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◆ブラウン③

 カレッジ時代から住み続けた、狭い部屋を引き払った。もう家賃は払えなかったから。


「ブラウンさん、簡単なお仕事でいいの。始めてみたら?」


 実家に戻った俺に、母さんは何度も働くように促してきた。しかし、俺の耳には入ってこない。ただ、曲を作るだけ。作れば、すぐに家を出て、もっといいところに住むのだから、関係なかった。セエナを捨てた俺には、それしか残されていないのだ。しかし――。



「……書けない」


 道は閉ざされていた。どんなに曲を作ろうと思っても、その感覚がまったく動かない。まるで、その能力が俺の中からごっそりと抜け落ちてしまったみたいに。


「今まではできたんだ。どんなに下らないものでも、作品として完成させられたはずなのに!」



 何かを失ってしまった。才能なんて言ったら烏滸がましいのかもしれない。だが、そういった感覚が俺と言う人間の中から、完全に失われてしまった。


「おかしい。何かがおかしい!」


 今までどうやって作ってきたのだろう。感覚を取り戻す、きっかけになるかもしれないと、新人賞を取った、あの曲を聞き返してみた。



「……なんだこれ?」


 まるで、聞き覚えがない。いや、他人が作ったみたいに、俺という人間の延長に存在するものとは思えなかった。


「そんなはずはない。俺が作ったんだ。すぐに取り戻してみせる」



 俺は初めて作った曲から、順々に見直すことにした。十年と言う月日、俺が何をしてきたのか。それをひとつひとつ手に取って確かめる作業を、どれだけ続けたのだろう。たまたま鏡を見ると、髪も髭も伸びきって、別人が俺を見ていた。やはり、変わってしまったのだろうか。



「そういうことか」


 俺は気付いた。俺が十年間ずっと作り続けてきた曲の根幹にあるものを。


「全部、セエナのために書いた曲だったんだ……」



 初めて書いた曲も、有名になろうって切磋琢磨した日々の曲も、新人賞を取った曲も、苦しい泥の中でもがくように作ったあの曲も……そのすべてにセエナがいた。


「俺は彼女がいたから、書けたんだ。それなのに……」


 それなのに、彼女はもういない。どこにも。



「じゃあどうするんだよ!」


 テーブルの上に並ぶ楽譜や音楽データを払いのけた。だが、俺の胸に残るのは後悔だけ。彼女に電話をかけた。だが、その番号は使われていない、というアナウンスが流れるだけ。


「だったら、俺は何を捨てたんだ……」



 ただ曲を書くために、すべてを捨てたと思っていた。だけど、違ったのだ。俺は自分の力そのものを放棄していただけ。そんな俺に何が残るのか。


「ねぇ、ブラウンさん。簡単な仕事からでいいから。働いてみましょう? ねっ?」


 母の言葉が耳に入ってこない。聞こえるけど、どこか遠くでぼんやりと聞こえてくる感じ。あ、たぶん……働いてほしいって言っているんだ。これから、俺は働けるのか? 友人たちの言葉が脳裏によぎる。



「本当に夢を叶えてくれたんだな」

「お前は特別だと思っていたよ」

「もっと有名になったら奢ってくれよ」



 彼らの言葉も裏切るのか。いや、違う。俺は笑われることを怖がっているだけだ。結局、何も成し遂げられず、安月給で日々を過ごす姿を見せて、笑われることを。


「あれだけ大口叩いて、やっぱりその程度なんだ」


 やっぱりその程度。それが怖い。じゃあ、どうする? 俺にできることは……。



「ダメだ、書けない。何も浮かんでこない!!」


 今日も朝が来る。人々が営みを始める朝が。だけど、俺一人は布団の中で丸くなって、ずっと呟き続けるのだ。


「セエナ、お願いだよ。帰ってきてくれ。俺のところに帰ってきてくれ。そしたら、俺はもう一度……今度こそ君との約束を守るから」



 しかし、俺の頭の中にもう一つの疑問があった。本当にセエナが戻ってきたら、俺は約束を守れるのだろうか。答えは否だ。セエナが隣にいたあのときも、俺は誰かを感動させる曲なんて一つも作れなかったのだから。


「あれ、雪が降っている」


 最近、部屋の外を見ると雪が見えた。いや、部屋の中でも雪が降っている。宙に舞う白い粉雪を見ながら、俺は思った。


「十年も何をしていたのだろう。俺は人が手にするはずの幸せを、どれだけ棒に振ってきたんだ……」


 分からない。もし、やり直したとして、俺は普通の幸せを幸せと思えたのだろうか。


 まぁ……考えても無駄か。どうしたって、時間は戻らないのだから。

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