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ラジオ

 あのラジオを手に入れたのは、夏の終わりのことだった。

 図書館の一番奥、雑誌コーナーの裏にある古い本棚の隅。

 誰にも気づかれず、まるでそこに居場所を与えられたまま時を止めていたかのように、埃をかぶった箱の中に、ひっそりと埋もれていた。

 目にした瞬間、胸の奥に、かすかな痛みのようなものが走った。

 それは懐かしさに似ていて、しかし、どこか得体の知れないものでもあった。

 手に取ったそれは、手のひらほどの小さなラジオだった。

 角は丸く、金属の表面はくすんでいた。ダイヤルは曇り、かすかに錆びていたが、奇妙な温かみがあった。まるで、長い間誰かの手の中で守られていたかのように。


 気づけば僕は、そのラジオを無意識のうちに持ち帰っていた。

 家に着くと、机の上にそっと置き、ただしばらく眺めていた。

 電池を入れ、電源を入れたのは、その日の深夜二時を過ぎた頃だった。

 部屋は静まり返っていた。

 クーラーを切った空気は重く、じっとりとした汗が首筋を伝う。

 ラジオのつまみをひねると、ザーッというノイズが流れた。

 その瞬間、ほんの一瞬だけ、何かが囁いた。

「……ここは……だれも……いない……」

 かすれた声。言葉ともつかない、吐息のような響き。

 背筋に冷たいものが走った。

 だが、恐怖よりも先に、奇妙な興味が心を掴んだ。

 まるで、どこか遠くから自分が呼ばれているような感覚だった。


 それから、僕は毎晩、深夜二時になるとラジオをつけるようになった。

 時計の針がその時刻を指すと、ノイズの奥から、あの声が微かに聞こえる。

「……みえない……でも……いる……」

「……ここ……さむい……こわい……」

 最初は断片的だった言葉が、夜を重ねるたびに、少しずつ“誰かの独白”のように聞こえるようになった。

 誰かが、どこかから助けを求めている。

 あるいは、すでに戻ることのできない場所から、誰かに届かぬ想いを放っているのかもしれなかった。

 聞けば聞くほど、現実との境界がぼやけていった。


 日中の仕事中にも、電車の中でも、耳の奥にノイズが残響する。

 同僚の笑い声が、遠くの世界の音のように感じられる。

 人混みの中にいても、妙な孤独だけが心に沈殿していった。

 それでも、夜になると自然にラジオの前に座っていた。

 もはや、それは習慣ではなくなっていた。

 ラジオをつけないと落ち着かない。呼吸が浅くなり、手が震える。

 そして、ふと気づく。

 自分が依存しているのは「声」ではなく、「声があるということ」そのものだと。


 ある晩、声はいつもと違う響きを帯びて言った。

「……まってる……こっちに……おいで……」

 その瞬間、空気が変わった。

 温度ではなく、密度が変化した。

 部屋の空間がゆっくりと歪み、呼吸が重くなる。

 壁の時計の針が逆回りを始め、テレビの画面が勝手に点いた。

 砂嵐の中に、ほんの一瞬、“誰かの目”が映った。

 僕は震える手でラジオのダイヤルを回した。

 だが、どの周波数に合わせても、同じ声が聞こえ続けた。

「きみは……もう……帰れない……」


 その夜、僕は夢を見た。

 深い霧の中、古びた建物が浮かんでいる。

 屋上に、誰かが立っていた。白いシャツ。背を向けたまま動かない。

 僕は直感的に、それが「自分自身」であることを理解していた。

 誰もいない夜の街。

 ノイズが風のように吹き抜けていく。

「……どうして……見つけたの……」

 目を覚ましたとき、ラジオの音は消えていた。

 けれど、耳の奥ではまだ、あの声が響いていた。


 数日後、町に異変が起き始めた。

 深夜になると、誰かがマンションの廊下を歩いているという噂。

 近所の老婆が突然姿を消した。

 夜中の公園で、誰もいないブランコが揺れていた、と子供が言った。

 だが、それを口にする大人たちは、皆、うまく言葉にできないように口を濁した。

 まるで、その話題に触れること自体が何かを呼び寄せてしまうかのように。


 ある夜、僕はとうとう問いかけた。

「……君は、誰なんだ? 何が、したいんだ……?」

 返ってきたのは、初めての“沈黙”だった。

 ノイズすらない、真空のような静寂。

 その静けさこそが、何よりも恐ろしかった。

 息が詰まる。空気が凝固し、時間が止まったように思えた。

 そして、その沈黙の奥から、声が囁いた。

「……今度は、君が……話す番だよ……」


 それ以来、僕は気づくとラジオに語りかけていた。

 昼間の出来事、夢の内容、心の奥の孤独、誰にも言えない秘密。

 ラジオは何も答えない。ただ、黙って受け止めているように見えた。


 けれど、ある晩、声が変わった。

 それは、僕の声だった。

 録音した覚えはない。

 だが確かに、それは僕自身の声で、僕の言葉だった。

「寂しい……誰も、わかってくれない……」

 その瞬間、悟った。

 あの声は、僕の心を反射していたのだ。

 孤独、不安、怒り、悲しみ……

 全てが、ラジオを通して形を得て、こちらへ返ってきていた。

 もしかして、最初にこのラジオを使った“誰か”も、同じように……?


 部屋の隅に、いつの間にかノートが置かれていた。

 開くと、細い文字でびっしりと、何百ページにもわたって“声”が綴られていた。

 ページの最後に、こう書かれていた。

『ようこそ。これからは、君の物語が始まる。』


 今夜もまた、僕はラジオの前に座る。

 スイッチを入れると、ノイズの向こうに“声”が浮かぶ。

 それはもう、外からではなく、僕の中から聞こえていた。

 僕はまだ、この物語の続きを聞いている。


 そして、いつか、その声に呼ばれる日が来るのを、恐れながらも、どこかで待っている。

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