驚きの恩返し ―side マール―
――退院当日。
フキさんが迎えに来る予定でした。
病室で身支度を整えていると、時間通りにフキさんがドアをノックしてくれました。
にこやかなフキさんに、引き続き丁寧に頭を下げ、入ってきた身なりの良い紳士の方、そしてもう一人、紳士に寄り添うように入ってきたのは……わたくしが助けたあの少年でした。
「始めまして、僕がこの子の父親の笹峰陽一と言います。この度は、息子の海斗を救ってくれて本当にありがとうございます。お目通りが遅くなり本当にすみません。君の身元が見事なまでに秘匿にされていたので……それとフキさんには何度も不審者扱いされてしまいまして。海斗を連れていき、やっと納得して頂けたのです」
誠意を込めて、わたくしに頭を下げているのが一目で、分かりました。
フキさんを見ると、優しく頷いて、彼女が言いました。
「あるかちゃん、あなたが入院している間に海斗君がわたしのところに毎日のように来てね……今は僕がお姉ちゃんのところへ行ったら、きっと恐いところを思い出しちゃうと思うから……と気にして、あなたが元気に退院するまで一緒に待っていたのよ」
「あるかお姉ちゃん、あの時、僕を助けてくれて本当にありがとう!」
深いお辞儀をして父親譲りの丁寧な子だと思いました。
「海斗くんか。わたしの大好きな人と同じ名前なんだよ。あなたが無事でいてくれて良かった」
わたくしは、思わず彼を抱き締めてしまいました。
彼もずっと我慢していたようで、泣きながら受け入れてくれました。
「僕ね、あるかお姉ちゃんに返さないといけない物があるんだ」
海斗くんが恥じらいながら言いました。
「返さないといけない物?」
「うん、あの時……お姉ちゃんが僕が動けないで固まってしまった時、僕を突き飛ばす時でも、この本は離さないでいたんだよ。でもあの本の長さの分だけ、僕を押し出す勢いがついて、それで僕は助かったんだ」
『勇者物語』は入院時、手元にない事はもちろん気付いていました。事故で紛失したと諦めていました。
「……それでね……あるかお姉ちゃんごめんなさい。僕勝手にお姉ちゃんの大事な本読んじゃいました。でもこの本に出てくる勇者って、きっと僕にとってはあるかお姉ちゃんなんだ」
……驚きました。わたくしが勇者?
「……間違いなく君は、海斗の勇者です。あの時、あの場面に居合わせた人達が何も出来ない中、唯一、君だけが動いてくれたのですから」
何よりの言葉でした。
「海斗くん、わたくしも海斗って言う大事な人に勇気を教えてもらったからこそ、君にその勇気を使えたの。君はその大事な海斗お兄ちゃんと同じ名前。今度は、君が勇気を持つ番だよ。お姉ちゃんから、あなたへその本はプレゼントするね。友情の証だよ」
「分かった。お姉ちゃん、どうもありがとう。僕、あるかお姉ちゃんのお兄ちゃんみたいな海斗にきっとなってみせるからね」
とっても頭の賢い子でした。
「今日はね、勇者の君に一つ提案があるんだ。その前に……」
陽一さんがスーツの懐から名刺をつまみ、わたくしへ差し出しました。
学校法人 聖名学園 理事 笹峰陽一
聖名学園……
平凡な高校生のわたくしには、縁のない超エリート校です。
陽一さんがそこの理事?
「聖名学園……よく知っています」
「うん、それなりには知られているようだね。
あるか君。君に我が学園へ編入をお願いしたいんだ」
「わたしがですか?」
「君に来て欲しいんだ。君のような勇気を持った生徒はなかなかいないし、何より真っすぐな綺麗な目をしている。そして、君は海斗の命の恩人だ。高校は未来を決める大事な出発点だ。君に最高の未来を届ける手伝いを我が学園にさせて欲しいんだ」
陽一さんの目も本気でした。
ただの高校生でしかないわたくしに、どうしてここまで?
「わたし、成績も平凡ですし、何か特化した能力もありません。そんなわたしが行ってもお邪魔になりませんか?」
「我が学園は、入学自体は、厳しく狭き門と言われているが、入学後は成績も見なければ、能力で判定を下す事もない。一つあるとすれば誠実さなんだ。それは個々の目を見れば分かる。君からはその誠実さをひしひしと感じられるんだ」
「御校の高い水準の成績や、評判の校風は、その誠実さが作り上げた賜物なのですね」
「まあ、そうなるのかな」
陽一さんがニッコリと微笑みながら答えました。
「君の過酷な過去はフキさんから聞いている。一生トラウマを抱えてもおかしくない状況を、君は見事に乗り越えているんだ。そんな才能を持った君を僕は放って置けないんだ」
「……」
「あるかちゃん、迷っているようね。聖名学園は、設備の整った全寮制だから、あなたがいなくなってくれれば、やっとこれで、わたしは隠居出来るわね」
当時わたくしがいた児童養護施設は、フキさんの加齢による経営難もあって、在籍していたのは、わたくし一人になっていました。もちろんフキさんが、わざと皮肉って、わたくしの編入の背中を押してくれているのは、痛いほど分かりました。
……わたしまだ、フキさんに何の恩返しもしていない。
わたくしが考え込んでいたのを見かねてか、フキさんは、
「……本音言うとね、もちろんあるかちゃんがいなくなったら寂しいけれど、行き場を失った子供達を支える事がわたしの役目だし、将来立派になってくれる事がわたしにとって最高の幸せよ」
すると、陽一さんが良い提案を出してくれました。
「では、まず3ヶ月ほど我が学園生活を体験してみてから、決めると言うのは? まだ精神的リハビリも必要で今すぐ決断というわけにはいかないと思うので、ゆっくり休養期間として体験してもらえれば」
「それではどっちつかずで、余計な労力使わせてしまいます」
「いや、あるか君、言ったじゃないか。君は海斗の命の恩人なんだ。もちろん学費などは考えなくていい。これは僕の提案なのだから」
「……」
「うふふ、どうやら心は決まったようね。3ヶ月学園生活試してみてから、考えを聞かせてちょうだい」
わたくしは、自分がこんなに人に思ってもらえたのが、嬉しくて、陽一さんの提案を受け入れました。
――でも今日、この退院の日がフキさんを見る最後の日になってしまうなんて、この時わたくしは考えもしませんでした。




