の和音。

 譜面には「弾いてはいけない」と書かれていた。

 花音は手を止めた。


 その瞬間、部屋の空気が凍る。

 窓の外の雲が低く垂れ込み、世界の色が失われていく。

 ピアノの蓋の内側が、黒く光った。

 鏡のように、自分の顔が映っている。

 その“鏡”の中の自分が、ゆっくりと笑った。

「……先輩?」

 声が震えた。

 鏡の中の“花音”が、そっと手を鍵盤に伸ばした。

 本物の自分は、何もしていないのに。

 指が勝手に動く。

 最後の和音を、弾いてしまった。


 ジャァァァァン……!


 重く、歪んだ音。

 ピアノ全体が震え、低音弦が軋む。

 そして、天井から細かな砂埃がぱらぱらと落ちてきた。

「――っ!」

 次の瞬間、音楽室のドアが閉まった。

 強く。

 まるで、誰かが内側から鍵をかけたように。

 ライトが消える。

 暗闇の中、ピアノだけが光を放っていた。

 その中から、手が出てきた。

 白く細い手。

 鍵盤の下から、蓋の隙間から、音とともに、ゆっくりと。

「返して」

 声。

 ピアノの中から、くぐもった声がする。

「……私の音を、返して」

 冷たい空気が、首筋を撫でた。

 花音は後ずさり、壁に背中をぶつけた。

 蓋の影の奥。

 そこには、青白い顔が見えた。

 髪が濡れていて、唇は紫色。

 美月先輩。

「最後の音は、まだ終わってなかったの」

 ピアノの弦がひとりでに鳴り始める。

 低音、中音、高音……

 全ての音が、一斉に逆再生のように流れていく。

 花音は耳をふさいだ。

 だが、音は頭の中に直接響いた。

『続けて』

『一緒に弾こう』

『終わるまで……』

 ピアノの蓋がバンッと開いた。

 中から溢れ出す黒い影。

 それが花音の足を掴む。

「やめっ……」

 最後の悲鳴は、音にならなかった。


 翌朝、音楽室は静まり返っていた。

 窓の外は曇天。

 校舎の上を、重たい雲が流れていく。

 グランドピアノの前の椅子には、誰もいない。

 ただ、譜面台の上に新しい手書きの楽譜が置かれていた。


《未完のソナタ II》


 そして、下の余白には新しい文字が書き加えられている。


《次の人が、続きを弾くこと》

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