一話
米国にあっても日桜殿下の朝は相変わらず早い。
現地時間では午前五時、日本では夜になろうかという時間に起床する。滞在期間が多少延びたとしても体内時計の歪みは簡単に修正できずにいた。
「……さかき、おはようございます」
寝室から出てきた日桜殿下がお辞儀をしてくれる。
訪米に合わせて新調された白と紫を基調とした御子服も似合っている。
「おはようございます、殿下。よく眠れましたか?」
「……きのうよりは、すこしねむれました」
「それは重畳です」
ダイニングテーブルの前まで来ると両手を差し出してくれる。
少し大きくなったとはいえ、まだ平均よりも小さな殿下の脇を支えて、米国人に合わせたであろう背の高い椅子に座らせた。
「さぁ、まずはこちらをどうぞ」
マグカップを手渡す。
中身は飲める程度に冷ました煎茶、飲んでいる間に朝食の準備をする。
食材は現地で揃えたものばかりだが、品質には問題ない。全米に展開する高級マーケットの店長は大統領もここのものを食べていると豪語していた。なるほど、開かれた国だと実感する。
「殿下、ゆっくり飲んでください」
「……はい」
声をかけながらパンをトースターにセットしてから卵を焼く。
目玉焼きは両面からしっかりと火を入れ、塩と多めの胡椒、クミンで味付けする。こちらの卵は風味が薄く、味わいに乏しい。香辛料を効かせることで足りないものを補ってやらなければならない。
「ああ、いい匂いですね」
寝室からは殿下の着替えや寝具を整えた直虎さんがやってくる。
今回の訪米では侍従の数を最小限に抑えた。そのために直虎さんが殿下の着替えもしてくれている。
「もう少しでできますよ」
焼きあがったトーストにバターを塗り、両面を焼いた目玉焼きをはさんで皿に乗せ、殿下の前に差し出す。冷蔵庫からあらかじめ切っておいたフルーツの盛り合わせ、今日はパイナップルとマンゴー、バナナをパッションフルーツのソースで和えたものだ。
「殿下からどうぞ」
「……いただきます」
殿下が両手でパンを掴み、小さな口へと運ぶ。
日本でならば咎められるような食べ方だが、ここは米国だ。見ているのも俺と直虎さんだけなので心配はない。
「如何ですか?」
「……おいしい、です」
コップに牛乳を注ぎ、皿の横に置く。
パン食にあまり慣れていない殿下には多めの水分が必要だ。
「直虎さんもどうぞ」
「ありがとうございます、平蔵殿」
リスのように食べる殿下の様子を確かめながら、直虎さんの分もテーブルに並べていく。
「いただきます」
殿下の横に座った直虎さんも目玉焼きトーストにかぶりつく。
彼女の分は厚めのパンにマスタードを多めに使った大人仕様だ。最初の一つをものの数口で食べ終え、次に手を伸ばす。
「不味くはありませんが、味が単調ですね。これでは力が出ません。この国の大統領は毎朝このようなもので満足をしているのですか?」
「朝食は特に味より効率と栄養価を重視しているようです。歴代大統領の中には毎食をコーラとハンバーガー、という人もいたようですから」
「信じられませんね。それなのに、住んでいるのはこのような豪奢極まりないホテルというのだから私には奇異に映ります」
「確かに、そうかもしれませんね」
室内を見渡せば、ここが高層ビルの最上階に近い場所だということに実感が持てないほどの広々とした空間がある。
高い天井に真っ白い壁、きらびやかな調度品、大理石の床にふかふかの絨毯。部屋数も多く、聞けば富裕層はこうしたところを借りて住んでいるらしい。
「流石は不動産王、といったところでしょうか」
「賃貸料は相当でしょうね」
直虎さんと二人で笑い合う。
そう、ここは米国大統領となる前、不動産王としても名を馳せたデイヴィッド・デニソンが所有する超高級マンションの一室だ。
彼はワシントンDCだけではなく、各州にこうしたマンションやホテル、ビルを複数所有している。
そんな規格外の大物が毎日食べているのが、殿下や直虎さんに用意した目玉焼きサンドとフルーツボウル、そして牛乳らしい。
「殿下は如何ですか?」
「……おいしい、です。はやくたべられる、というのはよいことです」
何やら神妙な顔で頷いているのだが、当の殿下は咀嚼の回数が多くて大して早くは食べられない。ちまちまと齧っては牛乳で口の中の水分を補っていく食べ方は小動物さながらだ。
直虎さんの追加分を用意しながら、俺は先ほど試作をした残りを食べる。
パンは炭水化物、卵と牛乳はタンパク質と脂質、果物でビタミンとミネラル。量はともかくとして栄養価もある。足りないのは食物繊維くらいだ。
「確かに悪くはない」
直虎さんの言うように味はともかく、朝食としては理にかなっている。
早く食べることができれば早く仕事に移れる。短縮できるところはできるだけして、自分の好きなことに時間を使うことを是とする。
「合理……か」
この国の根幹を作るもの、その一つといっても過言ではないだろう。
「殿下、失礼します」
直虎さんがハンカチで殿下の口元を拭う。
「……ありがとうございます」
「ゆっくり召し上がってください」
二人は仲睦まじい姉妹のようだ。
特に直虎さんはかなり殿下に気を使っているように見える。
米国に渡って数日、折に触れて行われる意見交換という名の話し合いの進展は芳しくないらしい。
鷹司から釘を刺されているので内容までは聞いていないが、政府関係者や外務省は在米大使と頭を悩ませていると聞く。殿下や直虎さんも口には出さないものの、疲れを隠しきれていない。
そこで相手のことを知るには物理的な距離を近くした方が良い、具体的には相手に行動を近付け、考えに寄り添うことから始めてみようという提案をした。
第一歩が日本から持ってきた食材を使うことを止めて朝食を真似てみた、のだが、余計殿下を悩ませてしまったのではないかと思ってしまう。
「次の手を考えないとな」
気晴らしか、あるいは資料か。
どちらも用意するのは簡単ではなさそうだ。
「……ごちそうさまでした」
食べ終えた殿下に合わせて直虎さんも準備を始める。
ホワイトハウスへの出勤は午前九時。その前に殿下と直虎さんは外務省職員や政府関係者と打ち合わせがある。今日からは城山首相もオンラインで参加するというのだからかなりの念の入れようだ。
この打ち合わせに俺は参加しない。
食事を作り、二人を見送った後は自室に戻って日本から送られてくるメールに目を通す。そのあとで殿下の見送りに近くのカフェまで出る。それだけだ。
城山首相に頼めば話し合いの方向性くらいは教えてくれるかもしれないが、脳裏に鷹司の顔が過ったのでやめた。
俺が関わるとロクなことにならない。
このままでいい、今は殿下のサポートに専念しようと自分に言い聞かせていると、準備で忙しいはずの殿下がこちらをじっと見ていた。
「殿下、どうかなさいましたか?」
「……なやんでいますか?」
「そうですね」
貴女のことで、と付け加える前に我が主様は駆け寄ってくると、俺の手を引く。
「殿下?」
「……こっち、です」
連れていかれた先はこれまた米国人の規格に合わせられた大きめのソファー。
嫌な予感がした。
殿下はソファーの上で正座をすると手招きをする。
「私が悩んでいる原因は殿下です。お忙しそうなので何か気晴らしでもあればと……」
「……でも、なやんでいます」
「原因は今申し上げました。いつもの場所でお見送りも致します」
「……なやんでいます!」
いつにない語気で太もものあたりをぺちぺちする。
溜息しか出ない。
「殿下、我儘をおっしゃらないでください。直虎さんもいるんですよ?」
「……なおとら」
「ははっ!」
「……すこし、はずしてください。さかきがはずかしがっています」
「承知しました!」
後ろで事の成り行きを見ていた臣下は背筋を伸ばして従い、部屋から出ていく。
最近の殿下はあまり遠慮しなくなってきた。
「……これでだいじょうぶ、です」
「あまり感心しません」
諦めて膝枕を賜る。
髪を撫でられ、顔を触られる。細い指先の向こうに見える殿下は満足そうだ。
「まぁ、いいか」
これで機嫌が良くなるのなら。
そう自分に言い聞かせ、この気恥ずかしい時間を耐えることにした。




