刃の先にあるもの(六)
体の複数箇所を同時に動かす、というのはかなり難しい。
手足という末端だけではなく、腰や肩といった体の基幹ともいえる部分を動かすには理屈だけではできず、反復練習が重要になる。
体得するには、それまで週に二、三度だった道場通いを増やさなければならないほどになる。毎日同じ時間というわけにもいかず、早朝や深夜になることもあったが道場はいつも開いていて、自由に使わせてもらった。
「熱心だな」
どんな時間に行ってもしばらくすると迅彦さんが顔を出す。
さすがにスーツを着たまま居合いはできないので筒袖と袴を持っていくと、
「似合わねぇな」
「着慣れないものですから仕方ありません」
「褒めてんだぞ。ある種の擬態だな」
妙な感心のされかたをした。
居合いについては咲子さんが丁寧な説明をしてくれたが、できない部分も出てくる。
すると迅彦さんが俺に合わせて動き方を変えるようにアドバイスを貰う、という形で進んだ。どうやらこちらの動きを事細かく見ていたらしい。
しかし、基本的な部分について方針は変わらない。
「努力すればできないことはありません」
という至極真っ当な言葉に従って稽古を続けること一か月、ようやく形だけは咲子さんと同じ動きができるようになる。
形ができれば、あとは実践というのが裂海流、ここからが容赦ない。
互いに真剣を手にしての稽古になる。
「っ!」」
わずかな咲子さんの動きに、仕掛けに誘われて先に仕掛けるが、
「……応っ!」
瞬時にこちらの動きを察知し、身を低く、あるいは捻り、反らせながらも柔軟な体でどこからでも斬撃を放ってくる。
咲子さんの技は多彩ではない。抜いて切る、という単純な動作をしているだけなのに、相手の観察、間合い、呼吸、体術とが組み合わさり、人間が出せる限界の速さで迫ってくる。覚めているからこそ体術くらいは追えるが、その瞬間には切られていることが多かった。
それでも、数をこなせばこちらがどういう角度で、相手のどこを狙うと、後の先がどこにくるのかが分かってくる。
居合いで対峙すると、刀の軌道を予測し合い、打って出るタイミングくらいは掴めるようになった。
「鋭っ!」
「くっ!」
先の先、喉もとを狙った刀の軌道を、足の指を床に食い込ませて踏みとどまり、こちらが後の先を放つ。当然避けられるのだが、はらりと黒髪が数本落ちた。
咲子さんが刀を収めて微笑む。
「今の動きもタイミングも悪くありませんでした。体の動かし方が馴染めば首が狙えるでしょう」
物騒な褒められ方をする。
道場の隅で見ていた迅彦さんが手を叩いた。
「咲子の言う通りだ。悪くねぇ」
「勘は悪くないようです。あとは経験を積み、毎日の研鑽を怠らないことです」
怒られたり睨まれたりしていることが多いせいか、咲子さんに褒められるのは慣れない。
驚いていると迅彦さんが隣まで来て肩を叩く。
「素直に受け取っておきな」
「あ、ありがとうございます」
「謙虚は美徳だが、何事も過ぎると己の目を曇らせる。ほどほどにしておきな」
「分かりました」
「そうそう、若者はそうでなくちゃいけねぇ。素直もまた御しやすし、ってな。お前さんは扱いやすくていいや」
「……褒めてます?」
「当然だろ。もういい時間だ、稽古はこれぐらいにして、飯を食っていきな」
時計に目をやると二三時を過ぎている。
来たのが十九時だったので長居をし過ぎてしまった。
断ろうと咲子さんを見ると、こちらはまだ何も言っていないのにため息をつかれた。
「優呼の弟子が遠慮をするものではありません」
「そうだぞ、食べてやらねぇと今日も今日とて気合入れて仕込みをした咲子が浮かばれねぇ」
「お、御爺様!」
「榊よ、若いってのはいいもんだな!」
もう口論する気力は残っていなかった。
◆
先に風呂に入ってこい、と迅彦さんに押し切られる形で裂海家の大きな檜風呂に一人で浸かり、なんとも落ち着かない状態で居間に戻る。
もう何度目かになる裂海家での食事、大きな四角い座卓に並ぶのは和食、ではない。
蒸した野菜、内側と外側のコントラストが見事なローストビーフにマッシュポテト、スープ、ミートパイ、メインは山と積まれたサンドイッチ。
「味は保証するぞ」
「いただきます」
迅彦さんの号令で食べ始める。
スープで口を湿らせてから蒸し野菜、ローストビーフと食べ進める。サンドイッチに使われるパンの内側にはバターが塗られ、挟んだ具材の水分が移っていない。
とても丁寧で、味や見た目、細部まで気配りがされたもの。味は言うまでもなかった。
「美味しいです」
「御爺様から、榊さんは明日も朝早くからお仕事をされると伺いました。ですから、消化によく、食べやすいものを用意しました」
気配りに涙がでそうになる。
我が上司にこれができれば嫁の貰い手がいないと本家の人間たちが嘆くこともないだろう。
「遠慮しないでくださいね。まだありますから」
「ありがとうございます」
咲子さんの言葉通り、並んだ料理は柔らかく味付けも強くない。出汁や下味がしっかりとしていて物足りなさを感じないのも大きい。
「咲子、俺はこんなに要らねえぇぞ」
「御爺様はこの頃飲むお酒の量が多いです。皆に稽古もつけるのですからきちんと食べていただかないと体力が落ちる一方です」
「いいんだよ、これで。俺みたいな年寄りは衰えて後進に道を譲るのが筋だ」
一升瓶から湯呑へ酒を注ぎ、一息に飲み干す。
着流しの帯には脇差がある。つまり、酔ってはいない。それどころか、今もかなりのエネルギーを使い続けていることになる。
こちらの視線に気づいたのか、迅彦さんは目を伏せ、ひらひらと手を振った。
「へっ、観察するのはいいがされるのは勘弁だな。咲子、俺は先に寝るぞ」
「あっ、御爺様!? もう……」
遠ざかる足音に咲子さんがため息をつく。
個人的にはあまり二人きりにしないでほしい。会話が保たない上に想像力豊かな人だ。また妙な勘繰りをされても困る。
そうと決まればさっさと食べておいとましたい。
「あの、榊さん」
「はい?」
普段なら黙って食べるのを見ているだけの咲子さんが眉根を寄せている。しきりに障子戸の向こうや、あたりを気にしているのが分かった。
「私からこのようなことを伺うのは礼儀に反することです。ですが、どうしても聞いておきたいことがあります」
「な、なんでしょうか」
「優呼のことです」
「優呼の?」
「あの子は、この先大丈夫でしょうか?」
「……!」
「あの子は何と戦い、どうしてああなってしまったのでしょうか。御爺様は何も教えてくれません。ただ、国のためだからと……」
あまりに切実な問いに思考が止まる。
眉根を寄せ、懇願するかのような姿は姉というよりも母親にさえ見えた。
「知ってどうなるものではないことも分かっています。ですが、こんなことが続くのならば、あの子は御爺様と同じになってしまう。いいえ、女であれば、もっと悪いかもしれません」
咲子さんが顔を伏せる。
近衛の動向は機密だらけだ。
極めつけは俺が関わっているということ。
「知ってさえいれば耐えられるかもしれません。でも、知らずに、あの子の苦しみをなにもしらないまま、逝ってしまうのはたえられません。榊さん、どうかお願いです。教えてください」
咲子さんは優呼の姉であり、迅彦さんの孫だ。
身内として打ち明けてもいいのかもしれない。だが、俺の心の中にいる裂海優呼が眉を吊り上げている気がして、はばかられた。
どういえばいいだろうか。何を話してあげたら、咲子さんは安心してくれるだろうか。
まったく、こんな役目を押し付けるなんて、退院したら書類で埋めてやる。
「咲子さんは、優呼のことを大事にしている」
「当然です! あの子は妹で、不器用で、泣き虫で、可愛い子なんです!」
「そんな妹からしたら、自らの苦しさや立場を姉に話すのは躊躇われるのではありませんか?」
「! そ、それは……」
「絆は、深まれば深まるほど良いのですが、同時に、傷も共有してしまう。体も、心も、互いに消耗してしまうでしょう」
「私なら大丈夫です!」
「そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない。優呼からすれば、大好きな姉を自分のために傷つけてしまうのは本意ではない。だから、あえて何も話さないのではありませんか?」
「……」
「それを私から話してしまったのでは、優呼の考え、意志を蔑ろにすることになる。私は弟子として、戦友として、そんなことはできません」
「でも……でも……あの子は……本当は優しくて、繊細で、刀なんて……」
咲子さんに縋りつかれ、後ろ頭を掻いた。
罪悪感が募る。
悩んでいると、口が勝手に動いた。
「彼女一人の問題であるなら、咲子さんの心配を優先してお話ししたでしょう。ですが、前にもお話しした通り、近衛は一人ではない。鷹司も、直虎さんも、青山さんや宗忠、私、もっと多くの仲間がいます。彼女を一人になんてさせない。一人で苦しめはしません」
「鷹司さんはお話に聞くばかりで実際に腕を見たことはありません。立花も同じです。青山は要領が良いばかりで地力が足りない。それに……榊さんの弱さを見ていると、近衛の質に問題を感じます」
さすがは師範代、鷹司や立花姉弟はともかく、同じく裂海門下である青山さんにも容赦がなかった。
彼女から、いや、裂海優呼の姉からすれば不満もあるだろう。
「そればかりは……なんとも言えません。私だけのことでしたらこれからも努力を続けることを条件に、見逃していただきたい」
「それでは優呼と結婚して、裂海の家に入っていただけますか?」
もう、発想の飛躍が怖い。
それに優呼との結婚という言葉が結びつかなくて困った。
「優呼は……」
「もうすぐ二〇歳になります。早くはありません。榊さんが弱くても、裂海家に入り、優呼を支え努力をし続けるというのであれば考えます」
「あー、いや、その、私からはなんとも……」
「あの子が嫌いですか? 少なくとも、弟子と名乗らせるからにはあの子は嫌っていないはずです」
どうしよう、こんなところで人生を決めたくない。
悩んだ末に浮かんだのは殿下の顔だった。
「残念ながら、私は日桜殿下に忠誠を誓っています。結婚という大事を殿下に報告なくすることはできません」
「口約束でも構いません!」
「……それに、優呼のことを考えてあげてください。彼女にだって好きな人がいるかもしれません。私が勝手に名乗りを上げることはできません」
「……男の人はそうやって逃げるのですね」
「誤解です」
咲子さんが不満そうな顔をする。
何とか追及は乗り切っただろうかと思っていると、耳慣れない音に気付いた。
「榊さんは優呼のことをどう思っていらっしゃるのですか?」
「あの、咲子さん」
「言い逃れですか? ここに殿下はいらっしゃいませんよ」
「違います。ちょっと待ってください」
音の正体を追って天井を見る。
すると、そこには天蓋板をずらし、こちらを覗き見ている目が見えた。
ここは天下の裂海本家、犯人は決まっている。
「迅彦さん?」
「御爺様?」
咲子さんが俺の視線を追って天井を見る。
暗闇の奥で白髪が揺れた。
「さすが現役近衛だ。盛り上がっていても五感は冴えているな」
ガハハ、という笑い声に咲子さんの目が据わるような気がした。
「御爺様」
「おお、咲子、隣に床は用意してあるぞ。やっぱり若いもんはこうでなくちゃな!」
「そういうことではありません!」
飾ってあった刀を手にして、咲子さんが天井を突き刺し始めた。
「危なかった」
冷や汗とため息は騒音に消える。
「実践的聖母さま!」を毎日掲載しています。
そろそろ文字数も溜まり、読みごろになってきています。
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