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曇天の校舎

 空は、灰色だった。

 雨が降りそうで降らない、風も止まりかけた午後。

 山のふもとの廃校に、夏海は一人、足を踏み入れた。

「……懐かしいな」

 声に出してみると、空気が小さく震えて、音が広がった。

 まるで建物そのものが、それに応えるように軋んだ。

 廃校になってから、もう十五年。

 最後の卒業式の日、全員でこの校庭に集まって写真を撮った。

 そのときの空も、こんなふうに曇っていた気がする。

 夏海はカメラを構え、シャッターを切った。

 カチリ。

 校舎のガラス窓に映る灰色の空が、レンズ越しに滲んで見える。


 そのとき、ふと視界の端に、白い影が動いた。

「……?」

 窓の中。

 二階の教室の奥に、子どものような影が一瞬見えた気がした。

 もちろん、誰もいるはずがない。

 この場所は町の取り壊し予定に入っていて、立入禁止の札も出ている。

 それでも、足が勝手に校舎の中へ向かっていた。



 昇降口のドアは、少しだけ開いていた。

 ギイ、と鈍い音を立てて押し開ける。

 中はひんやりと湿っていて、古い木の床が沈んだような匂いがした。

「……相変わらず暗いな」

 曇天のせいで、窓からの光が弱い。

 廊下の奥まで伸びる影が、ゆっくりと揺れている。

 その揺れ方が風のせいなのか、それとも、何かが動いたせいなのか判断がつかない。

 夏海はスマホのライトをつけ、足音を殺して歩いた。

 廊下の壁には、色あせた掲示物や手形アートの跡が残っている。

 赤や青の手形が、奇妙に歪んで乾いていて、どれも「笑顔の顔」とセットになっていた。

 その“笑顔”が、どれも同じ形に見える。

 まるで、ひとつの顔が、いくつもコピーされたみたいに。

 喉の奥が、きゅっと締まった。


 二階への階段を上る途中、上から「コトン」と音がした。

 木の床に何かが転がったような、乾いた音。

 夏海はライトを向けながら、慎重に一段ずつ上がる。

 二階にたどり着いたとき、廊下の真ん中に小さな赤いビー玉がひとつ、転がっていた。

「……誰か、いるの?」

 声が、薄暗い廊下に吸い込まれていく。

 返事はない。

 ただ、曇り空の光だけが、窓の外からぼんやりと差していた。

 ビー玉を拾おうと手を伸ばしたとき、足元の床が「パキ」と鳴った。

 とたんに、視界がぐにゃりと揺らぐ。


 目の前の廊下が、変わっていた。

 窓の外は夕暮れ。

 さっきまでの廃校の灰色とは違う、あたたかなオレンジ色の光が差している。

 そして、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえる。

「え……?」

 視線を上げると、廊下の向こうに小学生の自分が立っていた。

 スカートの裾が少し汚れていて、右手には赤いビー玉。

 夏海は息をのむ。

 その子が、こちらを見た。

 笑っていた。

 まるで、あの壁に描かれていた“同じ顔”のように。

 口角が不自然に吊り上がり、目だけが笑っていない。

「……ねぇ、夏海」

 声が、響いた。

 ぞわり、と背中が凍る。

「どうして、あの日……来なかったの?」

 夏海の脳裏に、十五年前の記憶が蘇る。

 あの日、急に雨が降って、卒業写真の撮影が中止になった。

 全員が教室で待機していたが、先生に呼び出されて、夏海は一人だけ職員室へ行った。

 戻ったときには、もう写真撮影は終わっていた。

 みんなが校庭に出て、クラスで最後の記念写真を撮ったというのに。

 その写真の中に、夏海だけ写っていなかった。


「……夏海?」

 目の前の“自分”が、もう一歩近づく。

 足音がしない。

 曇天の光が、窓の外から淡く滲む。

「ずっと待ってたのに」

「……誰が?」

「みんな、だよ」

 その瞬間、教室の扉が一斉に開いた。


 バンッ、バンッ、バンッ!


 そこから、無数の小さな影が、ゆっくりと顔を出した。

 どの顔も笑っている。

 けれど目は空っぽで、瞳の奥に曇天が映っていた。

「わ、私、帰らなきゃ」

「写真、まだ撮ってないでしょ」

「みんなで一緒に」

「一緒に撮ろう」

 ざっ……ざっ……と、裸足の足音が廊下を満たしていく。

 夏海は後ずさった。

 背中が壁にぶつかる。

 逃げ場が、ない。

「やめて……」

 息が詰まる。

 そのとき校舎の外で、雷鳴が鳴った。

 ゴロゴロッ……。

 その音に重なるように、廊下全体が震えた。

 曇天が一気に暗くなり、窓の外がほとんど黒に沈む。

 次の瞬間、視界が真っ白になった。



 気づいたとき、夏海は校庭に立っていた。

 手には、カメラ。

 曇り空は、もうすっかり夜の色に変わっていた。

「……夢、だったの?」

 手を見ると、赤いビー玉が握られていた。

 掌に食い込んだ跡が、痛いほど残っている。

 風が吹いた。

 曇天の雲が少し割れて、わずかに星が覗く。

 シャッターを切る。

 カチリ。

 ファインダーの中。

 暗い校舎の二階の窓に、子どもたちが並んで立っていた。

 みんな、笑っている。


 ただひとり。

 その中に、今の自分の顔が混じっていた。

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