第97話
プレヴラの脱獄騒動のせいで、散々な一日になっちまったぜ。
陰険さだけが取り柄のあいつにかまっている暇も余裕もないんだから、無駄な脱獄なんてしないでほしいよな。
心の中で文句を言いながら自分の部屋へ戻る。宮殿のだだっ広い外廷を探し回ったせいで、身体はくたくただ。
「だりい」
全身が鉛のように重い。耐え切れなくなって、天蓋のついたベッドへ倒れ込んだ。
朝に聞いたセイリオスと帝国の噂が気になる。
信憑性が高いとは言えない情報だから、鵜呑みにするのは危険だ。だけど、この国やイザードで起こされた騒動とその顛末を考えると、やっぱり無視できないんだよな。
ベッドの上で腕組みして考える。
帝国へ渡航できるようにシャロへ便宜を図ってもらうか? 宮殿を無断で抜け出すわけにはいかないもんな。
あいつとの会話のシーンを連想する。
『なあ、シャロ。帝国へ行かせてくれないか?』
『はあ? 貴様は出し抜けに何を言っている。そんな要求を承認するわけがないだろう』
頭の固いあいつのことだ。まずは頭ごなしに断られるだろう。だから、帝国でセイリオスが目撃されたことを聞かせてやると、
『なにっ!? それは真実かっ』
と食いついてくるから、
『ああ、本当だよ。この耳でしかと聞き遂げたんだからな』
ドヤ顔で言い切ってやるのさ。
するとシャロは、気難しい顔でしばらく考えて、こう言い返してくるだろうな。
『その話はどこで聞いたのだ』
むむ。話がまずい方向へ進みはじめたぞ。
『フィオスの討伐隊の人たちが言ってたのを聞いたんだよ。セイリオスの連中が帝国にいたってな』
『フィオスの討伐隊から聞いただとっ? 討伐隊は外へ出払っているんだぞ。それなのに、なぜ貴様が彼らから話を聞き出すことができるのだ』
『それは、朝にセラフィと宮殿を抜け出して――』
こんなことを暴露したら、あいつに好餌をあたえるようなもんだ。俺の言い分を少し変更して、
『討伐隊の人たちが宮殿に帰ってきてたんだよ。それで――』
『そんなはずはない。貴様のくだらん論法にはだまされんぞ』
あんのやろお。あいつはなんでこんなに鉄壁なんだよ。融通が利かなすぎるだろ。
そんなことがあると食い下がっても、あの鉄壁を切り崩せることはなく、結局セラフィと宮殿を抜け出したことを俺がうっかりしゃべっちまって、あいつと途方もない口喧嘩が俺の脳内で勃発してしまった。
だめだ。シャロに便宜なんて図ってもらえねえよ。
しかし、だからといってここで指を銜えているわけにはいかないわけで。
イザードでイーファさんの冷たい身体を抱きかかえて、俺は決意したんだ。フィオスのくだらねえ野望を阻止すると。
そうだっ。脳内でシャロに言い負かされている場合じゃない。不屈の闘志で行動するんだっ。
簡単な荷造りと、黒髪を隠すためのバンダナ。そして腰に剣を差して準備完了。セラフィやアビーさんに置き手紙を用意した方がいいのか?
でも机に手紙を置いていくなんて、恥ずかしいな。俺の柄でもないし。
ああ、もうっ。恥ずかしいけど、一応書いておかねえとまずいだろ。セラフィはともかく、アビーさんには世話になってるんだから。
アビーさんから前に教えてもらった、簡単な挨拶を紙に書く。後は、フィオスを止めに帝国へ行くと書けばいいか。
高級ホテルに設置されていそうな扉を開ける。常夜灯で照らされる廊下はまるで夜の学校だ。
こんなときにプレヴラがあらわれたりしないだろうな。この宮殿にも微妙に怪談があるから怖いんだ。
丑三つ時に内廷で人影を見た、とか、後宮ですすり泣く女性の声を聞いた、とか、内容は割とテンプレートなものばかりだけど、夜に出歩くとそういう話が途端に思い返されるから嫌なんだ。
不運にも怪奇現象に遭遇したら、今日は見合わせ――いや、だめだっ。そんな理由で弱腰になってはいけないっ。しっかりしろっ!
見回りの人たちにうっかり見つかりそうになりながら、外廷の外へ出ることに成功した。鉄紺色の空には星屑のような光が散りばめられている。
この世界の夜空は絶句するほどきれいだ。何回見ても、この感想は変わらない。
空気の澄んでいるこの世界だから見られるんだろうな。スマートフォンが使えたら写真に残したいぜ。
そういえば、この世界にも星座ってあるのかな。ぱっと見、あちらの世界と星の配置が異なってる気がするけど、俺が星座を知らなすぎるせいかもしれない。
宮殿は二重の防壁によって防備されている。宮殿の前には広大な中庭があって、その向こう側に内側の防壁と巨大な門が設置されている。
内側の門の向こう側に、師士のおっさんたちの使う師獣を管理する小屋がある。
宮殿を抜け出すのなら師獣を拝借しなければならない。そして、この時間なら内側の門が開いている。
建物の陰から内側の門を見やる。幸い見回りの人はいない。外へ出る絶好のチャンスだっ。
高速かつ忍び足で門を抜ける。しばらくして見回りの人たちがおしゃべりしながら帰ってきた。
危ねえ。タイミングが少し遅れてたら絶対に見つかってたぜ。
内側の門の外側も、ものすごく広い中庭が辺り一面に伸びている。
この宮殿は規模が無駄に広大なんだよな。庭にしても、建造物にしても、従事する官吏の人数にしてもだ。
その割りにセキュリティが緩いから、フィオスのような犯罪人の侵入を許しちまうんだろうけども。
師獣の小屋――正式な名称は知らないが、小屋にも人がいない。小屋に忍び込んで師獣を無断で使用するのは簡単だ。
腿のあたりが急に重くなる。
だれの許可もなく宮殿を抜け出していいのか? 師獣を無断で持ち出せば、俺は宮殿の規則を犯したことになるんだぞ。
無人の小屋を眺めて、冷静な俺が急に制止を呼びかける。
やっぱり無断で宮殿を抜け出すのはまずい。シャロを説得するのはものすごく嫌だけど、正しい手段で宮殿を出た方が――。
「えっ!?」
視界の外から小屋の中へ駆け込む影があった。そいつは少しもためらわずに小屋へ入っていったぞ。
もしかして盗人か!? いや、しかし、宮殿の外側の門はがっちり閉ざされてるから、盗人が入れるはずはないんだが。
こんなところでぼんやりしている場合じゃない。盗人を早く捕まえないとっ。
盗人は子どもみたいに背が小さかった気がするが、街のがきが忍び込んだのか? 宮殿の門が今日は開いてたのかもしれない。
あちらの世界の馬房のような室内は、獣っぽいにおいが充満している。小学生の頃に行った動物園を思い出すな。
師獣の入る房が左右にずらりと並ぶ通路。その終点で騒がしく動き回っている何かがある。鷲のような師獣と、師獣の轡につながれた手綱を引っ張る子どもの陰だった。
いたっ! あいつが盗人だっ。
胸の真ん中がどくんと跳ね上がる。
盗人は嫌がる師獣を強引に連れ出そうとしている。「もうっ」とか、「早くっ!」と慌てふためく声が聞こえてくる。
外から忍び込んできた割りには、えらく手際が悪いな。
師獣は灰色の体毛と大きな体躯が特徴的な、シトリという獣だったはずだ。この世界に来た直後に乗ったことがある。
盗人は薄いピンク色のスカートを穿いていた。上半身はカーディガンを羽織っているだけ。防寒対策をまるで考えていない身なりだ。
これからシトリに乗って寒空を旅立とうというのに、ずいぶんと呑気なやつだ。
髪は紫がかった銀色。いつもわけのわからない髪型にするか、または宮殿のメイドさんによって手入れされているのに、今日は遠目でもわかるくらいに振り乱している。
「なに、やってんだ」
俺の口から呆然と言葉が漏れる。シトリを連れ出せないで焦りまくっているセラフィの肩が、びくりとふるえた。
「あ、アンドゥ」




