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第73話

 だが、異変はその日の夜に起こった。


 夕飯を食べ終えて、城内の人たちが寝静まる頃。夜の九時を過ぎたときだった。


 俺はいつものように夜更かしする気で満々だったので、部屋に置かれたソファに寝そべって、無駄な起床時間をだらだらとすごしていたが、どこかで急に悲鳴が聞こえた。


「なんだ」


 反射的に起き上がった俺の背中に、とてつもなく嫌な気配がしたたり落ちる。


 工事現場とかにありそうな泥を、凝固点のぎりぎりまで冷やしたような、想像しただけでぞっとする液体を、シャツの隙間から流し込まれているような感じがしたのだ。


「まさかセイリオスの連中が!?」


 いや、そんなはずはない。だって城の警備は万全だし、夕方にもセラフィとアビーさんといっしょに、今日も安全だったことをこの目で確認したじゃないか。


 だからセイリオスの連中が侵入してくるなんて、絶対にあり得ないんだ。


 それなのに、足もとから全身にかけて這い上がってくるこの嫌な感じはなんだ。


 俺の直感が全身に危殆を訴えている。


 こうしてはいられない。俺はもやもやする頭をふり払って部屋を飛び出した。机に置いていた剣と刻印術の紙を乱雑につかみとって。


 廊下に出ると、寝巻き姿の官吏の人やメイドさんたちがその辺を行ったり来たりしていた。みんな顔が真っ青で、近くの人に声をかけては「さっきの声は!?」とか「もしかして襲われたの!?」と恐怖に慄いている。


 すぐそこに薄いピンク色の可愛いパジャマを着た人がいたので、もしかしてシャロなのかと思ったけど、顔をのぞいてみたらアビーさんだった。


「アビ――」

「ひゃっ!」


 アビーさんは最近のアニメの妹キャラみたいな声を出したが、相手が俺だとわかると安心したのか、俺の腕をつかんだ。


「ごごご主人さま。さっき、あの、ひひ悲鳴のような、ものが」


 わかりやすいくらいに怖がってるな。足なんか、肉眼ではっきりと視認できるくらいにガタガタとふるえているし。


 お化け屋敷に無理やりつれてこられた後みたいになっているけど、今からこんな様子で平気なのか?


「だいじょうぶか?」

「わわわたし、こういうの、本当にダメなんです」


 こんなに怖がりなのに、この前はよく王家の証を盗み出したよな。……と感心している場合ではない。


「アビーさんは安全なところに隠れているんだ。セイリオスの連中に遭遇したら変化へんげを解いて逃げるんだぞ」

「は、はい」


 敵に侵入されちまったんだとしたら、城の中にいても危険だが、こんな夜中に外へ飛び出させるわけにはいかない。


 他のメイドさんや文官の人たちも戦えなそうだったので、避難するように言いつけて、俺は突撃だ。


 高校の廊下みたいに長い回廊がわずらわしい。ここを走り抜けると一階のロビーに差しかかるが、それまでに何人もの官吏たちとすれ違う。


 官吏たちは俺の進行方向と正反対、つまり城の裏側へと逃げているようだ。だれもが恐怖に慄きながら。


 この連中はみんなイザードの文官だ。この中には、前に王の間で俺とシャロを嘲笑したやつもいるかもしれない。だが、そんな小さいことにとらわれている時と場合じゃない。


 ロビーの階段の近くに、寝巻き姿で帯剣している王師の人たちがいる。その人たちが目を怒らせて、剣をふりまわして戦っている。


 相手はあの黒い影みたいな連中だ。ああ、やっぱり侵入されていたんだ。


 セイリオスの連中は黒い布で顔を隠して王師と戦っている。獲物は両刃の西洋剣だ。


 連中は剣を持たない官吏や女性にも襲いかかっている。相手が泣き叫ぼうが、悲鳴をあげようが容赦なしに。


 あいつらにとっては、相手なんてだれでもいいんだ。あいつらには人間の感情が通っているのか。


 それと、城門の閉ざされた城内にどうやって忍び込んだんだ。


「ユウマさん!」


 真後ろからいきなり声をかけられて、俺は心臓がリアルに飛び出すかと思った。


 驚きを隠してふり返ると、イーファさんがそこに立っていた。イーファさんの服装は寝巻きじゃなくて、いつもの司祭然とした姿だった。


「ごめんなさい。驚かせてしまって」

「あ、いえ……じゃなくて!」


 思わずノリ突っ込みをしてしまった。


「なんでこんなところに来たですか!? ここにいたら危険ですって」

「けど、悲鳴がしたので、わたしも何か力添えできないかと思って」


 それでこんなとこまで来たのかよ。勇敢な人だな。顔なんて真っ青なのに。


 気持ちは嬉しいけど、イーファさんを戦わせるわけにはいかないぜ。


「だいじょうぶです。わたしにも刻印術の心得がありますから。戦うのは苦手ですが、足手まといにはなりません」


 今にも貧血でたおれそうなのに、なかなか剛情な人だ。それならもう仕方ないか。仲間が近くにいた方が心強いしな。


 それにしても、刻印術といえば、


「そういえばセラフィは!? あいつはどうなったんだ」


 あいつの部屋は二階の、テレンサやマリオの部屋の近くだ。


 あそこは二階の一番奥にあるから、簡単には侵入されないはずだが――。


「きえェェ!」


 俺の存在に気づいたセイリオスのひとりが斬りかかってきた。大きくふりかぶって、上段からの袈裟けさ斬りだ。


 俺も腰の刀を抜いて応戦する。いつも隅っこの方でびびっているだけの腰抜け野郎だと思うなよ。


「死ね!」


 相手の大振りを冷静に見抜いて、刀の刃先が右上にくるように持ち方を微調整する。相手の右上からの袈裟斬りを刃で受け止めて――その直後に反撃!


「くっ!」


 これが相当な不意打ちだったのか、相手は俺の横薙ぎ払いで腹のあたりを斬られて苦悶する。俺もやればできるじゃないか。


 俺はふところに忍ばせておいた刻印術の紙をとり出して、間髪入れずに追撃する。術を発動させると三本の縄が出現して、相手を即座に縛りあげた。


 大分前にセラフィから教えてもらった、縄の刻印術だ。この術は意外と利便性があって使いやすいのだ。


「ユウマさん。すごいですね」


 後ろにひかえていたイーファさんが、ぽかんと口を開けていそうな感じでつぶやく。ちょっとうまくいきすぎたかな。


「こう見えても、一応セラフィのボディガードですから」

「そうですか。それは心強い――あ!」


 イーファさんが声をあげるのとほぼ同時。俺の背中を突風のような何かが横切った。


 あいつだ。この前シャロと互角にわたりあった、セイリオスのリーダーの男だ。あの男は走り幅跳びの選手みたいに跳躍すると、王師の人たちの頭を踏み潰して、その後ろにある階段を駆け上がっていく。


 両手にぶら下げているのは、カットラスみたいな小ぶりの剣だ。あいつは俺たちを無視して、セラフィのところに行く気だ。そんなこと、させてたまるか!


「ユウマさん!」

「わかってますよ。ついてきてください!」


 王師の人たちには悪いが、この場を勝手にまかせて俺は男の後を追った。

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