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閉ざされた階段

 郊外の外れに建つその集合住宅は、長い年月の中で少しずつ、静かに姿を変えていった。

 外壁のペンキはところどころ剥がれ、鉄製の手すりは錆びてざらつき、夜になれば廊下の蛍光灯がかすかに点滅する。

 人の気配は薄く、風が吹くたび、どこか遠くで鉄のきしむ音が響いた。

 そんな建物に、若い男・望月が引っ越してきた。


 部屋は三階の一番奥、302号室。隣の303号室は長く空き部屋だと、管理会社から聞いていた。

 初めての夜。

 まだ段ボールがいくつも積まれたままの部屋で、望月は缶コーヒーを片手に、窓の外の街灯をぼんやり眺めていた。

 そのとき、ふと気づく。

 廊下の先、303号室のドアが、わずかに開いている。ほんの数センチ、誰かが通りかけに閉め忘れたような隙間だった。

 誰かが住んでいるはずはない。

 だが、その隙間の向こうから、薄暗い廊下の灯りとは違う、冷たく鈍い光がにじみ出していた。

 蛍光灯の明滅でも、外の光でもない。まるで地下水のように、湿り気を帯びた光だった。

 望月の背筋を、ぞわりと寒気が這い上がる。

 目を逸らし、布団に潜り込んだが、瞼の裏にあの隙間が焼きついて離れなかった。


 翌夜。

 眠りに落ちかけたころ、階下から微かな軋む音が聞こえた。

 最初は耳鳴りかと思った。だが、耳を澄ますうちに、それが“誰かが階段を上り下りする音”だとわかった。

 金属の段がゆっくりと沈み、また戻る。

 一歩ごとに、木霊するような低い響き。

 おかしい。

 この建物には303号室の近くに階段などない。

 廊下は一直線で、端まで行っても突き当たりの壁しかないのだ。

 音はそれでも続いた。

 まるで、見えない階段を誰かが昇降しているかのように。

 その夜を境に、望月は毎晩、同じ音に悩まされるようになった。

 聞き間違いだと思い込もうとしたが、日を追うごとに音は大きく、はっきりとしたものになっていく。

 階段の軋みが、心の奥に染みつくように残り、眠りを拒んだ。

「……誰か、いるのか?」

 深夜、望月は廊下に向かって声をかけた。

 返事はなかった。

 ただ、静寂の中で、遠くのどこかから、また、階段のきしむ音が返ってきた。


 303号室のドアは、相変わらず少しだけ開いたままだ。

 鍵穴の奥に目を凝らしても、そこには誰もいない。

 だが、いないはずの向こう側に、確かに「何か」が潜んでいるような気がした。

 望月は次第に、昼間でさえ落ち着かなくなっていった。

 仕事に出かけても、耳の奥では常に“ギシ……ギシ……”という音が鳴っている。

 頭の中に埋め込まれたように、離れない。

 そして夜が来るたび、恐怖とともに、不可思議な期待が芽生えていく。

 今夜も、あの音が聞こえるだろうか。


 数日後の夜、ついに望月は決意した。

 恐怖と好奇心の入り混じった衝動に駆られ、彼は303号室の前に立った。

 隙間から漏れる空気は冷たく、指先が痺れるようだった。

 震える手で、ドアをそっと押す。

 ギィ……と、鈍い音を立てて、扉がゆっくりと開いた。

 中は暗く、かび臭い。

 長い間、人の出入りがなかったことが一目でわかる。

 床には古びた家具の影が沈み、壁には黒ずんだひびが走っていた。

 埃が舞い、懐中電灯の光がかすかに揺れる。

 部屋の奥。

 そこに、大きな鏡が掛けられていた。

 異様に新しく、周囲の荒れた部屋には不釣り合いなほど、鏡面だけが澄んでいる。

 望月は無意識のうちに、その鏡に近づいていた。

 そして、息を飲む。

 鏡の中に、見知らぬ階段が映っていた。

 古い木の段。手すりは黒ずみ、奥へ奥へと沈み込んでいる。

 しかし、現実の部屋にはそんな階段など存在しなかった。

 鏡の中で、階段がかすかに動いた。

 まるで“生きている”かのように、影がうごめく。

 そして、どこか遠くから、子供のすすり泣く声が聞こえた。

「……誰か、いるのか……?」

 望月の声は、かすれていた。

 その声に答えるように、鏡の中で階段の下闇が揺れた。

 床の隙間から、白い指先が一本、ゆっくりと伸びてくる。

 透けるように細い手。湿った冷気をまとい、まるで水の底から浮かび上がるように、彼の足もとへと伸びてきた。

 望月は叫び声をあげた。

 次の瞬間、背後でドアが激しく閉まった。

 振り返る間もなく、扉の向こうから何かがぶつかるような音が響いた。

 まるで、“中”から誰かが押し戻そうとしているように。


 翌日、管理会社から電話があった。

 「303号室はしばらく封鎖します」と、淡々とした声で告げられた。

 数年前、そこに住んでいた高齢の女性が、ある夜を境に忽然と姿を消したという。

 警察も、家族も、誰も彼女を見つけられなかった。

 以来、部屋は空き室のままだった。

 望月は受話器を置き、窓の外を見つめた。

 夜風が廊下を吹き抜け、遠くでかすかな音がした。

 ──ギシ……ギシ……ギシ……。

 それは確かに、階段を上り下りする音だった。

 この建物には、存在しないはずの階段。

 なのに、その音は夜ごとに近づいてくる。

 望月は耳をふさいでも、聞こえてしまう。

 やがて音は夢の中にまで入り込み、彼の心を侵食していった。


 時折、鏡の中にあの暗い階段が見える気がする。

 呼吸を止めて見つめると、階段の奥に誰かが立っている。

 小さな影。

 こちらを見上げるように。

 望月はその影から目を逸らすことができない。

 逃げようとしても、耳の奥で階段がきしみ、足元が冷たくなる。


 そして、思うのだ。

 ──いつか、自分もあの階段を降りていくのだろう、と。

 深夜、部屋の明かりを落とすたび、望月は祈るように耳を塞ぐ。

 だが、それでも音は消えない。

 閉ざされた階段の底から、誰かがこちらを見つめている。


 そして今もなお、静かに、ゆっくりと、上ってきている。

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