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第14話 涙のキス

耳が痛くなるような静寂な病室。

ベッドに横たわる秋月さんと、枕元の丸イスに腰掛けているわたし。

その間で、控えめな明かりを灯す電気スタンド。

そんなほのかな明かりが、白い病室の壁に、大きくぼやけたわたしの影を映し出していた。


驚いて言葉も出ない。


結婚していたこと。

娘がいたこと。

そして・・・その娘を亡くしていたこと。


その全てが、わたしの知らない秋月さんだった。

どこか物憂げな雰囲気があったのは、こんな悲しい過去があったからだったんだ。


「僕に残された6ヶ月。」


「・・・。」


「その間に、絵を一枚描こうと思ったんだ。」


「絵?」


秋月さんは、ゆっくりと頷く。


「学生時代に好きだった絵を・・・『生きた証』を遺したかったんだ。」


「生きた・・・証。」


「でも、描きたいものが見つからない。」


「・・・。」


「時間だけが過ぎていって・・・もうダメかと思いかけていた。」


「・・・。」


「そんな時、キミに出会ったんだ。」


死ぬことしか考えていなかったわたし。

『生きた証』を遺すために、あがいていた秋月さん。

そんなわたしたちが出会ったのは、あの雑居ビルの最上階。


9月の青空。

屋上特有の乾いたビル風。

あちこちがさび付いた貯水槽。


あの場所のことは、わたしの記憶に細かく残っている。

わたしにとって、特別な場所だから。


「なんで、わたしを描こうと思ったの?」


思い切って、前から思っていた疑問をぶつけてみた。

秋月さんは、笑みとともに答える。


「キミが・・・天使に見えたからだよ。」


天使?

わたしは、呆気にとられた表情で、秋月さんを見た。

秋月さんは、「くくく。」と意味ありげに笑った。


「だって、キミは僕を救ってくれた。」


え?え?

救ったことなんかない。

むしろ、わたしの方がたくさん救われたのだから。

でも、秋月さんは笑うばかりで、それ以上答えようとしなかった。


やがて、わたしたちが押し黙ると、再び部屋はシンと静まり返る。

そんな中で聞こえてくるのは、秋月さんの少し荒い呼吸・・・苦しそうな吐息。

いつの間にか、秋月さんの額には汗が滲んでいた。


わたしは、ハンカチを取り出して汗を拭く。

そして、ナースコールボタンのある場所を確認しようと、辺りを見渡した時、秋月さんは「いいんだ。」と言った。

ハッとしたわたしは、秋月さんの顔を見る。


「キミは、まだ・・・死にたいと思ってる?」


・・・え?

唐突な質問に少し驚いたけど、でも、すぐに思い出した。

初めて会った時、貯水槽の傍らに一緒に座った時の秋月さんの台詞だ。

あの時は・・・わたし、返事をしなかったっけ。


「もう・・・思ってないよ。」


わたしは、首を横に振りながら答える。

それが、今のわたしの本音。

もう、あの時とは違うんだ。


秋月さんは、じっとわたしの目を見ている。

でも、わたしは瞳をそらさない。


だって、美佳と約束したんだから。

それは、とても大切な約束だから、もう自ら命を絶つなんて考えられない。

本当に、そう思うから・・・瞳をそらさなかった。


目を合わせていたのは、ほんの数秒。

秋月さんが、根負けしたように、ふっと微笑みながら言った。


「やっぱり、僕は・・・キミに出会えて、本当に良かったよ。」


その笑顔は、今まで見せたどんな笑顔よりも蕩けるような笑顔だった。

・・・なんて、素敵な、嬉しそうな笑顔をするんだろう。

思わず、胸がドキドキしてしまう。


わたしは、その笑顔に心をときめかせ、まるで最後のお別れのような言葉にキューッと心が締め付けられる。


例え、受け入れたくない現実だとしても。

例え、受け入れなくてはいけない現実だとしても。

例え、それが頭の中でわかっていたとしても。


割り切ることなんて・・・出来ない。

出来るわけが・・・ない。


もし、『奇跡』というものが存在するなら、今、ここで起きてほしいと思う。


一度だけでいいんだ。


もう一度だけ・・・あの夕陽を一緒に見たい。

あの鮮やかなオレンジ色に染まった街並みを。


そんな、ささやかな奇跡を・・・もう一度だけ。


でも、そんなことを考えるわたしの顔は、ひょっとしたら泣きそうだったのかもしれない。


「・・・泣かないで。」


秋月さんの言葉に、ハッとなるわたし。

そして、さっきのように、蕩けるような笑顔で秋月さんは言う。


「キミには、きっと・・・笑顔の方が似合うから。」


また、顔が赤くなったのがわかった。

そんなこと言われたの初めてだよ。


なんだか、肩の力が抜けて、心が落ち着いたような気がする。

・・・なんでだろう。

背中がむず痒くなるようなことを言われたからかな。


不意に、秋月さんの掛け布の中から、ごそごそという音がした。

一瞬、何の物音かわからなかったので、首を傾げていると、ゆっくりと掛け布の中から現れた両手が、わたしを手招きする。

そして、秋月さんは、優しい笑顔で「おいで。」と言った。


あの雨の日のことを思い出す。

抱き締めてもらいながら、胸がドキドキしていたことを。

そして、今も、わたしの胸はドキドキしている。

あの雨の日と同じように。


わたしは、ベッドの前に跪くと、秋月さんの身体に負担を掛けないよう、ゆっくりとわたしの頭と両手を、秋月さんの胸板に乗せた。

そして・・・秋月さんの左手が、わたしの背中をふわりと包み込む。


背中のパジャマ越しに感じる、秋月さんの手は、暖かかった。

その左手が、背中をぽんぽんしてくれている。


「暖かいね。」


秋月さんが囁きに、わたしは「・・・うん。」と答える。

わたしも、秋月さんも・・・もう言葉を発しなかった。

お互いがお互いの温もりを、確かめ合うように。


心の底から安らぎを感じた、あの雨の中。

その雨の中で、確かに信じることの出来た、わたしの居場所。

それは、今にも消え入りそうだけど、とても大切な場所。


だから・・・


・・・いつまでもこうしていたい。

・・・このまま、時が止まってほしい。


ただひたすら、そう願った。


雲に隠れていた月が、また顔を出し、窓から、うっすらと差し込む優しい月光。

さっきより、わずかに明るさを増した部屋。


わたしの背中を優しく叩く秋月さんの掌の体温が、今は無性に愛おしかった。




この静まり返った夜の病室で、どれくらいこうしていただろう。

とても長い時間だったような、あっという間だったような。


突然、秋月さんの小さい呟き声が病室に響いた。


「この間・・・夢を見たんだ。」


「・・・夢?」


「キミが、鳥になって・・・空を飛んでいく夢を。」


「・・・それは、楽しそうだね。」


「少し、よろめきながら・・・でも、すごく気持ち良さそうに・・・。」


「・・・。」


「もう・・・大丈夫だね・・・。」


「?・・・あき・・・づきさん?」


返事はなかった。

その代わりに、わたしの背中をぽんぽんしてくれていた左手が、ぜんまいが切れたように、ゆっくりと・・・止まる。


こらえていた涙が、瞳から溢れた。

まるで、堰を切ったように。


イヤだよ・・・。

一人にしないでよ・・・。

お願いだから・・・もっと一緒にいてよ・・・。


そして、わたしの中の本音が、口から漏れる。


―――もう・・・一人じゃ生きていけないから。


あの12歳の夏から、わたしは、ずっと一人だった。

忌々しい灰色の世界は、一人では決して抜け出せなかった。

でも、秋月さんと出会い、わたしは一人じゃなくなった。

二人だったから、わたしは少しだけ強くなれた。

二人だったから、わたしは『楽しい』という気持ちを思い出せた。

だから、もう戻れない。

もう、一人にはなりたくない。


そう思った瞬間だった。


「・・・それでいいんだよ。」


秋月さんの囁き声に、驚いて顔を見上げる。


「人は、一人じゃ生きていけないものだから。」


それは、聞き取るのも困難な、小さな声だった。


「辛い時は、寄り添えばいい。」


まるで、最後の力を振り絞るかのように。


「苦しい時は、頼ればいい。」


聞き逃したりしないように、わたしは・・・ただ耳を澄ました。


「キミは、・・・一人なんかじゃない・・・。」


涙は、途切れなく頬を伝う。

いつまでも尽きない涙。

でも、今だけは、いくら泣いたっていいじゃないか。

次々に零れ落ちる涙が、秋月さんのパジャマを濡らしていく。


12歳の夏。

わたしを気遣って、笑うのをやめた美加。

それが、美加の優しさ。


でも、わたしは、笑わなくなった美加を見るのが辛かった。

だから、わたしは、美加の優しさから逃げてしまったんだ。

美加だって、きっと辛かったはずなのに、そんなことに気づきもせずに、ただ、二人で傷つけあってしまった。


もし、あの時、美加の優しさから逃げることなく、正直に自分の想いをぶつけることが出来ていたら・・・。

美加の優しさに寄り添うことが出来るほど、わたしの心が強かったら・・・。

きっと・・・わたしたちは、今でも親友でいられたに違いない。


―――辛い時は、寄り添えばいい。

―――苦しい時は、頼ればいい。


まるで魔法のような言葉。

その言葉は、あの12歳の夏に、わたしが取るべきだった正しい選択肢を教えてくれた。

同時に、これから、わたしが進むべき未来への歩み方も、はっきりと示してくれたような気がした。

一気に胸が軽くなり、心の表面を覆っていた氷が解けたような気分になる。


・・・でも、秋月さんの声は、もう聞こえない。

わたしは頭を起こして、秋月さんの顔を見る。

あの涼しげな瞳は、もう閉じられていたけど、かすかに唇が動いた。


「ありがとう・・・。」


多分、そう言ったと思う。

そして、唇は動かなくなった。

残されたのは・・・淡い明かりと静寂。


・・・奇跡は、起きなかった。


『キミに出会えて、本当に良かった。』


そう言った時の、あの秋月さんの蕩ける様な笑顔を・・・もう見ることはないだろう。

それは、とても悲しいことだけど、今は、憑き物が落ちたように、澄んだ気持ちになれたことが同じくらい嬉しかった。


最後まで、わたしを救ってくれた、わたしの大切な人。


―――好きだよ。


わたしは、そう呟きながら、顔を、彼の顔に近づけた。

自分の唇が、彼の唇に触れる。


生まれて初めてのキスは、涙の味だった。

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