第12話 どうして
夜の9時が、この病院の消灯時間。
ちなみに、面会時間は8時までだ。
消灯されると、部屋は真っ暗になるし(電気スタンドは備え付けられてるけど)、廊下も薄暗くなるのでちょっと怖い。
だから、消灯時間前にトイレに行っておかないと。
わたしは、ベッドから降りると、スリッパを履いて部屋を出た。
この消灯前の時間には、わたしと同じようにトイレに来る人が結構多いはずなのに、今日に限って誰もいなかった。
用を済ませたわたしは、手を洗いながら鏡を見る。
少しうかない表情。
その理由は一つだった。
『結局、秋月さんはお見舞いに来てくれなかった・・・。』
夕方の回診で、主治医の先生が「明日、退院していいですよ。」と言ってくれた。
本来なら、喜んでいいことだろうけど、どうしても引っかかってしまう。
必ずお見舞いに来てくれるはずだと信じて疑わなかったのに・・・来てくれないうちに退院しなくてはいけないのだから。
来てくれなかった理由は、いろいろと考えられる。
交通事故にでも遭って、動けないでいる・・・とか。
わたしという女の取扱いの面倒くささに耐えかねて、逃げ出してしまった・・・とか。
・・・イヤイヤ。
もうちょっと、ノーマルな理由があるはずだ。
例えば、『仕事が忙しいから』とか。
・・・!?
そういえば・・・何の仕事をしているんだろう?
29歳だし、学生時代に絵を・・・みたいなことを言っていたから、少なくとも今は学生じゃないと思う。
だけど、いつも昼間しか会わないし、その時の格好は比較的ラフ。
少なくとも、会社員とかではなさそうだ。
よく考えたら、わたしは秋月さんのことを何も知らない。
どこに住んでいるのか。
何をしているのか。
そして・・・あのリストカットの痕のことも。
ふと、蛇口の水が出しっぱなしだったのに気づき、慌てて止める。
わたしは、ハンカチで手を拭きながら、モヤモヤした不安を吐き出すように、ため息をついた。
部屋に戻って、ベッドの中に入り込み、消灯時間を待つ。
間もなく、遠くの部屋からノックの音と、「電気消しますね。おやすみなさい。」という看護婦さんの声と、「パチッ」というスイッチの音が聞こえ始めた。
それが、だんだん近づいてきて、自分の部屋の番になり、ノックとともに入ってきた看護婦さんは、他の部屋と同じように電気を消していった。
真っ暗になった部屋。
窓から入る月光が、部屋の中をうっすらと照らし出す。
わたしは、目を開けたまま、天井を見つめた。
秋月さん・・・。
わたし、すごい子とお友達になったんだよ。
他愛のないことかもしれないけど・・・今すぐにでも伝えたいのに。
自分がまだ生きていることがわかって、どれだけ嬉しかったか、ということも。
とにかく、秋月さんに伝えたたいのに。
どうして、こんなに会いたいんだろう。
どうして、こんなに不安なんだろう。
あの雨の中、わたしを抱き締めてくれたことを忘れてなんかいないのに。
何故か、不安が消えない。
・・・もう会えない?
「そんなバカな。」と思う。
そんなはずはないんだ。
きっと、明日の退院の時に、花束か何かを持って現れたりするんだよ。
たまに唐突なことをするヘンな人なんだから。
・・・そうだとすると、まいったな。
退院に付き添ってくれる予定の母親とかち合っちゃう。
なんて説明しよう・・・秋月さんのこと。
本当に・・・まいっちゃうな・・・。
・・・。
わたしは、いろいろなことを考えながら、そのまま寝入ってしまった。
月が雲に隠れ、月光さえ入らなくなった真っ暗闇の部屋の中。
ドアがノックされる音で、わたしの目が覚める。
・・・?
枕元の時計は、もう1時を回っていた。
こんな時間にノック?
少しドアが開いて、聞き慣れた斉藤さんの声が暗闇に響いた。
「くるみちゃん。起きてる?」
小声で言いながら、入ってきた斉藤さんは、わたしが起きていることを確認すると、枕元まで来てひそひそと話しかける。
「こんな時間にごめんなさいね。ちょっといい?」
わたしは、少々寝ぼけまなこだったけど、斉藤さんは今晩夜勤だったのか・・・なんて思いながら頷いた。
「くるみちゃんを病院まで運んでくれた、あの秋月さんのことなんだけど・・・。」
ドキッとした。
まさか、斉藤さんの口からその名前が出てくるとは思ってもみなかった。
「実は、さっき・・・11時頃かしら。この病院に搬送されてきているの。」
「えっ!」
わたしは、声を出して驚いた。
『なぜ?』という疑問が、頭の中を駆け巡る。
どこかケガでもしたんだろうか。
いっぺんに眠気が吹き飛んでしまったわたしは、ベッドの上で上半身だけ起きて斉藤さんを見た。
斉藤さんは、真剣なまなざしで、言葉を続ける。
「くるみちゃん。落ち着いて聞いてね。いい?」
気を持たせるような言い方をする斉藤さん。
正直、「じれったいな。」と思いつつ、頷いて次の言葉を待つ。
「・・・秋月さんは『末期癌』なの。」
・・・え?
ガン?
マッキ?
一体、何を言っているんだろう?
冗談にしか聞こえない。
わたしは、首を傾げた。
「秋月さんと話をすることが出来るのは、今しかないかもしれない。」
イマシカナイカモシレナイ?
斉藤さんの顔を見ながら、この病室が、急に現実感がなくなったような気がした。
まるで、夢の続きでも見ているかのような。
でも、とても真剣な斉藤さんの表情から、とても張り詰めた空気を感じる。
その雰囲気が言っている・・・これは本当のことだと。
「病室まで案内するから、来て頂戴。いいわね?」
・・・正直言って、状況がよく飲み込めていない。
でも、会えるのなら、会わなくちゃ。
会えば、何もかもハッキリするだろう。
わたしの頭は、そんな明確な答えをはじき出す。
わたしは即座にベッドを降りて、斉藤さんに向かって力強く頷く。
斉藤さんは答えるように頷き、音を立てないように、こっそりとドアを開けた。
そのまま廊下の様子を伺ってから、わたしを手招きする。
エレベーターに乗ってワンフロア上の7Fへ。
深夜の病棟の廊下は不気味だった。
他の入院患者に迷惑にならないように、まるで泥棒のように、こそこそと廊下を歩くわたしたち。
7Fに到着し、斉藤さんがエレベーターを降りると、わたしもそれに続いた。
斉藤さんは、『秋月幸太』のネームプレートのある個室の前で立ち止まり、小さくノックをしてからドアを開け、わたしに部屋に入るよう促す。
胸がドキドキと高鳴っていた。
この静かな病室に、心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思えるくらい。
こんな時間だから当然だけど、部屋の蛍光灯はついていない。
ついているのは、ベッド脇の電気スタンドの明かりだけ。
その明かりの中に浮かび上がっているベッドには、誰かが寝ているようだった。
ただ、起きてくる気配はない。
見舞い客用の丸イスを、斉藤さんはベッドの枕元近くに置いてくれた。
ここに座れ・・・と言うことだろう。
「何かあったら、すぐにナースコールボタンを押して、ね?」
斉藤さんは、小声でわたしに告げる。
わたしが頷くと、斉藤さんはドアを開けて退室していった。
残ったのは、しゃべるのがはばかられるような静けさ。
とりあえず、わたしは、丸イスに座ってベッドの中の顔を覗き込んだ。
「―――っ!」
その顔は、間違いなく秋月さんだった。
ただし、いつもの銀色フレームのメガネはかけていない。
そして、寝ているのではなく、いつもよりも弱い眼光で、わたしを見つめている。
顔色も悪く、頬も多少こけていた。
あれからたった1週間。
なぜ、こんなに変わってしまったのか、わたしは信じられなかった。
顔をこちらに向けることすら億劫そうに、でも彼は嬉しそうに口を開いた。
「ありがとう・・・来てくれて。」
弱々しい口調だった。
こんなに静かな病室でなかったら、聞き取ることが困難だったかもしれない。
困惑し、しゃべることすら出来ないわたし。
そんなわたしを見ながら、彼は言葉を続けた。
「別に、隠すつもりはなかったんだ。」
「・・・。」
「実は、甲状腺の悪性腫瘍でね。」
「・・・。」
「見つかった時は、手遅れだった。」
「・・・。」
「今年の3月に、余命6ヶ月の宣告を受けたんだよ。」
今は9月。
簡単な計算結果に、目の前が一瞬暗くなった。
甲状腺の悪性腫瘍。
余命6ヶ月。
これだけで、目の前の状況を把握することが出来るはずなのに、やっぱりわたしには理解できない。
いや、理解できないというよりも、理解することを拒んでいるのかもしれない。
「どうして・・・。」
わたし、死なずに済んだんだよ?
美佳ちゃんだって、成功率40%の手術に打ち勝って、生きてるんだよ?
なのに・・・どうして、秋月さんだけが死ななくちゃいけないの?
「どうして・・・。」
つい先週までは、あんなに元気そうだったのに。
「どうして・・・。」
わたしは、オウムのように、同じ言葉を3回繰り返していた。
目の前の状況が、著しく理不尽なものに感じられて仕方がない。
その理不尽さが、目の前の状況を、そのまま受け入れることを拒否していた。
そんなわたしの『どうして?』に、秋月さんは答える。
「・・・罰・・・かな。」
「罰?」
唐突な単語。
何が何の『罰』なのか・・・さっぱりわからない。
わたしは、丸イスに座ったまま、秋月さんを見ながら首を傾げた。
そんなわたしを、彼は涼しげな瞳で見つめる。
いつもの笑顔で。
でも、少しだけ物憂げな表情で。




