【第一部】 第一話 違和感
雨は降っていなかったが、アスファルトは湿っていた。夜明け前の空気は薄く、街灯の光が道路に鈍く滲んでいる。通報は午前三時十七分。
場所は国道沿いの小さなコンビニ。強盗未遂。店員軽傷。現場到着時、犯人はすでに取り押さえられていた。
警視庁捜査一課、柴崎遼はパトカーを降りると、まず店のガラス越しに中を見た。
若い男が床に座らされ、両手を後ろに回されている。
制服警官二人が押さえ、店員の青年は椅子に座って肩を押さえていた。
血は出ていない。突き飛ばされたときに棚にぶつけたらしい。
「刃物は?」
「カッターナイフです。出しましたが、振り上げただけで未使用」
制服が簡潔に報告する。
柴崎は頷き、男を見た。二十代半ば。髪は伸び、目は充血している。
酒か、睡眠不足か。いや、その目の奥にあるのは、焦燥だ。
追い詰められた動物のような。
その瞬間だった。視界が、歪んだ。
蛍光灯の白が赤に変わる。レジ前。店員が後ずさる。男が叫ぶ。
カッターナイフが振り下ろされる。刃が喉元に食い込む。
血が噴き出し、床に広がる。店員の目が見開かれ、空気を掴むように手が動く。
――音はない。ただ映像だけが、鋭く、鮮明に。
一秒か、二秒か。現実に戻る。
男は座っている。店員は生きている。血はない。
柴崎は息を整えた。喉の奥が乾いている。
「どうした?」
隣で倉田が怪訝な顔をした。同期で、今は同じ班にいる。
「いや……」
柴崎は男から目を離さない。さっき視えたのは、何だ。
未来か。妄想か。錯覚か。
いや、あれは――現実だった。ただし、ここではないどこかの。
男は柴崎の視線に気づき、顔をしかめた。「……なんだよ」
「名前は」
「言いましたよ。村上です」
声は震えている。だが、視えた映像の男は震えていなかった。迷いがなかった。
柴崎は一歩近づく。その瞬間、また視界が裂けた。
今度は店員が刃を避けようと手を上げる。しかし間に合わない。床に崩れ落ちる。
村上はその場に立ち尽くし、呆然と自分の手を見る。血に染まった刃が、落ちる。
現実へ戻る。
村上はまだ誰も刺していない。
「……こいつ、やります」
柴崎は低く言った。
倉田が眉をひそめる。「何を根拠に」
「目だ」
自分でも曖昧だと分かっている。証拠はない。ただ、視えた。
倉田は溜息をつく。「可能性で人を裁くな。未遂だ。起訴も微妙だぞ」
可能性。
柴崎の脳裏に、さっきの映像が焼き付いている。あれは“起こり得る”ものだった。
あの男は、あの瞬間を踏み越えられる。
取調室。蛍光灯の光は無機質で、時間の感覚を奪う。
村上は椅子に座り、うつむいている。動機は借金。仕事を失い、追い込まれ、衝動的に刃物を出したと言う。
「刺すつもりはなかった」
「本当に?」
柴崎は机に手を置いた。
視えない。今は何も。
「……なかったです」
柴崎は黙る。視えないのは、何も起きないからか。
それとも、もう分岐が変わったのか。
「さっき、あんたの目が怖かった」
村上がぽつりと呟く。
「俺、あのとき、刺すつもりなかった。でも、あんたに睨まれて……」
柴崎の胸がわずかにざわつく。
「何だ」
「なんか、もう戻れない気がしたんだよ」
取調室の空気が重くなる。
その夜、村上は釈放された。強盗未遂。店員は軽傷。示談の方向。
三日後。
同じコンビニで、今度は別の店員が刺された。
防犯カメラには、村上が映っていた。今度は迷いなく、刃を振り下ろしている。
現場で、柴崎は立ち尽くした。
血は本物だった。鉄の匂いが、夜気に混じる。
視えた映像と、寸分違わぬ角度で。
倉田が言う。「……予想してたな」
柴崎は答えない。予想ではない。視えていた。
だが、あのとき強く追い詰めなければ、分岐は変わったのではないか。
自分の視線が、言葉が、あの男を押したのではないか。
救急車のサイレンが遠ざかる。柴崎はガラス越しに、血の跡を見る。
ふと、横を通った制服警官が目に入る。一瞬だけ、視界が揺れた。
制服警官が、誰かを撃つ映像。すぐに消える。
現実では、彼は何もしていない。
柴崎は息を止めた。これは、俺だけか。
それとも――
静まり返った夜明け前の空に、薄く光が滲み始めていた。
だが、柴崎の中で何かが始まったことを、まだ誰も知らない。




