赤い自販機
都内某所。深夜二時。
バイト帰りの俺は、いつもの大通りを歩いていたはずだった。引っ越したばかりでまだしっかり道を覚えていないからナビの地図に従い、スマホの光を頼りにして。
けれど、気づくと知らない住宅街の中に立っていた。
街灯はまばらで、灯っているのは頼りないオレンジ色の明かり。アスファルトの上には落ち葉が散っているのに、風ひとつ吹いていない。猫の鳴き声も、車の音もない。世界から切り離されたような静けさが、あたりを支配していた。
「……こんなとこ、あったか?」
背筋に寒気が走った。来た道を戻ろうと振り返ったとき、視界の端で赤い光がちらりと瞬いた。
路地の奥。人気のない空き地の隅に、それはあった。
ぽつんと立つ、赤い自販機。
古びているのに、確かに電源は入っている。ボタンはすべて明るく点灯していた。
だが、奇妙だったのは商品だった。
透明なペットボトル、真っ白な缶。
そこにはメーカー名もロゴも、味の表記も何もない。ただの“無地の飲料”がずらりと並んでいる。
そして、ボタンの下にはこう書かれていた。
「眠りたい人へ」
「忘れたい人へ」
「やり直したい人へ」
「会いたい人へ」
「死にたい人へ」
ぞわりと鳥肌が立つ。冗談か、イタズラか。けれどこの場にいると、そんな軽い言葉では片づけられない重さがあった。
俺はなぜか無意識のように「会いたい人へ」のボタンを押していた。
キン、と冷たい音を立てて、缶が落ちてきた。
真っ白な無地の缶。手に取ると、ひどく冷たかった。
一瞬迷ったが、俺はプルタブを開けて口をつけた。
味は、何もなかった。甘くも苦くもない。まるで空気を飲み込んでいるような感覚。
その直後。
圏外だったはずのスマホが震えた。
通知を開くと、そこに名前があった。
三年前、事故で死んだ彼女の紗季。
メッセージには一行だけ。
「久しぶり。会えるよ、今から」
「……は?」
手が震えた。急いで画面を確認したが、そのメッセージは跡形もなく消えていた。
気のせいか、夢でも見ているのか。そう思った瞬間、背後から声がした。
「来てくれたんだね」
振り返ると、そこに、紗季が立っていた。
事故に遭う前と同じ服、同じ髪型、同じ笑顔。
けれど、目だけが笑っていなかった。
「一緒に帰ろうよ」
彼女が差し出す手。俺は咄嗟に一歩下がった。
「……違う。紗季じゃない」
そう言った瞬間、彼女の顔がぐにゃりと崩れた。
目も鼻も口も中心にめり込み、粘土のように溶け、崩れていく。
「どうして……飲んだくせに……」
叫び声とともに、その“何か”は霧のように消えた。
次の瞬間、視界が暗転し、俺はその場に倒れ込んだ。
気づくと、俺は大通りの歩道に立っていた。
自販機も、路地も、何もなかった。
「……夢、か?」
だがポケットには、空になった白い缶が残っていた。冷たさも、重さも、確かにある。
数週間後。
俺はネットの掲示板で、とあるスレッドを見つけた。
【都市伝説】赤い自販機を見た奴いる?
書き込みには、俺と同じ体験談が並んでいた。
・深夜に現れる
・商品には「願望」が書かれている
・飲むと願いが“叶う”が、必ず代償がある
・二度使った者は、二度と戻ってこない
あるレスが目に留まった。
「“会いたい人へ”を押したら、死んだ親父が現れた。嬉しかったけど、最後は“あっちに引っ張られそう”になった。
だから缶は捨てない方がいい。お守りになる」
俺は未だに、あの缶を捨てられずにいる。机の引き出しの奥で、空っぽのまま眠らせている。
だが最近、缶の底に、黒い文字が浮かび上がってきた。
「次は、“あなたの番”です」
もし、夜の路地で赤い自販機を見かけたなら。
決して、ボタンを押してはいけない。
どんなに眠りたくても、どんなに忘れたくても、どんなに会いたくても。
その代償は、必ず“生きているあなた自身”に返ってくるのだから。




