静かな部屋4
4 部屋の中の話
カチャリ。
鍵の開く音が、やけに乾いて響いた。
森下奈緒の部屋は、六畳ほどのワンルーム。リビングの隅に小さなキッチンがあり、壁際には低い棚が置かれ、その上にはティーカップと本が整然と並んでいた。
「どうぞ、靴はそのままでいいですよ」
そう言われたが、加賀見は無意識に靴を脱ぎ、部屋の中へと足を踏み入れた。
不思議な空気だった。
温度は穏やかで、風もない。家具の配置も整い、清潔で、生活感があるのに、「人の気配」だけが決定的に欠けていた。
それはまるで、住人のいないモデルルームのような、あるいは死後も整えられ続けた思い出の部屋のような空間だった。
「ほうじ茶、好きですか?」
奈緒が背を向けてキッチンに立ち、やかんに水を注いでいる。
その後ろ姿を見ながら、加賀見はなぜか、彼女の足が床に影を落としていないことに気づき、呼吸がひとつ詰まった。
(……いや、光の加減だ)
そう思い直し、部屋の中央に敷かれた黒い座布団に腰を下ろす。
天井は低く、近い。手を伸ばせば届きそうなその天井からは、わずかな木の軋みのような音が、断続的に響いていた。
ミシ、ミシ……
「ここに来たの、あなたが初めてじゃないんですよ」
奈緒が、湯気の立ち上る湯呑みを二つ、テーブルに置いた。彼女はその向かいに座り、淡く微笑む。
「どういう意味ですか?」
「この部屋、音がするんです。上から、時々。重たい足音みたいな……ね。でも、空室なんですよ。ずっと」
その空室という言葉の響きが、やけに冷たく感じられた。
「それって……前に住んでた人の、名残とか?」
奈緒は湯呑みに口をつけてから、視線を天井へと向けた。
「違うんです。いるんですよ。たぶん、ずっと。誰かが」
その言葉の中には、あってはならない何かを日常の言葉に落とし込もうとするような、不自然な平静が滲んでいた。
加賀見はゆっくりと息を吸い込み、耳を澄ませた。
――コツ、コツ……ミシ……
確かに、歩く音がする。
それも、明らかに人の歩幅と重さを感じさせるような、沈んだ音だった。
奈緒が続ける。
「音は、だんだん近づいてきます。最初は天井。それから壁の中……最後は、すぐそばで聞こえるようになる」
「……そば?」
「そう。たとえば……耳元とか」
ぞわ、と加賀見の背中を何かが這い上がったような感覚。
頭の中に冷たい風が吹き込むような、現実感の希薄な寒さ。
「それ、あなたが体験した話ですか?」
「そうですね。最初は怖くてたまらなかったけど、慣れるんです。音がするのが当たり前になっていく。怖がらなければ、何もされません」
「……怖がらなければ?」
「逆に言うと、気づいた人が、連れていかれるんです」
その言葉は、あまりにさらりとしていた。
まるで、今日の天気でも告げるように、穏やかなトーンで語られる死のような何か。
「……前の住人も、連れていかれたんですか?」
奈緒は、押し入れの上にある棚から、一冊のノートを取り出した。色褪せた茶色のカバー。ページは波打ち、端が破れかけている。
「これ、置き去りにされてたんです。前の住人の……記録。読んでみますか?」
加賀見は、そのノートを手に取った。古びた紙の手触り。乾いたインクの痕。
彼は、日付の新しいページを開いた。
2023年7月12日
午前3時。
また足音がする。今度は壁の中。
誰もいないのに、ノックされた。部屋の内側から。
窓の外に、人の形が立っていた。
あれは、私じゃない。
加賀見は、震える手でページを閉じた。
耳の奥で、コン……コン……という規則的な音が、ふたたび響いてくる。
まるで、自分の脳の内側を叩かれているような不快なノック音。
奈緒は静かに立ち上がり、玄関の方を向いた。
「そろそろ来ます。今日、あなたがここに来たから……ね」
「なにが来るんですか」
奈緒は、ドアののぞき穴を覗いたあと、わずかに微笑んで言った。
「上の部屋の人ですよ。たまに、降りてくるんです」
「……そんな、バカな」
「バカなことが、ずっと続いてるのがこの部屋です。あなたも、もう気づいたでしょう?」
そして彼女は、ぽつりと呟いた。
「この部屋、音しかないのに、なぜ人が狂うのか……その理由、知りたいですか?」
加賀見の答えは、口に出すまでもなかった。
奈緒がドアに手をかける。
これまでしていた音全部が止んだ。
それは、一番の異常だった。




