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夜勤の病棟

 霧が濃く、街全体を灰色の膜が包み込む深夜。

 佐倉は重たい足取りで、市立病院の旧棟へと向かっていた。

 夜勤の時間はとっくに始まっている。

 しかし、彼の胸の奥には、どうしても拭いきれない嫌な予感があった。

 その病院は、かつては多くの命を救い、町の人々に頼りにされていた。


 だが今は違う。

 老朽化が進み、壁はひび割れ、窓ガラスは曇り、光を受けても鈍く濁ったままだ。

 中庭の外灯は二本が消え、残る一本の明かりが、夜の闇の中でかすかに揺れていた。

 建物全体が息を潜め、まるで時間から切り離されてしまったかのように沈黙している。

 入口の鉄扉を押し開けると、金属の軋む音が静寂を切り裂いた。

 中へ足を踏み入れた途端、古い木の床板がみしりと鳴り、冷たい空気が頬を撫でた。

 廊下の蛍光灯は不規則に点滅を繰り返し、明滅の間に長い影が壁を這う。

 消毒液の残り香がほのかに漂っているが、それはもはや清潔さの匂いではなく、どこか乾いた血のような臭気を混じえていた。


 佐倉の胸に、かすかな痛みが広がる。

 ここには、数年前の記憶が残っている。

 夜勤中に看護師が一人、忽然と姿を消した。

 最後に彼女が確認されたのは、この旧棟のナースステーションの前だった。

 監視カメラは故障しており、足跡も記録も残っていなかった。


 それ以来、この棟は「夜に入ると戻れない」と噂され、閉鎖されたままだった。

 にもかかわらず、今夜の佐倉は、そこへ行かねばならない。

 機材の点検と、残されたカルテの回収。

 ただそれだけの仕事。

 だが、その「ただそれだけ」が、どうしても重くのしかかっていた。

「……大丈夫だ。今夜は、何も起きない」

 そう自分に言い聞かせながらも、佐倉の手は震えていた。

 懐中電灯の光が揺れ、壁に映る自分の影が、不気味に形を変えていく。

 どこかで、水滴が落ちる音。

 天井の換気口の奥で、何かが擦れるような音。

 耳を澄ますと、廊下の向こうから微かな足音が聞こえた。

 コツ、コツ、と規則的に響く。

 だが、この時間に他の職員がいるはずがない。

 佐倉は息を呑み、振り返った。

 そこには、誰もいなかった。

 蛍光灯が一瞬だけ強く光り、すぐに暗転する。

 暗闇の中で、彼は一歩も動けなかった。


 しばらく進むと、古い病室の前に辿り着いた。

 ドアのガラス越しに、何かが立っている。

 白い服。人の形。

 窓辺に佇む女が、静かに外を見つめている。

「……誰か、いますか?」

 声をかけても、女は動かない。

 厚い霧の向こう、窓の外には何も見えないはずだ。

 だが、彼女は何かを見つめていた。

 そして、細い指先でゆっくりと窓ガラスをなぞった。

 その仕草は、まるで何かを呼び覚ます儀式のようだった。

 指が通った跡には、曇りが消え、そこだけが異様に透き通っていく。

 佐倉の胸を、冷たい感覚が走り抜けた。

 その瞬間、背後から風が吹き抜けた。

 蛍光灯が一斉に消える。

 真っ暗な闇の中、耳鳴りのような高音が頭の奥で鳴り響き、空気が歪む。

 “何か”が、確実に近づいてきていた。


 光が戻ると同時に、目の前に“影”が立っていた。

 それは、人の形をしていたが、輪郭がゆらゆらと揺らぎ、現実の存在ではなかった。

 影はゆっくりと変形し、やがて白衣をまとった医師の姿になる。

 だが、その顔には何もなかった。

 目も鼻もなく、口だけが闇のように開いていた。

 そこから、掠れた声が漏れた。

「お前も……ここに囚われているのだ……」

 その言葉は、空気を通らず、直接佐倉の脳に響いた。

 全身の血が凍り、体の自由が奪われる。

 逃げようと足に力を込めても、動かない。

 影は近づき、濡れた冷たい手が彼の肩に触れた。

「覚えているか……あの夜のことを……?」

 その声で、記憶が弾けるように蘇った。


 あの夜。

 初めての夜勤の日。

 一人の患者が突然苦しみ始め、意識を失った。

 医師も看護師も総出で処置をしたが、どうしても助からなかった。

 若い女性の患者だった。

 佐倉は、最後に彼女の手を握っていた。

 冷たくなっていく指先が、今も忘れられない。

 その夜から、奇妙なことが起こり始めた。

 夜勤のたびに、誰かの足音が病棟を歩く。

 ナースコールが鳴っても、そこには誰もいない。

 亡くなった彼女の病室だけが、いつも冷たかった。


「ここから出ることはできない」

 影の声が再び響いた。

 その直後、視界が白く弾け、全ての音が遠ざかっていった。

 気がつくと、廊下に一人、倒れていた。

 床は冷たく、呼吸が浅い。

 目の前の出口へ這うようにして進んだが、扉はびくとも動かない。

 金属の表面には、無数の手形が浮かんでいた。

 後ろを振り向くと、白衣の医師が立っていた。

 顔は焼け焦げたように黒ずみ、その皮膚の下から、いくつもの“目”がこちらを覗いている。

 その口元がわずかに動き、低い声が漏れた。

「逃げられない……お前も……ここで……」

 佐倉は声にならない悲鳴をあげ、視界が真っ黒に塗りつぶされた。


 翌朝。

 清掃員が出勤し、旧棟の廊下で佐倉を見つけた。

 彼は床に仰向けに倒れ、目を見開いたまま動かなかった。

 その瞳には、何かを凝視したまま固まった恐怖が残っていた。


 彼の手には、誰も知らないカルテが握られていた。

 名前欄には、消えた看護師のものと同じ筆跡で「佐倉」と書かれていた。


 誰も、あの夜に何が起きたのかを知らない。

 ただ、古びた病院の旧棟では、今も深夜になると、誰もいないはずの廊下を、足音がゆっくりと行き来しているという。

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