夏が終わらない村4
4・境の森の石段
朝起きると、セミの声がまた部屋を満たしていた。
カナカナカナカナ……
昨日よりも、少し音が大きくなっている気がした。まるで、耳の奥に直接響いてくるように。
足元を見た。そこに、本当に落ちていた。
セミの抜け殻。
拾い上げようとした瞬間、思わず手を止めた。
動いたらどうしよう。
昨日、境の森で見たあれのことが頭から離れない。抜け殻のくせに、確かに動いた。目があった。
あの気配は、夢ではなかった。
朝ごはんのとき、母にそのことを話そうとしたけれど、やめた。
母の様子が、明らかにおかしい。昨日よりさらに顔色が悪く、ぼんやりとテレビを見つめている。
「……また延長戦なのね。昨日も同じ試合だった気がするけど……」
そう言って笑った母の目は、どこかうつろだった。何度も繰り返す八月十六日のなかで、母の心も少しずつ擦り減っているのかもしれない。
私は黙って席を立ち、悟と約束した場所へ向かった。
昼すぎ、境の森の入り口で悟が待っていた。
「君の家にも、抜け殻が現れたんだろ?」
「わかったの?」
「迎えが近づいてる。あの殻は、空照さまの眼。見つめられるってことは、選ばれかけてるってことなんだ」
悟の言葉は穏やかだったけど、背筋が冷えた。
「空照さまって……本当にいるの? 人の形をしてる何か?」
「形は、そのときによって違うって聞いた。けど、顔がないのは共通してるらしい。人の記憶の中の、夏の記号でできてる存在なんだって」
私は首をかしげた。
「夏の記号?」
「セミ、浴衣、縁側、夕立、花火、入道雲、田舎の風景…… 空照さまは、その全部の最後の瞬間を集めて生きてる。だから、夏が終わると存在できなくなる」
「だから、この村は八月十六日を繰り返してるの……?」
悟はうなずいた。
「ここに夏の終わりが来ない限り、空照さまはこの村を離さない。そして、誰かがそのための代償に選ばれる」
そのとき、また耳鳴りのように、セミの声が響いた。
悟が石段を指さした。
「行こう。核心に近づく。……でも、危ないよ。見たものを忘れるか、狂うか、戻ってこれなくなる可能性もある」
それでも、私はうなずいた。
戻れなくなるかもしれなくても、このまま夏が繰り返されるだけの世界にいる方がずっと怖かった。
石段は、苔に覆われていて、踏むたびにぬるりとした感触がした。まわりは鬱蒼とした木々。空はもう見えない。
何段上ったのか分からなくなった頃、石段の先に、ぽっかりと空間が開いていた。
そこにあったのは、大きな石の鳥居だった。
朱塗りがほとんど剥がれ落ち、脇にはぼろぼろになった絵馬が風に揺れている。その奥には、小さな社。
でも、社の周りに、人が立っていた。
十人以上。老若男女。全員が白い浴衣を着て、うつむいて動かない。
「……あれは?」
悟が、声を絞り出すように言った。
「過去に迎えられた人たち……たぶん」
私は声が出なかった。誰かがこちらを見たような気がして、目をそらした。
そのとき、社の奥から顔のない何かが、こちらにゆっくり歩いてきた。
人間のような輪郭。でも目も鼻も口もない。ただ、顔の位置にだけ、無数のセミの抜け殻が張りついていた。
その存在を見た瞬間、頭の中で何かがぶちっ、と切れた。
「ひな……っ!」
悟の声が聞こえる。でも、足が動かない。
顔のないそれが、私に手を伸ばしてくる。
そして、
「陽菜……」
声がした。その声は、私が子どものころに亡くした、祖母の声だった。
私は、咄嗟に一歩、前に出そうとした。
でも、その手を悟が、掴んで引き戻した。
「ダメだ……陽菜、見ちゃダメだ!」
私は倒れ込んで、意識が真っ白になった。
最後に聞こえたのは、セミの大合唱と、悟の、涙まじりの叫び声だった。




