第82話 窮地
あけましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になり、誠にありがとうございました。本年も気持ちを新たに、より一層に励んでまいりますのでどうぞよろしくお願いいたします。
ひょっとすれば、逆行以来最大の危機かもしれない。脳をフル稼働させてみるが、これと言った打開策がひらめかず、思わず頭を抱えそうになった。
お兄様の魔法に阻まれ腹立たしそうに唸り声を上げるグリフォンがこちらを真っ直ぐに睨む。そのぎらついた眼差しに、胃の腑が縮こまるような心地がした。
1度死に近いものを経験していても、怖いものは怖い。サンダードラゴンと対峙していたときは、相手が食べ物にしか見えていなかったので例外だが、魔物とは本来最も身近な死の象徴なのである。
「(……グリフォンは食べられないしなぁ)」
条約上肉を食うことも禁止されているし、なにより全然美味しくなさそう。
改めてグリフォンを見つめてみるが、どこも筋肉質そうで全く食欲がそそられない。
ああ、でもスープの出汁として使えば……?
「なんか急に身震いしだしたな、あのグリフォン」
「そうでしょうか?」
少女を安心させるために丸めていた背を伸ばしてみるが、よくわからなかった。
私も飛び抜けて魔物に詳しいというわけじゃないからなぁ。恐らくその道に関してはお兄様の方が戦闘経験がある分詳しいはずだ。
お兄様は「気のせいか……?」と呟く。そして怪訝そうな表情を浮かべつつ、1つため息を吐いた。
「……魔物避けの柵があるのなら、有事の時のために捕獲用の仕掛けも作っていそうなものだが」
まあそんなおあつらえ向きな仕掛けはないよねぇ。そもそも誘き寄せるタイプの仕掛けなら、魔物避けの意味が無いし。
しかしお兄様の言葉に、震えるばかりだった腕の中の少女がぱっと顔を上げた。
「……捕獲のための道具はないけど、シェルターならあるよ。危なくなったらそこに逃げ込みなさいって院長さまが……」
すっと少女が伸べた指の先──グリフォンを越え、他の木々よりも大きな葉を茂らせている木の根元に檻のような物が見えた。
雨風に晒されていたせいかところどころ錆び付いており、遠目にも年季が入っているのが分かる。それでもきちんと作動するように手入れしているのか、付近の雑草は刈り取られ、蔦なども巻き付いていない。
「シェルターか……最悪の場合は逃げ込むのも手だが」
お兄様はそれだけぼやき、すぐに口を噤んでしまった。
言わんとしていることは分かる。シェルターに逃げ込めば、私達の命は助かるだろう。あのシェルターとお兄様の風系防御魔法の二重の守りならば、グリフォンの爪から丸1日防ぎきるのも夢じゃない。風魔法は攻撃よりも防御に向いているし。
けれどそれは“私達の”命だけしか救ってくれない。
グリフォンはAという極めて高位なランクを付けられているだけあって、知能は他の鳥系の魔物よりも頭1つ抜けている。こちらに攻撃が通らないと分かれば、人のいる方──王太子達の待つ孤児院側へと向かってしまう恐れがあるわけだ。
王太子やルイーズ達はまだ良いとしても、孤児達は身を守る術を持たない。最悪のケースを想定したとき、どれほどの惨状が起こるかは言うまでも無いだろう。
「……1つ、打開策を思いついたのだが」
「どんな案なのです?」
「作戦自体は単純明快さ。ここに先ほど収穫した、非常に新鮮なマタタビがあるだろう? それで、そこに外側からの攻撃も内側からの攻撃も十分に防いでくれそうなシェルター、もとい檻がある。そして相手は飛行もままならぬほど魔力を消費したグリフォン……そうだな?」
「ありますけれど……まさか」
お、お兄様? まさかそんなことはしませんよね? 私、信じてますからね……?
全身から音を立てそうなほどの勢いで血の気が引いていく。
私がお兄様の意図していることをなんとなく理解し青ざめるのと、お兄様がしてやったり顔で嗤うのは同時のことだった。
「セレナ。お前がこのマタタビを身につけて、魔力枯渇状態のあのグリフォンを適当に煽り、シェルターへと誘導する。シェルターへ飛び込んできたグリフォンをお前ごと捕まえ、逃げられないように施錠する──どうだ、完璧だろう?」
「は、はあ!? 先ほど『私が守ってやる!』の様なことを言っていたではありませんか! 第一、私一人で長時間グリフォンの爪を防ぐのは現実的ではないです!」
「安心しろ、防御は風系魔法の十八番だ。騎士団が来るまでは、私の魔法でお前をグリフォンの爪から守り続けよう。グリフォンを拘束するよりも、お前に防御魔法を張る方が、魔力消費量的にも経験的にも実現可能だからな」
確かに、お兄様の言う方法はとても魅力的な選択に聞こえる。
これならばグリフォンを捕獲できるし、少女やルイーズ達の身も守れるし、お兄様の魔法の実力に関しては疑うまでもない。誰よりも近くで過ごしてきた私が、1番理解しているつもりだ。
しかし、だがしかし! それはあまりにも手のひら返しが過ぎるのでは!?
緊急事態なのは分かるよ!? 分かるけれど、一体どこの国に妹に囮をさせる兄がいるというのだろうか!!
「で、ではお兄様がその役をやれば良いのではないでしょうか? 自分に防御魔法をかける方が慣れていらっしゃるのでは?」
「私が囮役をやるとなると、万が一誘導が上手くいかなかった場合、お前一人で少女と孤児院に居る者達を守ることになるが……問題ないか?」
ぐ、ぐう……それは責任問題的な意味でもご遠慮願いたい。
私が返答しかねているうちに、お兄様は少女と一緒にマタタビの入った籠を漁り始めてしまった。
──待って、待って下さい、私まだ心の準備が……!
こうなってしまったからには、もうどうしようもない。そう覚悟が出来たのはお兄様と少女の手によって、私の装いが貴族令嬢から草の精霊よろしくマタタビまみれになった頃のことだった。
「お兄様のバカ、いけず、人でなし……」
「大丈夫だ、セレナ。お前は前だけ見て転ばずに走ればいい。むしろ転んでも大丈夫だ。命だけは保証しよう……精神的なストレスはどうしようもないが」
信じられない……第一私は走るのが言うほど得意ではない。苦手というわけではないけれど、特段早いというわけでもなかった。運動能力に関しては全体のド真ん中、平均も平均だ。お兄様よりはマシかもしれないが、現状まともに走れる自信が無い。
……あまりの事に、グリフォンに対する恐怖心が吹き飛んでいったのは不幸中の幸いだった。
とにもかくにも私は連休が明けたらお母様に、お兄様のあることないことを吹き込むことを固く決意した。
わさわさと足を動かす度に葉の擦れ合う音が響く。
……ところで、見えない壁に怒り狂ったグリフォンの注意を引くにはどうするべきだろうか。
附属は1年の中盤頃には魔物討伐の実習が始まるとかなんとかと聞いたが、生憎これまでの私の対魔物の戦闘経験はあのサンダードラゴンとの一戦のみ。しかも私は戦闘していないという窮地。これが初陣と言っても差し支えのないレベルだ。例えば……人間だったら。何かに対して物凄く怒っていたときに、なにをされればそちらに意識が向くだろうか?一歩、また一歩と大地を踏みしめながら、脳をフル回転させて私は考える。殴る蹴るは出来ないし、そうなると石を投げることくらいしか……?一向に良い打開策は思いつかず、気がつけばグリフォンの目の前までやってきてしまった。
「(……悪口、とか?)」
……我ながら、なんて幼稚な考えだろうか。
美しいと古来からもてはやされてきたグリフォンの容姿の欠点を言い募るというのか。そもそもグリフォンはヴィレーリア語を理解できるのだろうか?
しかしまあ、理解できない言語だとしても隣で騒がれたらそれなりにイライラするかもしれない。ひとまずやってみる価値はあるかもしれない。
聖獣だ、守護獣だ、神に仕える尊きお方だと人々に崇められる対象を罵倒するだなんてきっと私が初めてだろう。そうに違いない。
「や、やーい、鳥頭……おたんこなす……尻尾が思っていたより短い……お前なんか焼き鳥にしてやる……?」
「……流石にその悪口は幼稚すぎないか? それと、お前の中では尻尾の短さが悪口にカウントされるのか? と言うか焼き鳥にするにしても、グリフォンでは鶏肉の部分が少なすぎるのでは?」
ええい、うるさいうるさい! まだ特に何も悪いことをしていないグリフォンに対しての悪口がこれくらいしか思いつかなかっただけです!
ぎろり、とグリフォンの瞳がこちらを射抜いた。何か言いたげな色をその瞳に浮かべた刹那、グリフォンは私から目を逸らし、澄み切った晴天を仰ぐ。
森を劈くような恐ろしい咆哮をあげた後、グリフォンは勢いよく大地を蹴ってこちらに駆けだした。




