表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/6

【第一部】 第一話 違和感

雨は降っていなかったが、アスファルトは湿っていた。夜明け前の空気は薄く、街灯の光が道路に鈍く滲んでいる。通報は午前三時十七分。

場所は国道沿いの小さなコンビニ。強盗未遂。店員軽傷。現場到着時、犯人はすでに取り押さえられていた。

警視庁捜査一課、柴崎遼はパトカーを降りると、まず店のガラス越しに中を見た。

若い男が床に座らされ、両手を後ろに回されている。

制服警官二人が押さえ、店員の青年は椅子に座って肩を押さえていた。

血は出ていない。突き飛ばされたときに棚にぶつけたらしい。

「刃物は?」

「カッターナイフです。出しましたが、振り上げただけで未使用」

制服が簡潔に報告する。

柴崎は頷き、男を見た。二十代半ば。髪は伸び、目は充血している。

酒か、睡眠不足か。いや、その目の奥にあるのは、焦燥だ。

追い詰められた動物のような。

その瞬間だった。視界が、歪んだ。

蛍光灯の白が赤に変わる。レジ前。店員が後ずさる。男が叫ぶ。

カッターナイフが振り下ろされる。刃が喉元に食い込む。

血が噴き出し、床に広がる。店員の目が見開かれ、空気を掴むように手が動く。

――音はない。ただ映像だけが、鋭く、鮮明に。

一秒か、二秒か。現実に戻る。

男は座っている。店員は生きている。血はない。

柴崎は息を整えた。喉の奥が乾いている。

「どうした?」

隣で倉田が怪訝な顔をした。同期で、今は同じ班にいる。

「いや……」

柴崎は男から目を離さない。さっき視えたのは、何だ。

未来か。妄想か。錯覚か。

いや、あれは――現実だった。ただし、ここではないどこかの。

男は柴崎の視線に気づき、顔をしかめた。「……なんだよ」

「名前は」

「言いましたよ。村上です」

声は震えている。だが、視えた映像の男は震えていなかった。迷いがなかった。

柴崎は一歩近づく。その瞬間、また視界が裂けた。

今度は店員が刃を避けようと手を上げる。しかし間に合わない。床に崩れ落ちる。

村上はその場に立ち尽くし、呆然と自分の手を見る。血に染まった刃が、落ちる。

現実へ戻る。

村上はまだ誰も刺していない。

「……こいつ、やります」

柴崎は低く言った。

倉田が眉をひそめる。「何を根拠に」

「目だ」

自分でも曖昧だと分かっている。証拠はない。ただ、視えた。

倉田は溜息をつく。「可能性で人を裁くな。未遂だ。起訴も微妙だぞ」

可能性。

柴崎の脳裏に、さっきの映像が焼き付いている。あれは“起こり得る”ものだった。

あの男は、あの瞬間を踏み越えられる。

取調室。蛍光灯の光は無機質で、時間の感覚を奪う。

村上は椅子に座り、うつむいている。動機は借金。仕事を失い、追い込まれ、衝動的に刃物を出したと言う。

「刺すつもりはなかった」

「本当に?」

柴崎は机に手を置いた。

視えない。今は何も。

「……なかったです」

柴崎は黙る。視えないのは、何も起きないからか。

それとも、もう分岐が変わったのか。

「さっき、あんたの目が怖かった」

村上がぽつりと呟く。

「俺、あのとき、刺すつもりなかった。でも、あんたに睨まれて……」

柴崎の胸がわずかにざわつく。

「何だ」

「なんか、もう戻れない気がしたんだよ」

取調室の空気が重くなる。

その夜、村上は釈放された。強盗未遂。店員は軽傷。示談の方向。

三日後。

同じコンビニで、今度は別の店員が刺された。

防犯カメラには、村上が映っていた。今度は迷いなく、刃を振り下ろしている。

現場で、柴崎は立ち尽くした。

血は本物だった。鉄の匂いが、夜気に混じる。

視えた映像と、寸分違わぬ角度で。

倉田が言う。「……予想してたな」

柴崎は答えない。予想ではない。視えていた。

だが、あのとき強く追い詰めなければ、分岐は変わったのではないか。

自分の視線が、言葉が、あの男を押したのではないか。

救急車のサイレンが遠ざかる。柴崎はガラス越しに、血の跡を見る。

ふと、横を通った制服警官が目に入る。一瞬だけ、視界が揺れた。

制服警官が、誰かを撃つ映像。すぐに消える。

現実では、彼は何もしていない。

柴崎は息を止めた。これは、俺だけか。

それとも――

静まり返った夜明け前の空に、薄く光が滲み始めていた。

だが、柴崎の中で何かが始まったことを、まだ誰も知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ